Logic
彼女は白のダッフルコートに、薄ピンク色のマフラーを巻いている。
ここ最近、毎日彼女を家に送っていたんだ。もうこの格好も、見慣れている。
なのに……いつだって、彼女の姿に、一瞬だけど、目を奪われる。
自分の中に、マツオカ・シオリという存在が、日ごと深く刻まれていくような感じを、僕は日に日に強く感じるようになっていた。別にそれが、常に一緒にいたいだとか、胸が高鳴るだとか、そういうものではないことも、僕は知っている。
激しい感情に心動かされるわけじゃない。明確な理屈も根拠もない。ただ、長い間、ただの『敵』として認識していた相手と、話をする機会をもらって、彼女もまた、一人の人間であることを思い出した。それを思い出して、彼女の一人の人間としての、混沌とした中身を知ってみたい、と思うようになっていた。彼女の、その華奢な体に、どんな重荷があるのか、ただ、知りたくなった。
「そんな格好じゃ、寒いでしょ? 中に入りなよ」
僕は一日料理をしていたから、腕まくりした長袖のTシャツにスタジャンを羽織り、チノパンという薄手の格好だった。確かに多少寒いけど、一日煮えたぎる鍋の前にいたから、今はこの冷気が少し気持ちよかった。
「いや、頭と体冷やして、考え事してるんだ」
「……」
会話が途切れる。
彼女は一歩前に出て、右手に持つスポーツドリンクのペットボトルを僕に差し出した。
「お疲れ様」
彼女は穏やかな微笑を湛える。
僕は黙ってそのペットボトルを受け取る。正直朝からほとんど休まずに働いていて、喉も渇いていた。
僕はペットボトルの蓋に手をかける。
「――あれ?」
両手に全く握力が入らないため、ペットボトルさえ開けられない。僕は彼女の前で、手を蓋の側面につるつる滑らせるばかりだった。
「……」
彼女は、少しおかしそうに、少し複雑そうに、それを見ていた。
「あぁ、力が入らないのね。よかったら、私が……」
彼女がそう言いかけると、僕は開封前のペットボトルを口に突っ込み、右の奥歯で蓋をしっかり噛むと、そのまま手でペットボトルを回転させ、強引に蓋を開けた。口の中で、ペットボトルが開く時の、パキッという音がして、僕は口からペットボトルを取り出して、残りを手で開ける。そしてスポーツドリンクを構わず喉に流し込む。渇いた喉に染みて、美味かった。
彼女はその姿をはじめ、呆気にとられて見ていたけど、やがてこらえきれずにくすくす笑い出した。
「ん?」
「――ごめん」
笑いながら彼女は掌を広げて謝る。
「意地っ張りだなぁ、と思って」
「……」
「サクライくん、いつも真面目な顔で、いつも私が想像出来ないことするんだもん。いつも笑っちゃう」
「……」
まだ、彼女がどうしてここに現れたのか、僕にはよくわからない。空気を探ろうと、僕はもう一口、スポーツドリンクに口をつける。
一呼吸置いて、彼女が言った。
「サクライくんは、誰かに何かをしてもらいたいと思うことは、ないの?」
「……」
彼女の一言で、また思考が鈍る。
「……」
沈黙。
「他の皆は?」
沈黙にじれて、僕は訊く。
「みんなカレーのお代わりしてる。相当作ったみたいなのに、きっとそれでも足りなくなりそうなくらい……」
「そうか、余ったら明日、教師連に食ってもらおうと思ったんだが」
それを聞いて、シオリはいたずらっぽく微笑む。
「味に自信がなかったの?」
「人に飯を作るなんて、普段しないからな」
この娘は、まだ僕のことを、何でも出来る、無敵のスーパーマンみたいに思っているんだろうか。
いや、それは僕も同じだな……僕も彼女の本質を見ようともしないで、彼女を勝手なイメージで、『敵』に仕立て上げていたのだから。
僕達はここ数日で、それを大いに反省した。
反省したからこそ、これからは自分の判断で、彼女のことを知らなければならない、と思った。それだけで彼女は、今や僕にとって、意識してしまう、特別な存在となってしまった。
そんな関係を、愛だ恋だと言ってみたりするには早計で――まともな友人を作ったことのない僕には、彼女との間に流れる、この妙な連帯感を、『友情』と呼べるのかもわからなかった。
彼女も、僕のことを知りたがっているようだった。だけど、現状は僕も彼女も、相手から話を引き出して、打ち解けるにはあまりに対人スキルが拙すぎる。
相変わらず、僕達はお互いをうらやみながら、自分には手が届かない存在だなんて思いながら、向き合って、ただ足踏みしている。
「……」
また沈黙。お互いがお互いを繊細なものと思って、気を遣いすぎている結果だ。
「なあ。ひとつ聞いていいか?」
僕は口を開く。
「え?」
