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Solitude

「……」

 疲れた。

 さすがに勉強する側ではないにしても、一週間の合宿は骨だ。勉強だけじゃなく、全国大会に行くから、練習のきつさも尋常じゃなかったし。何より教える側は、教えられる側みたいに昼寝もできやしない。

 それに――さっきから腹も減っている。

 僕はふと思い出して、ベッドから起き上がり、合宿の鞄を漁って白いビニール袋を取り出した。中から鮭のおにぎりを取り出す。

「……」

 おにぎりを見て、僕は久しぶりに自分の部屋で少し笑った。

 彼女、ご丁寧にポッキーだけじゃなく、プリンまで付けて、僕の差し入れを持ってきてくれた。

 僕が言うことじゃないが、律儀と言うか、しっかり者と言うか……

 そんな彼女のことを、心のどこかで、暖かな人だ、と思う。

 僕も何だか、穏やかな気持ちになってしまう。

 一緒にいるうちに、彼女に優しくしたい、彼女の不安もひっくるめて、僕が力になってやりたい。彼女の微笑を、いつも見ていたい。そんな馬鹿な考えが、心の奥底のどこかにある。

「――ありがたく、食べさせてもらうか」

 ベッドに腰掛け、久しぶりに手を合わせてからおにぎりにかぶりつく。

「――いつもの味だな」

 さぞ美味いと思ったけれど、よく考えれば毎日のようにコンビニ弁当を食べているんだ。別にものめずらしいものじゃない。いつもの味がした。

「……」

 だけど、優しい味がした。そんな気がする。そう思うと、胸の中がじんわりと暖かくなる。乾いてひび割れた大地に、雨水がしみこむように、心が精気を取り戻す。

 袋からプリンとプラスチックのスプーンを取り出して、口に運ぶ。プリンなんて数年振りに食べるほど、普段甘いものを食べないので、とても甘く感じる。だけど体が疲れを感じているので、心地よい甘さだった。

「……」

 僕は、今の彼女に対する感情が『愛情』だとか、そういうことはわからない。

 でも、僕は――

 今まで押し殺して、心の奥底に溜め込んでいた、僕の負の感情――狂気の化身が、僕の中に確かに存在している。

 タカハシ・ミズキに抱きしめられた時、それに確かに気付いた。

 この気持ちが、彼女を身勝手な願いで、あっという間に食いつくし、ボロボロにしてしまうような危険性も、僕はすぐわかった。

 ミズキに、寂しい? と聞かれ、その思いが顔を出してしまった。だれでもいいから、今はそばにいてほしいと。自分が本当は、寂しさを抱えていたことにさえ、今まで気がついてもいなかったのに、とてつもない不安や孤独から、一瞬でも誰かと繋がっていたいと、そう、願ってしまった。

 そして僕は、残酷なことに、シオリにこの感情をぶつける事をためらい、それを誰かにぶつけることで、引け目なくシオリと向き合おうと考えてしまった。そのために、丁度寄ってきたミズキを利用してしまおうと――この感情の掃き溜めにしてしまおうと、そんな身勝手なことを考えてしまった。

 ざまあない。あの律儀な娘に応えてあげたくて、一途でいようと思えば思うほど、ミズキの一言を魅力的に感じてしまう自分がいた。

 これはチャンスなんじゃないのか? 僕がこの心のしこりを取り払う上での。

 しかし、彼女は僕に誠意を持って接してくれた。いくら理由があろうと、彼女には礼を尽くしたい。大体、今日だってミズキに抱きしめられたのを見られて、良心が痛んだじゃないか。その上別の女の子と、そんな――

 そんな考えが堂々巡りしていた。

「……」

 考えが止まることなく、シオリへの信念と、ミズキへの期待の間で揺れ動く。体と頭の疲れが、思考を止めたがる。

 僕は部屋の専用冷蔵庫から、フォアローゼスを取り出す。酒屋の息子のジュンイチが、僕に横流ししてくれたものだ。たまにこういう思考を止めたい時に効果的だから、一気に寝たい時、僕はたまにこの手を使う。

 僕は半分以上入っているフォアローゼスの瓶を持ち、リビングのキッチンへ向かう。もう12時近いから、家族は皆寝静まって誰もおらず、電気も点いていない。ロックグラスを探して取り出し、僕はフォアローゼスに水道で直接水を入れて、水割りにする。

