Behave
「サクライくんは、カレー、食べないの?」
そのうちの一人に聞かれる。
「あぁ……一日これ作ってて、ずっと食材と一緒にいたから……見てるだけで腹いっぱいだよ」
人に食べさせる料理って、念入りに味見をするから、人に出す頃には、自分は料理の味を知ってて、食べる気がなくなっちゃうんだよな。
さすがに疲れた。丸一日包丁を握っていたから、両手、特に指先の感覚がほとんど無い。さっきからデッキブラシを握る両手は、もう握力も出ない。肩から先は、けだるい疲労でコーティングされていて、スプーンを持つのもだるかった。
「でもすごいな」
他の女子が言った。
「サクライくんって、料理もできるんだ。何だか憧れちゃうな」
「――大袈裟だな。ただのカレーとサラダだぞ」
「でも、一人で作ったんでしょ? これだけの量」
「それに、どれにも一工夫あって、手間がかかってる」
彼女達は各々、口々に言った。
「……」
何だこれ。何で僕は、一度も話したことのない同級生に囲まれている?
土嚢を背負ったように、僕の体が重くなる。
こういう『理由』だとか、『体裁』だとか、そういう僕にとってのいらないものを、できる限り遠ざけて生きていきたいと願って、今までやってきたんだ。
そんな僕が、こんなことをやったんだ。改めて考えると、意味がわからない。そんな『理由』を求めるごとに、僕の求める身軽さからはどんどん遠ざかっていく。
参った――どうやってこの場から逃げるかな。僕の意識は、自動的にその方向へ向く。
「そんなつもりはないよ。単に暇だったから、作っただけ」
ぶっきらぼうに僕は答える。
彼女達への返答に困る前に、目をそらそうと思って、もう一度デッキブラシの柄を握り直し、背を向けた。
背中越しに、彼女達が、ふふふ、と笑うのが聞こえた。
「そんな風に、悪ぶったって、ダメだよ」
背中越しに、彼女達のうちの一人に呼び止められる。僕は背を向けたまま、手を止める。
「本当のサクライくんは優しい人だって、みんな知ってるわ」
「……」
「そうそう、すごく落ち着いているけれど、本当は意外と子供っぽいんでしょ」
背を向けたまま、僕の思考は切れ切れに、その言葉達を咀嚼する。
本当の自分――確かマツオカ・シオリにも、同じようなことを言われたっけ。僕はその時、妙に不機嫌になったけれど……
なんだろう、僕のことを知らない人に、自分のことを判ったように言われて、腹も立たず、気持ち悪さも感じないのは、僕自身が、今の自分を本当じゃないって、わかっているからだろうか。
「どうしてサクライくんは、本当の自分を、そんなに隠すの?」
「……」
答えられない。
それどころか、言われて自覚する。
――あれ。本当の僕って、何だ?
やりたいことなんて、何一つできていない。生きるたびに、自分に矛盾やら疑念やらが積もって、自分がどんどん捻じ曲がっていく。息継ぎのないクロールみたいにただもがいているだけ。苦しい上に、独りよがり。
そして僕は、こんな掻き乱れた心で、ユータやシオリのことを恨んだり、憎んだりなんて、もうしたくないと、本気で思っている。
そのループから抜け出したくて、手探りだけど、今日はこうして皆に食事を作ってみた。
それは――『本当の自分』の本意なんだろうか。
こんなに真剣に、ものを思ったことなんて、今までなかった。それは僕の心の底も、それを望んだからだろうか。
「このカレーも、辛いのが苦手な人のための気遣いもちゃんとしてある。それでいいのに、絶対にサクライくんは、そういうことを認めない。自分はこうなんだ、って、無理に本当の自分じゃない自分を作ってる感じがする」
「……」
「うん、サクライくんは、自分のことを常に否定してる。本当はそんな人じゃないのに、無理に自分を、自分はこうなんだって、無理して作ってる気がする」
「……」
僕が――無理している? 僕が――優しい?
優しい――自分が優しいかなんて、考えたことは一度も無い。
本当の僕って、何だ?