「あ……いいんだ。ここ、寒いし」
僕は一瞬ためらう。
「ううん、それはいいけど」
彼女はかぶりを振る。
「……」
簡単に話が途切れる。多分それはお互いもう諦めているんだろう。
「あ、あの」
今度は意を決したように、彼女が裏返りそうな声で声をかける。
「と、隣、いいかな……」
暗がりでそう言った彼女の表情は、よくは見えなかったけれど、恥ずかしそうに俯いていた。僕にもっと、相応の高校生らしい感情があれば、こんな彼女を愛しく思うんだろうか。
好きだとか、簡単に言える関係って、意外と楽なんだって思った。ユータが言うように、いっそ「君を愛してる」とでも言っちゃえば、どんなに楽だろう。だけど生憎、僕も彼女もそういう分野は悲しいほどに不器用なんだ。
「ああ、どうぞ」
僕はチノパンのポケットから、汗を拭くのに使っていたハンドタオルを取り出して、隣に敷いた。彼女は僕に軽く頭を下げて、隣に座った。肩が触れそうな程近くて、離れていても、彼女の体温が伝わるようだった。
「何を考えていたの?」
シオリは僕の横顔を窺う。
「――本当の僕自身について」
口にしてみると、あまりに陳腐で、アホな言葉だ。こんなことになんで僕は真剣に悩んでるんだ?
調子が狂っているのか。それとも、狂っていた調子が元に戻ろうとしているのか。
「さっき吹奏楽部の女の子達に言われたんだ。あなたは本当は優しくて、子供みたいな人だって。なのに、どうして本当の自分をそんなに隠すの? って、言われてさ――」
「……」
「でもさ、正直言って、僕は自分がどんな奴か、考えてみると、全然知らないんだな、って思ってさ。こうして考えてた」
そう、僕は大抵のことは、人よりもよく知っていると思っていた。だけど、最近になって、自分は何もわかっていなかったのだと、思うようになった。
彼女に全く目を向けず、彼女を勝手に誤解していたことに気付いたことで、自分が今まで目を反らしていたものが、彼女の他にも沢山あるのだと、改めて気付いた。
自分自身のことさえも。
「僕って、他の人から見たら、どんな奴なのかな。皆が言う、本当の僕って、一体何なんだろう」
「……」
彼女は黙っている。そのまま10秒ほどの沈黙は、肌を刺すように刺々しい。スポンジを突っ込んだみたいに喉がカラカラになった。僕はその時間がとても嫌で、俯いた顔を上げられなかった。
「私の意見でも、いいのかな?」
やがて彼女は口を開く。僕はまだ、顔を上げられない。
「そのままでもいいから、聞いてて」
そう言うと、彼女は滔々と話し始めた。
「きっと、私もだけど、サクライくんと、あの二人に、学校の人はみんな、憧れてると思うの」
僕はその言葉に顔を上げる。
「あの二人って、ユータと、ジュンイチのことか?」
「うん、そう」
彼女はこっくりと頷くのが、横目にちょっと見えた。
「きっとね、うちの学校の人達は、一度は大切なものを失ったことがある人達ばかりなのよ。ほとんどの人が、受験戦争や偏差値にしか価値観の示せない競争を一度は経験して、隣にいる人がみんなライバルだと思うような経験を必ずしているの。これからその競争が、大学受験がはじまると、もっと激しくなる。表向きでは仲良い振りをしていても、実際心の底まで信頼しあっている友達は、誰もいない」
「……」
そうかも知れない。僕が行った私立中学なんてところは、小さな頃から勉強漬けにされ、中学生の癖にもう精気を使い果たして、年齢の倍近く、一気に老けてしまったような奴等ばかりだった。大体の奴が人格的に何かが欠落していたけれど、そんなものは学校が教える価値観の中では、形骸に過ぎなかった。人付き合いも、どこか感情を外を滑り落ちているだけで、真に友人になりたいという程にエネルギーに溢れた奴というのは、まるでいなかった。ただ同じ環境で勉強をさせてもらえる権利を得た、という程度の付き合いのみだった。
この高校にしても、日本トップクラスの偏差値を誇っている。実際血反吐吐くほど勉強して、合格通知が届けば胴上げが始まるような難関校だ。
高度な技術を要して、間違えさせることが目的の引っ掛け問題、ギャラリーフェイクを見分ける練習だけを積んで、僕達は偏差値という評価点を上げてきたけれど、それが万物を計れる物差しなんかじゃないなんて、僕達は考える余裕もなかった。
「だから、サクライくん達3人みたいに、いつも3人でバカなことをしていられる関係って、心のどこかで、みんなの憧れなんだと思う。とても美しいって、思う」
「……」
一緒にいるとわからないものだけど……何だ? 僕達3人がいつもつるんでいるのは、他の奴等にはそんな風に見えているのか?
