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Epilogue(3)

「ケースケくんは――お風呂に入る? それとも、もう着替えちゃう?」

 車椅子に座った俺の前にしゃがんで、シオリが訊いた。

「お風呂に入るなら――サオリちゃんは、私が抱いていた方がいいよね」

 シオリは気が利かなかった自分に自嘲しながら、俺の腕からシオリを譲り受けた。

「よしよし……」

 シオリも慣れた手つきで、また寝付きかけたサオリをあやしている。

 その顔には、自然と笑顔が浮かんでいた。

「……」

 お風呂に入る? 着替えちゃう? だってさ……

 そういう新婚みたいな台詞を、こんな可愛い女の子が無頓着に吐く日常……

 ――まったく、何てことだ。

「――君がそうやって笑えるようになって、ユータも安心してたみたいだな」

 俺は言うと、シオリはあやす手を止めた。

「ユータも言ってたが――シオリ、今君は、女を楽しめてるのか?」

 実は、シオリが空白の期間に、何をしてきたのかは、俺以外、誰も知らない。

 皆、彼女が戻ってくれば、何があったかは詮索しない――そんな連中ばかりだから。

 だが、それでもシオリが家族のために、男の心を弄んで、金を集めるために、悪事すら犯した傷は、確実にシオリの心に深く刻まれていた。

 それこそ、1年前の彼女は、立ち直ったとは言っても、小さなことでその罪悪感がフラッシュバックする症状に苦しめられていた。

「そりゃ、今でも辛いと思うことはあるけれど――みんなのおかげだよ。こうしてサオリちゃんの世話を焼かせてくれるマイとエンドウくん――スペインからでも、私に連絡してくれるヒラヤマくん――私が笑うように、いつも外に連れ出して、一緒にいてくれるトモちゃん――それと、こんな私を本当に待っててくれて、家に迎え入れてくれた家族のおかげで、今、すごく楽しい」

「……」

「――何より、あなたが側にいるから」

「……」

「あの時、あの日の海になった家の中から、私を助けてくれた――こんな足になっても、それからもずっと、側にいてくれて……いつも私が意地悪しても、私が笑えるようにふざけてくれるんだよね。それに、あの時にあなたが言ってくれた言葉が、今も心の中で、私を繋ぎ止めてくれてるの」