 リビングの椅子に座って、人差し指を突っ込んでかき回し、軽く口を付ける。

 不味い。

 ――当たり前か。適当に割っただけだから。

 ただ、数回口を付けただけで、疲れに呼応し、すぐに頭がくらくらしてくる。これならすぐに眠れそうだ。

 その時、我が家の玄関の錆びた蝶番の軋む音が、静寂の中、かすかに聞こえた。

 ――来る。

 リビングに電気が点いているのをふしんがったのか、階段を上る音の後、すぐに扉が開くと、赤ら顔をした親父が入ってきた。僕を血走った目で見つめる。

 酔いがさめて、体が一気に緊張するのがわかった。僕はグラスを置いて、立ち上がる。まるで野良猫のように腰を落として身構える。

 親父はテーブルに置かれているフォアローゼスに、ロックグラスに目をやると、酷薄に笑った。まるで馬鹿にするように。

「フン、お前みたいな穀潰しが、一丁前に酒とはな。いいご身分だ」

「……」

 思い知る。酒で現実から逃げたとしても、こうしてまた引き戻される。だから、現実を放棄することに、大した意味はないのだと。

 だけど――理屈よりも本能が、それでもいいから、何かを変えたいと叫ぶ。一時的でもいい、やり方が間違っていてもいい。ただ、何か安らぎを見出さないと、もう心を自分で支え続けることも出来ない。

 プロセスよりも結果――この最悪な状態を変えられれば、その方程式は以下に滅茶苦茶でも、些末な問題だと。

「どいつもこいつも、死んだ魚みたいな目しやがって!」

 自分の力で今の状況を変えられるか。最後にそれを知りたくて、僕は夜中だけど親父に怒鳴りつけていた。

「お前等、人の顔を見ると、そんなことしか言えないのか!」

「あぁ?」

 親父が管を巻く。

 その3秒後、親父のかかと蹴りが僕の腹に入り、僕は後ろのドアに体を強く叩きつけられると、そのまま胸倉をつかまれ、僕の爪先が宙に浮いた。

「……」

 僕はもう、親父から目を背けるのみ、歯を食いしばって、筋肉に力を入れ、防御するのみだった。条件反射の震えが、もう始まっている。体がもう、動かなかった。

 上段から、親父の拳が僕の腹に入る。傷を見られて変な噂を立てられないように、親父はまず本気の一撃は顔には入れない。僕の体は親父の腕に被さるようにぐったりとした。僕は咳き込む。

 親父の左手、僕をつかむ腕が、僕をゴミのように投げ捨てる。僕はそのままフローリングにうつぶせになると、親父は僕の顔を踏みつけた。

「俺は弱いものいじめはしたくねぇんだ。弱ぇ奴は黙って俺の言うことを聞いてりゃいいのによ」

 へへへ、と笑い、親父は元来た道に戻り、自分の部屋に戻っていく。

「……」

 そんなに憎いか? この家のあり方に異を唱え、いち早くこの家に反発した僕が、そんなに憎いか?

 拳を握り締め、立ち上がる。最大限の防御を取ったから、まともに入った腹への拳も、少しじんじんするだけ。一発目の蹴りも、後ろに飛んで衝撃を緩和したから、大した痛みはない。体勢を整えておいてよかった。

「……」

 ――殴られて軽傷で済んでよかった、という考えが、もう間違っている。

 人並みの幸せ――いつか僕も、皆の前で笑えるように生きてみたい。

 そう願うのは、間違っているのか?

 僕は殴られるために生きているわけでも、頑張っているわけでもない。

 親父に殴られる度に、自分が一体何のために生きているのか迷う。こうしてはいつくばって、自分には手を差し伸べる人なんて誰もいない、孤独なのだと実感する。

 そうだ――僕は一人だ。

 そして、一人は怖い。こうして殴られて、誰も手を差し伸べてくれないのが辛い。

 そんなのは、もう終わりにしたい。

 誰かに、こうして這いつくばらされる僕に、手を差し伸べて欲しかった。誰でもいいから、今だけでも、僕のこの心を支えて欲しいと。

 利用という、利己的で残酷な手段を使うことに、ためらいを感じてはいても、結局救いを求める切実な気持ちに負けた。

 僕はこの時、タカハシ・ミズキにもう一度会うことを決心したんだ。


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