デッキブラシから手を離し、頭を抱える。
久しぶりに、わからない問題に出会って、頭に酸素が欠乏する感じになる。思考整理力が低下して、ロジックが展開されていかない。熱放出するモーターみたいに過剰回転で悲鳴を上げるように、軽く頭痛が起こり出す。ここ最近、わからない問題などに出会っていなかった僕にとって、こんな状態になるのは久しぶりのことだった。
僕は振り向いて、カウンター越しにいる、吹奏楽部の同級生。そして、その後ろにいるサッカー部と吹奏楽部の連中を見回す。
「……」
――遠い。
こうして、みんなと笑い合って、喋りながら飯を食べたり、大騒ぎしたりして、楽しく過ごす時間、雰囲気が、自分には不釣合いで、自分には行けない場所だって、感じてしまう。見ているだけで、取り残されたようで。
よく考えたら、居心地は悪くて当たり前だ。
だって、こんなこと、やったことないんだから。
よく考えれば、明日からあの家族が急に仲良くなって、こうやって一緒に飯を食べてる場所に行ったって、それは僕が求めているものじゃないし、こういう気分を味わうに決まってるんだ。
元々自分には苦手で、そんなものは必要ないと思っていて、今だって、居心地だってよくはないけど。
何でだ? そういう場所に自分も行きたい、なんて、そういう場所に入れる人間になりたい、なんて、思うなんて。
僕が求めているものは、一体、何だ?
「……」
頭がズキズキ痛む。
何でだ……居心地が悪い場所を、こんなに求める。
僕は一度天井を仰いで、深く息をつく。デッキブラシを脇に置いて、カウンターを出ようとする。
「あ……ちょっと待って」
カウンター越しにいた同級生が、僕を追いかけてくる。
「ごめん、ちょっと一人になって、考えてみる」
僕は入り口横に置いていた自分の荷物から、スタジャンを出して、肩に羽織る。
背中越しに、同級生に言った。
「これからは、もっと気をつけるから」
僕はスタジャンを羽織って、食堂を出る。
食堂は、正門から入って右側に曲がると見える。中庭に面していて、校舎から雨よけの屋根付き廊下が伸びている。校舎からしばらく進んで、右に食堂、まっすぐ行けば体育館、左に行けば合宿場のある格技棟がある。
僕は廊下に出て、食堂から右、体育館へ歩く。体育館は鍵がかかっていて入れない。
体育館の左の壁越しに、バレーボールのコートが1面取れそうなくらいの、小さな裏庭がある。大体来賓の駐車場や、雨で土手のグラウンドが使えなくなった野球部が、トスバッティングとかノックとかをしたり、昼休みに一部の生徒が遊ぶ程度の広さだ。
僕はその裏庭に出て、体育館の側面の壁に付いている扉に寄りかかる。そこには、2、3段段差があって、僕はそのコンクリートの階段に腰をおろした。
まだ7時前なのに、空はもう2時間前から黒く染まっている。少し風を感じる。マフラーをしていない首筋が冷えて、僕は亀みたいに、少し首を引っ込める。
「……」
何なんだろう、この気持ちは。
どうにかしたい、でも、どうしていいかわからない。
家族に疎まれ、どんどん自分が悪い方向へ向かっている。だけどどうしていいかわからない。そんな、無力感をただ味わう、というのとは、また違う感じ。
なんだろう、これは。胸がざわざわして、何だか、その空間に、どう入ればいいかわからなくて、居心地が悪い。だからといって、一人になることが根本的解決になるわけじゃないこと、僕は既にわかっていて……
変な感じだ。不安、孤独、焦燥、自己嫌悪、どれも違う。今まで感じたことも無かった感じ。
誰かと一緒にいたい。だけど、誰とも一緒にいたくない。誰かと話したいけど、話すことが特に無い。そんな色々なパラドックスが、僕の心を綱引きしてる感じだ。
「……」
僕の――心だって?
馬鹿馬鹿しい。自分でも笑える。僕に心なんて概念が、そもそもあったのか?
何だか変だな。本当、調子が狂っている。ここ半年の僕は少し変だ。
きっとこれは、潜在意識の警告なんだ。今のままじゃいけないことがわかってる。だから、何とかしなくちゃいけないって。
でも、何を、どうすれば……
「質問攻めから、避難してきたの?」
そう声がした。僕は顔を上げる。
そこには、ペットボトルを二つ持った、マツオカ・シオリが立っていた。