「……」

 いや、ふざけてなくて、割と本気で流動食上がりの胃に悪いんだぞ、今の状況。

「――別に俺が好きでやったことだ。俺が、君が泣いてるのがありえねぇと思ったからやったこと。それだけだ」

 だが、さすがにそんなことを大真面目に言われると恥ずかしくなる――俺は憮然とそう言った。

「――ふふ」

「――何だ」

「――そういうことを言ってくれるところが、離れがたくなるなぁ、と思って」

「……」

「私を、ひとりぼっちにしない――私をひとりぼっちにする、世界と戦ってくれるんでしょ?」

「う」

「ケースケくんは、私よりもおバカさんだから、俺から逃げようとするのは諦めろって言ったよね」

 あの時は炎の中で、必死に自分の正直な気持ちを、余裕もなく吐いたのだが。

 今聞くと、死にたくなるほど恥ずかしい――

 ――今では、あの時の台詞を俺に言うのは、シオリの得意手の精神攻撃になっている。

「えへへ……」

 俺の困った顔を見て、シオリはしてやったりと、あの笑顔を浮かべた。

「でも、ケースケくん。重いって思わないでね――私、あの時のあなたに、本当に救われてるの。だから……」

 そう言うとシオリはサオリを抱いたまま、俺の車椅子の横に跪いて、俺の手に、自分の小さな手を重ねた。

「トモちゃんとフェアに戦いたいけれど――たまに、抜け駆けしたくなっちゃうかな――いい子で待っているのも、そろそろ辛いかも……」

 そう口走った瞬間に、玄関の扉がばたんと開いた。

「シオリちゃんは、もう少し勝負を急いでもいいかもね」

 まるで見ていたかのように、トモミが笑いながら、部屋に入ってくる。

「と、トモちゃん、まさか聞いて……」

 そうシオリが口走った瞬間の、トモミの表情を見て、俺は悟った。

 その2秒後に、シオリも気付いた。

「うぅ、カマかけたんだね」

「まったく、シオリちゃんは可愛いなぁ」

 トモミは溜め息を吐く。

「私は可愛い女じゃないから、そういうの、ちょっとうらやましいな」

 そう呟きながら、トモミは俺の方を見る。

「私は実利で差をつけないといけないけれど……男の需要を考えたら、明らかに分が悪い」

「……」

「このズルい女め!」

 そう言ってトモミは、シオリの細いウエストに組み付いた。

「ひっ……ふふふ、トモちゃん、やめてよぉ……」

 シオリはサオリを起こさないように気をつけながら、くすぐられる脇腹をぐっとこらえる。

「……」

 何だかんだ言って、シオリがこうして笑えるようになったのって、トモミがシオリの友達になってくれたってのも、また大きいよな……

 勝負とは言っても、敵に塩を送りまくっている。

 いつも俺に憎まれ口を叩いているが、本当はとても優しくて、とても気配りの出来る女の子なんだよな……シオリのことも、ちゃんと立てているし。

 料理も美味いし、仕事も出来て――俺がシオリのことでこんなに悩んでいることも許容してくれて。

 自分は貧乏くじばかり引いているってのに、そのことは全然口にしないし。

 まったく――いい女過ぎて、シオリと比較なんて一度だって出来やしない。

「――つーか、前から思ってたんだが、二人が百合エンドになるのが、一番平和的な解決じゃないのか、これ」

 思わず俺は言った。二人もじゃれあう手を止める。

「一応俺、杖を使えば少しは歩けるようにはなったんだし――何とかひとりでもやっていけるって。何より俺、この足で、次の仕事もどうするかもあまり考えてないし――どう考えても、今の二人のスペック考えたら俺よりももっと幸せに出来る男なんて、それこそユータとか……」

 そう言いかけた瞬間。

 シオリとトモミは、人差し指を立ててぐっと突き出し、同時に俺の唇に、自分の指を当てた。

「--それが出来るなら、とっくにそうしてますよ」

「言ったでしょう? もう自分からは私達、あなたから離れられないの」

「――どうしようもない人ですけど――シオリちゃんのことばかり気にしてても、まだ惚れちゃってるんで」

「あなたが私を守ってくれるなら、私もあなたの悲しみに寄り添いたいから」

 そう言うと、二人とも憮然とした顔をして、俺の前にずいと顔を出した。

「もう一年だし、そろそろ決めちゃってくださいよ」

「ケースケくん、どっちを選ぶの?」

「……」

 俺は肩をすくめる。

 俺の悪夢は、あの日からずっと続いている。

 こんな美人二人に連日、いいように玩具にされているのだから。

 その上、どちらか選べとか……

 炎の中から這い出るよりも、ずっと難しいこの難題――

「――やれやれ」

 誰か、ここから助けてくれ。



 必死のリハビリを経て、つかまり立ちと、杖を使っての歩行ができるようになったことで、俺は何とか車の運転も一人でできるようになった。左足はほとんど動かないが、右足一本で運転をするので、問題はない。

 俺はリハビリを兼ねて、月に最低一度は、車に乗って、『あの場所』へ、一人出かける。

 ジュンイチとマイの結婚式の数日後――今日もそこへ向かう車中の中で、俺はステアリングを握っていた。

 もう慣れたもので、近くにある駐車スペースに車を止め、俺は杖をついて、そこまで歩く。

 その場所――シオリがかつて一人で住んでおり、俺がこの左足の怪我を負った場所。

 そして――リュートの最期の地でもある。

 もともと小説家時代の収入で、東京の僻地のこの二束三文の土地をシオリは買っており、登記もシオリ名義である。

 ほとんど灰になってしまったが、俺は自分の出費でこの土地の瓦礫を片付け、今は更地にしている。病院に閉じ込められて、臨終には立ち会えなかったが、リュートの遺骨はこの地に眠っている。

 何とか杖での歩行を手に入れてから、俺は1ヶ月毎の、リュートの月命日にこの地を一人訪れ、土地の整備をしている。1ヶ月毎に、花の種を植えたり、水や肥料を撒いて帰る。

 俺のような主人を持ったことで、世話ばかりかけたリュートへの餞別である。せめて眠る場所は、花の咲き誇るような場所で眠ってほしいと考え、半年前に始めた。

 梅雨に植えたゼフィランサスの時期が終わり、花弁を鋏で切り落とす。アマリリスの球根が、夏場は見事に大きな花を咲かせていたが、そろそろ花の時期も終わりだ。だけど、今回はそのまま――三色菫は寒くなった今も元気に花が咲いており、色の違う菫が一緒に植えたゼラニウムと一緒に、カラフルに土地を彩っていた。

 そして、前回来た時に植えた竜胆が、見事に青紫色の花を咲かせていた。もう冬になろうとする時期だが、猫の額のような土地は、そこかしこに色とりどりの花が咲いていた。

 最近では、一ヶ月見ないうちに、この空き地がどのような姿になっているかを見るかが、俺の数少ない楽しみと化していた。歩くのにも慣れてきたし、東京では花の図鑑を見るようにもなって、花の世話をするには、もっとこまめに見に来た方がいいのかもしれない。今後来る回数を増やそうか検討中だ。

