Monster
「な……」
「でも、そういうの見ちゃうと、私もあなたに惹かれちゃうな」
「からかってるのか?」
僕は体が動かない。これが男なら強引に振り払ってもいいが、女性に手を上げるのはためらわれたからだ。いまだかつてない状況に、正解がわからないまま立ち尽くすしかなかった。
するとミズキは、何かすべてを受け入れたような、柔らかな笑みを見せた。まるでそれは聖女のような笑みだった。
「……」
ミズキは僕の顔を抱え、首を傾け、僕の目をその笑みのまま、覗き込んでいる。
「あなたの目、今は少し怯えたような色があるけど、とても澄んでいるわ。そしていつも、悲しそうな色がある」
「――人相占いか? そういうのを僕は信じないよ」
僕は顔を押さえられたまま、言った。
「そうかな?」
ミズキは言う。そしてもう一度笑顔を見せると、頬に置いていた掌を、耳の後ろ――僕の後頭部で組み、僕の頭を抱き寄せた。彼女の額に僕の額が触れる。零距離になって、彼女の香水の香りまで強くなった。
「……」
「女はね、影を持つ男がボロボロになった時、支えてあげられることに喜びを感じる生き物なのよ」
「……」
今にも唇が触れそうな距離だけど、もう近過ぎてミズキの顔はよくわからない。
「あなたは? 寂しい?」
「……」
ズクン。
まるでミズキの体温や、その香りに惑わされるように、またシオリに抱いた、性的欲求に襲われた。
この娘は、僕の止まり木になってくれるというのか。
なら、彼女を少し利用しても……
そう思ったら、僕の脳は、急速に退廃的な願望に満たされていった。
もう疲れた。とめどなく続く、この毎日に。耐えることのない悩み、苦しみに。
もう、堕ちてしまえば、思考は止まるだろうか――一度、落ちる事を受け入れてしまえばーー
「……ああ。寂しい……」
気が付いたら、それを口に出していた。
……ズクン、ズクン、ズクン。
その一言を口にして、あの胸の疼きが体さえ支配する。
初めて女の体を本能的に求めた。母親にも抱き締められたことのない僕は、初めて味わう女性の温もりに、全てを狂わされていた。
5センチも離れていない、ミズキのふくよかな唇を奪ってやろう。どちらからとなく、二人の唇が近付く……
そこで人の声がした。
我に返り、僕はミズキの腕から外れ、声の方向を向く。
コンビニに行ったユータ達が帰ってきたのだ。20人以上の大所帯が喋りながら歩いてくる。やがて姿が見えるまでになる。
「……」
呼吸は荒く、汗を掻いていた。
「邪魔が入っちゃったね。続きは明日……ね?」
そう言い残し、背中越しに、ミズキが立ち去るのがわかった。
「……」
寂しさの暴走を止められなかった。産まれて初めての人の温もりに惑わされて……
ユータ達が来なかったら、僕は……
最低だ。こんなのが本当の僕なんて……僕は心の中に、いつの間にあんな怪物を作り出していたんだろう。
こんなにも醜いのか、僕の本性は。破滅的で、他人にぶつけることでしか、自分の感情を整理できず、慰みに女を求める。
何でこんなことに――
結果、本当の自分になることを望んでくれた、マツオカ・シオリをまた傷つけた。
何で……何で僕はいつもこんな……
はっと思い立つ。
「リュート?」
さっきからずっと、リュートの姿が見えないことに気付く。周りを見回してもいない。僕が出した餌とミルクは全て平らげられていた。短時間の間に消えてしまった。
「リュート……」
体からがっくりと力が抜ける。
だけど、これでよかったのかもしれない。あいつは賢いから、飼い主のこんな姿、見たらきっと軽蔑するだろう。あいつには、僕のこんな姿、見せたくなかったから。
「ケースケ」
僕を呼ぶ、ジュンイチの声がした。
ユータ、ジュンイチを先頭に、僕の方に集団がぞろぞろ近づく。
「こんなところで何してるんだ?」
ジュンイチが聞いた。
「あぁ、リュートに餌をな」
「ふぅん、ところで彼は?」
「あぁ――リードを外したら、どこかに行ってしまって……」
「そいつは心配だな」
「私達も探そうか?」
後ろにいた集団の中の女の子が言った。
「――いや、いい。あいつは賢いから。一人でも大丈夫。家くらいなら一人で帰れるよ」
「へぇ……」
ジュンイチが皮肉めいて笑う。
「この合宿で初めてお目にかかったが、ケースケがそこまで信頼する相手なんて、滅多にお目にはかかれないぜ」
「ほんとほんと」
ユータが言う。
「あのワンコの方が俺達より頭がいいと思ってるみたいだ」
「――今日赤点合宿終えた奴の台詞か?」
「ぐっ、むぅ……」
ユータの言葉が尻切れになると、後ろにいた吹奏楽部の連中は大笑いし、サッカー部の連中は苦笑いするのみだった。
「……」
リュートのことは大丈夫。心配ない。
だけど、マツオカ・シオリは……
しかし、彼女も、ユータ達も、同じコンビニの袋を持っていた。何故彼女だけ単独行動をしたんだ?
そうだ、彼女は確か、袋を落としていった。
「なぁ、さっきそこに、袋が落ちてなかったか?」
「あぁ、これか?」
集団の中の、サッカー部の一人がそれを拾っていた。僕にそれを差し出す。
中を見ると、そこには鮭とシーチキンのおにぎりに、お茶のペットボトル、それにムースタイプのポッキー、プリンが入っていた。
「……」
……何だこれ。カレーを食べたはずなのに、彼女はこれを食べるつもりだったのか? あの線の細い子が、そんなに飯を食うようには思えないが。
「さぁ、お前の分もあるから、食堂でぱーっとやり直そうぜ」
ジュンイチに肩を叩かれ、僕も食堂に連れていかれる。