Poison
目が覚めた時には、8時半を過ぎていた。部屋は寒いけど、カーテンの隙間から外を見ると、青空が広がっていた。
僕がこんな時間に起きるのは珍しい。昨日まで合宿で5時起床という、規則正しい生活を送っていたので、アルバイトで夜型にしている僕のリズムはかなり狂っていた。
「……」
――しまった、バイトをしていないから、合宿が終わったら、家に飯が無いんだ。
別に今は平気だけど、長く続くと死活問題になってくる。早くバイトに復帰しないと。
洗面所に行き、染みるように冷たい水で顔を洗い、歯を磨く。普段はあまり使わないワックスを髪に付ける。
部屋に戻り、昨日合宿で使った鞄から、メモ用紙大の掛線入りのピンクの便箋に、女性らしい丸文字で、こう書いてあった。
『明日10時に○○公園で待ってます。タカハシ・ミズキ』
この手紙は昨日僕が学校から帰る時、僕の下駄箱に入っていたものだ。僕が携帯を持っていないのは割と知られているから、こんな伝達方法をとるしかない。
「……」
情けないことに、まだ僕はミズキの下に行くのを迷っていた。
彼女に会って、時の流れに身を任せていれば、もしかしたら僕の心のしこりを取り除いてくれるかもしれない、なんて。
この考えは間違っているのか……
誰かに自分を助けてほしいなんて、最近まで思ったことが無かったから、どうやって人に頼っていいかわからない。心が重いのは、今日、僕が愚を演じることが、何となく想定されるからかな。それとも、はじめからミズキを利用する気で会うことがうしろめたいのか。
「……」
馬鹿馬鹿しい。昨日、自分を優しい人だとか言われたから、良心が痛んでいるのか。
もう、関係ないじゃないか。このままじゃ僕は先へは進めない。もう長い間、僕はこうして、この場から抜け出せずにいる。
考えたら、こうして誰も傷つけずにきたことで、自分が傷ついてきたのかもしれない。人が僕を傷つけるのに、何故僕は人を傷つけるのが嫌だと思う?
変わるために毒を飲まなくちゃ。僕に今必要なのは、傷つくことを恐れず、毒を飲む覚悟。
指定の公園は、家から自転車で20分はかかるほどの町外れの国立公園だ。まだ9時前だけど、どこかで朝飯を食べていこうと思い、僕はダッフルコートを羽織り、もらい物のブーツを履く。
リビングに母親がいたけれど、スルーして玄関に降りる。
「……」
リュート――遂に一日帰ってこなかった。いつも玄関に降りると、僕を出迎えてくれるのに。
だけど、あいつが家からいなくなったのに、この家は何も変わらない。悲しむのは僕だけだ。
あいつがいなくなったら、僕のことを心配する奴はもういない。
だから、もう自分がどうなっても構わない。どこまで堕ちていってもいい、いつ死んでもいい。
手袋とマフラーをして、冬の街に自転車を発進させる。
1週間、外界から隔離されていたから、今になって今日がクリスマスなのだと実感する。繁華街を外れていくのに、今は一般家庭でも家をライトアップしている。そんな家を何件か見ることができた。
別に僕はクリスマスに思い出があるわけではない。家ではツリーも飾ったことはないし、プレゼントももらったことが無い。
だから、いまだにクリスマスという日は、隣家の騒音のような感覚を味わう。自分には場違いで、何を求めればいいかわからない。どんな日なのかも正確にはよくわかっていない。
僕はコンビニでカロリーメイトと缶コーヒーの朝食を買い、店の前で腹におさめ、また公園へ向かう。
公園は、川沿いにだだっ広い芝生が広がって、その真ん中をマラソン、サイクリング用に一本の道が通っている。金網で区画されたテニスコートや、ラグビー場があり、広い芝生の向こうには、多分200メートルは離れているだろう。野球用のバックネットが見える。土手が舗装され、川原沿いはごろごろした石が残る、自然のままの姿を残している。
家族連れがフリスビーをしたり、大学生の集団がテニスをしたり、女の人まで混ざる草野球チームがキャッチボールをしたり、おじさんが長靴を履いて、釣り竿をキャストしている。
その中で、ベンチで愛を語らうカップルがいたりする。これだけ色んな人がいると、クリスマスってのがどんな日なのかわからなくなりそうだ。
僕は木枯らしに吹かれ、もう黄色くなった芝生に腰を下ろす。愛用のGショックに目を通すと、9時47分だった。
早く着きすぎてしまった。僕は芝生にそのまま上半身を倒す。
「……」
普段屋上で昼寝している時も、空を仰いで雲が流れていくのを見ている。屋上よりも空が遠ざかったような感じだ。校舎の高さは雲が浮かんでいる高さの百分の一も近づいていないだろうに。
青臭い臭いが鼻孔を突く。子供達の笑い声……雲はさっきから同じスピードで、僕の視界の左から右へ……
その単調なリズムを眺めていると、何だか瞼が重くなってくる……
僕は目を閉じる。
「……」
しばらくそうしていたけれど、目を開け、上半身を起こして後頭部を掻く。
「やっと起きた!」
後ろから声がしたので振り返る。蜂蜜色の長い髪の細身の女性、タカハシ・ミズキがいた。
「――やっと?」
僕は目を擦りながら、時計に目をやる。
時計は11時13分を示していた。
「あっ……あれ?」
一気に寝呆けた思考がクリアになる。いつの間にか僕は眠ってしまったのか。
「――いつから来てたの?」
僕は重くなった頭を軽く振ってみてから聞く。
「待ち合わせは10時でしょ?」
ミズキは僕の横にしゃがみ込む。
「……」
ということは、彼女は一時間以上、僕が起きるのを待っていたのか?
「起こしてくれてよかったのに……」
僕が言うと、ミズキはいたずらっぽく僕の顔を覗き込む。
「寝顔、可愛かったから」
「……」
何なんだ一体。この娘は僕の事を、昨日から子供みたいとか純粋だとか……
「でも本当によく寝てたね。鼻を塞いでもまだ寝てたもん」
ミズキは鼻をつまむ仕草をしながらくすくす笑う。
「そんなことしてたのか?」
僕は自分の鼻を触る。
それを見てまたミズキは笑う。
「どこまで可愛い生き物なの? 面白過ぎ!」
「え? 今の嘘だったの?」
「本当はキスした、って言ったらどうする?」
「……」
やりにくい……でもそれは想定して僕はここにいるのだし、実際僕は寝ていたのだから、実際キスされていても気付いていなかったかも知れない。
「……」
ミズキにキスされたことを想像して、マツオカ・シオリの顔が思い浮かんだ。
どうしてこうなっちゃったのかな。シオリ――彼女に今触れる自信がなくて。
じゃあミズキなら傷ついても構わないなんて、僕は考えていたのかな。だから僕は今ここにいるんだろう。
これが毒の味か……僕は早くも自己嫌悪に陥った。