Dilemma
「……」
こういうの、修羅場っていうのかな。
ドラマとかだとこういう時、彼女は手持ちの袋を落としたりするのかな。
僕もこんな時、違うとかなんとか、弁解じみたことをやるのかな。
そんなことを考えていた。
だけど……僕はこんな時、彼女に何と言ってやればいいんだ?
僕達はまだ、相手が誰と付き合ったって、どうこう言える関係じゃない。別に浮気現場を見られたなんてわけじゃない。
しかも今の僕は彼女に対して、御し難い欲望を抱きはじめていることを、僕は知っていた。
彼女の優しさに依存して、現実から逃避したい。救いを求めたい。彼女を支配、制圧して思い通りにして、彼女までも壊してしまいそうなくらい、僕の深い闇……
こんな不細工な感情を抱く僕が、彼女に言う言葉なんて、何も持ち合わせていない。
だけど……
ここで何もしなければ、僕と彼女の関係は、つい最近までの、ろくに会話すらしなかったあの頃に逆戻りしてしまう気がして……
「……」
嫌だな、それだけは嫌だ。
彼女の声や言葉、触れなくても伝わるその温もりに、僕の心は何度も浮上した。いつだって先が見えない時に、まだはっきりとは見えないけど、おぼろげに『希望』を見せてくれた。
彼女は、本当の僕の姿を見てくれた。僕にありのままに生きていいと言ってくれた。生きてほしいと願ってくれた。
まだどこにも行けない僕と、同じような悩みを彼女も抱えていた。彼女は僕を理解してくれようとしてくれた。
彼女が僕にとって今や、どんな存在になったかなんて、定義化も言語化もできない。できないけれど……
今、この瞬間、彼女と一瞬でも通じ合えた気持ちを消してしまいたくないと、切実に願う僕が、確かにここにいる。
もう、彼女を傷つけるのも、失うのも嫌だった。まだ形にはなっていないけど、彼女ともっと話したいことはいっぱいあるんだ。
カッコ悪いけど、今はあがかなくちゃいけない時なんだ。
「あの」
話すことなんか、何も頭には浮かんでこない。だけど僕はミズキに抱かれたまま、彼女を呼び止めた。
その言葉にシオリの体が少し反応した。10メートルくらいの距離があったけれど、彼女は少しびっくりした反応から、喜怒哀楽、どの感情とも取れない曖昧な笑みを浮かべると、すごい勢いで踵を返して、その勢いで持っていた袋を落とすと、一目散に逆方向へ走り去ってしまった。
「待って!」
僕はミズキの腕の中から立ち上がる。その勢いで腕が解け、まだ後ろ姿の見えるシオリに向かって走りだしていた。
だけど、最初の一歩を踏み出した瞬間、遅れた左腕をはっしと掴まれた。バランスを崩した僕はがくりと前につんのめった。
後ろを見ると、ミズキがしゃがんだ態勢のまま、僕の腕を掴み、弱々しい目で見上げていた。
「くっ」
言葉にならない声が出た。そしてもう一度前を向いた時、シオリは左の校門方面に曲がり、見えなくなった。
「……」
体の力が抜け、腕を掴まれたまま、喉の手前に焼けるような感情が集まった。僕の稚拙なボキャブラリーでは、それが何なのか言葉にならない。頭と喉の二ヶ所でジレンマが起こっている感じだ。
僕の考えがまとまらないうちに、後ろのミズキがぽつりと言った。
「シオリ、泣いちゃったかもね。あの娘、多分初恋だから」
「――気付いていたのか? 彼女が見てたこと」
僕は後ろを振り返らず、うまく言葉がまとまらない中で、それだけ言った。
「うん」
すぐに彼女は返事をした。
その言葉を聞いて、怒りとも憤りとも取れない感情が僕を覆った。左腕を掴む手を強引に振り払うと、僕はミズキの方を振り向いた。
「どういうつもりだ! 君は!」
荒い声が出てしまう。
さっきからずっと、この娘のペースだ。それに巻き込まれて、僕はいらない誤解をシオリにされた。人付き合いに慣れない僕は、こういう誰かのとばっちりを嫌う。
しかし、冷静な思考を鈍らせている僕とは対照的に、眼下のミズキは眉一つ動かさなかった。
5秒くらい、その大きい漆黒の瞳で、僕という人間を観察してるみたいだった。そして、言った。