でも、今でさえ、卒業証書のためだけに通っている高校に、ひとつ意味があるとすれば、きっとあの二人に出会えたことだと、僕は答えるだろう。あいつらがいなかったら、僕はただ、学校で昼寝をして、夜にアルバイトして、家に帰って家族に神経をすり減らす三択しかなかっただろうから。
よく考えれば、受けた時はありがた迷惑に感じたけれど、やばい時に、ぶん殴って僕を止めてくれたり、やり方はどうあれ、僕の現状を考えて、助け舟を出そうとしてくれる。
生涯、あいつらと付き合えそうな気がする。そんな気がする連中は、あの二人以外、いなかった。
「サクライくん、あの二人の前だと、少しだけ表情が緩んでいるの。気がついてた?」
「え?」
僕は自分の頬をさする。
「穏やかな、優しい顔をしてる。私達は、それを見て思うのよ。サクライくんは、本当は優しい人なんだって」
「……」
「そしてね。ちょっと思うの。あなた達3人の仲のよさが、羨ましいって」
「……」
一度会話が途切れる。隣で彼女の息遣いが聞こえそうなくらい、彼女は恥ずかしさに息苦しそうに、呼吸を早めていた。
「私、この合宿を手伝ってみて、思ったの。サクライくんは、自分で自分を否定しているんだって」
「否定?」
「うん。自分は最低で、どうしようもない人間だと、自分を恥じて、責め続けているんだって。あなたの言葉の端々に、それは感じたわ」
「……」
彼女は、僕と『やりとり』をしたい、と言っていた。そうすることで、僕の考えを学びたいと――
そうしているうちに、彼女はそれに気付いたんだ。僕の言葉を、それだけ熱心に聞いてくれていたから。
「でも、私はサクライくんは、あなたが思う程、悪い人じゃないと思う。上手く言えないけど……エンドウくん達の前で、穏やかな顔をするあなたが、一番自然なあなただと思う。あの顔は、悪い人には見えないもの」
「……」
「ごめん、私、こんなに一人でぺらぺら喋っちゃって……」
「いや、いいんだ」
お互い少し照れながら、意味も無く軽く会釈を返し合う。
何を言いたいのか、まだ僕には見えていないし、彼女が何を見ているのかもわからない。
ただ、彼女の言うことは、過剰なまでに僕を褒めているのがむずがゆいけれど、少なくとも彼女が真剣に伝えたいことであることは、もうわかっていたから。
「私が言いたいのは……」
言いかけて、彼女は僕の方を向く。月明かりに照らされた彼女の顔は、神秘的にさえ見えた。
「私は、あなたがあの二人にいつもしているような表情を、もっとみんなにもして欲しい、と、思う。ああやって穏やかにしているあなたが、本当のあなたなんだと思うから」
「……」
「きっと、他のみんなもそう思っているはずよ。サクライくんの、笑った顔を、私達も見たいって。私だって……」
言いかけて、彼女は言葉を止めた。