「怒ってるの?」
「……」
――あれ。僕は何でこんなに頭沸かしてるんだろう。
さっき自分でそれに蹴りを付けてなかったか? 僕と彼女は恋人でも、それ以前に好き合っているわけでもないはずだと。
彼女は僕の何なのか、明確な解答はない。
――あれ? 不明瞭な関係とは、結局はその程度の関係ということなのか? 無関心と大して変わらないということだろうか。
仮に僕が彼女を好きだとして、その濃度はどのくらいだろう。僕という溶媒に、彼女は何%溶けているのか。それが何%溶けたら、それを恋というのだろう。もし飽和しているのであれば、その飽和分の彼女は僕にとっての何なのか、意味がわかっていない。そもそもそういう例えが正しいかさえわからない。
人間関係に、明確なロジックを形成できないくせに、彼女に誤解されたことをこんなに嫌がる……
――ここでもジレンマか。
「シオリのこと、好きなの?」
ミズキは聞いた。
「……」
恋愛感情……それは僕には必要のないものではなかったか。少なくとも僕は今でも、生きるために力を求めているし、人に頼ったり、従ったら負けのような感覚を強く抱いている。
大体恋愛感情を僕なんかが持っていてどうする。人の愛し方もろくに知らないじゃないか。彼女に何をしてやるべきかもわからない。
しっかりしろ。彼女への依存心が強まる分、それは心が負けている証拠だ。
「別に。そんなわけないだろ」
僕はミズキに背を向け、そう言った。言うと同時に、頭に上る血が次第に引いていくのを感じた。
「……」
沈黙。
「デート、しようよ」
沈黙を破るミズキの声。
「は?」
僕は振り返る。ミズキはまだしゃがみ込んだままだ。
「明日、クリスマスイブだよ。サッカー部だって合宿翌日で休みでしょ? サクライくん、シオリと付き合ってるわけじゃないし、好きでもないならいいじゃない」
「……」
さっきからどういうつもりだ? この娘。さっき急に抱き締められて、何食わぬ顔でデートまで申し込んできた。
知り合ってすぐなのに……なんて、つまらない理屈を言う気もない。実際ユータは付き合った初日にホテルにだって行くんだし。
しかし、何て言うかな。つまらない理屈じゃこの娘は僕を見抜いてる分、納得しそうにない。でも、僕はこの娘と一緒にいたくなかった。さっきからずっと、後ろめたい。それが自分にとってなのか、マツオカ・シオリにとってなのか、僕にはわからないけれど。
俯いて僕は頭を掻く。
背中越しに、ミズキの可笑しそうな笑い声がした。僕は振り向く。
「何がそんな可笑しいの?」
「いや、何だか本当に人間臭い人だなぁ、って思って」
「え?」
「あなたのこと、みんながすごいって言うし、頭がよすぎて、何を考えているかわからない。いつも冷静に損得を考えて、飄々とした、曲者って感じだけど、本当はものすごく真っ直ぐで、正直者なのね。おまけに本心の隠し方が子供っぽいし。嘘や隠し事が、意外に下手なのね」
「……」
ミズキはそこで笑みを浮かべながら、腕を前にのばして立ち上がる。白いブーツに黒いロングコート。少し茶色い髪が腰の近くまで伸びて、細身の長身と調和している。
「退屈な男なんだよ。ご期待に添えなくて悪いけど」
「でもあのシオリがあなたに惹かれたのは、今まで自分より優れた頭にだと思ってた。でも違ったわ。多分あの娘は、あなたのその純粋なところ、子供みたいな無垢な目に惹かれたのね」
「……」
「私はいいと思うな。今時そういう純粋な男の人、貴重だし。ガキっぽいと、子供っぽいは微妙に違うわよ。サクライくんは、いい意味で子供っぽいわね」
「……」
僕が優しいとか、純粋だとか、子供っぽいとか、そんなこと、今はどうでもいい。
けど、確かにさっきマツオカ・シオリは僕に、ユータ達といる時の目がいいと言っていた。私にもその目を向けてほしいと……
もし、シオリがミズキと同じ視点で僕を見ていたとしたら……
考えが、頬に触れたものにより断ち切れる。
ミズキは立ち尽くす僕の両頬に掌を当てて、僕に少し顔を寄せた。