「はぁぁ、疲れた……」

 しかし、不自由な足で杖をつきながら、花の手入れをしたり、枯れた花を一人で片付けたりするのはなかなか骨が折れる。あらかじめ持参していた折り畳み椅子に座っては、こまめに休憩して、水分を補給しながらの作業である。

「……」

 足が不自由になり、歩く速度が遅くなったことで。

 今まで気づかずに通り過ぎていた、色々な景色に目が届くようになったことに気付く。

 この1年は、常にその繰り返しだった。

 年間2兆円を一人で作り出し、サッカーで黄金の左足とまで言われた俺だが、今ではこの小さな土地を花で埋めるのに四苦八苦している。

 だが、不思議とその思いに、歯痒さはなかった。

 その思いを噛み締める度に、遠い昔に、俺の隣にシオリがいた頃のことを思い出す。

 ――きっと、あの頃のシオリも、こんな風に世界が見えていたのかもしれない。

 歩みはゆっくりだけど、土をよく掘り返し、歩いた道には、花が咲き誇るような――

 俺が長い間憧れた、彼女の生き方に近付けたような気になって、不便な生活の中でも、妙に満足であった。

 それを教えてくれたのは、こうしてリュートの弔いに、こうして花を植える行為だったわけだが……

 ――こうして花を植えることで、俺自身もこの不自由な生活を受け入れられている。

 それも悪くない、と、思えているのだった。



 うつらうつらと、陽だまりの中でまどろむ俺は、またあの花畑にいた。

 うららかな日差しに、一面の花畑、目の前にある水車小屋と、向こう岸の見えないほどの大きな――だが、流れの緩やかな川。

 俺もその世界では、普通に杖がなくても歩くことが出来る。俺は河原のほとりに歩いて、川の向こうの景色に目を細めた。

 そうすると、いつの間にか俺の隣には、リュートが現れる。

『また僕のために、花を植えに来たんですか』

 リュートは俺を見上げて、頭の中に声を届ける。

『暇そうですね、今のご主人は』

「――お前も飼い主に似ちまったな。憎まれ口を叩く……」

 俺は自嘲気味に笑った。

『随分と歩けるようにはなったんですね』

「――ああ。一年経って、お前が俺の隣にいない生活にも、少し慣れてきたかな……」

『今は僕よりも、怖い監視役がいるんでしょう?』

「――ああ。とーっても怖いお姉さん方がな。騒がしい馬鹿も俺の世話を焼きたがりやがるし……賑やか過ぎて、疲れるくらいだ」

『――まったく、素直じゃないなぁ』

「贅沢なことだがな――賑やか過ぎて、足がこんなじゃなければ、たまには一人で旅に出ていたかも知れん。ここに来るのも、俺の足で何とか行ける旅みたいなもんだ」

『――旅、ですか――いいですね』

「お前が今も隣にいたら、この足でも、旅に出たかも知れんな……」

 俺とリュートは、かつて二人で世界を旅した時のことに思いを馳せる。

「リュート、お前が俺の子供として生まれ変わってみるってのはどうだ?」

 俺は提案する。

「お前が俺の子供になって、またどこかを旅するってなったら、きっと面白そうだ」

『はは――冗談じゃないです』

 リュートは首をふいと背けた。

『こんな世話の焼けるご主人とまたお付き合いなんて、僕にとっては罰ゲームじゃないですか』

「――酷い言われようだな」

 俺も自嘲を浮かべる。

『――ま、前向きに検討しますよ』

 リュートは言った。

『僕もあなたといて、すっかり貧乏くじ体質になってしまった――僕がそうしないと、駄目なご主人が心細いでしょうしね』

「やれやれ……口の減らん奴め」

 俺は肩をすくめた。

『でも、それなら僕が、どっちの子になるかを決めてくれなきゃ』

「……」

 俺は苦笑いをする。

『僕はどちらの子になっても、上手くやりますけどね』

「意外と黒いことを言うな……」

『でも、生まれてすぐ二股してるお父さんはごめんですね。噛み付きますよ』

「やれやれ……」

 みんな気軽に言ってくれる。

 あんないい女二人、どちらにも角が立たず、泣かせず、どちらも幸せにしながらひとりを選ぶなんて、俺に言わせればフェルマーの最終定理の証明よりも、アインシュタインの十元連立非線形偏微分方程式の厳密解の解答よりも難しい。

 ――まったく、俺は脚の怪我なんかどうでもいいと思うような、難題にうなされる、悪夢の只中にいる……

「まあ、確かにそろそろ決めなきゃいけないかな……」

 溜め息混じりに言う。

「互いにみんな、悲しいことがありすぎて、互いに気を遣って――そんなビクビクしたものは、本物の愛情じゃないのかも知れんが――だが、顔を合わせれば、いつだって笑い合えるのは、きっと、本物だから――だから、これから何があっても、俺が何を選んでも、きっと、大丈夫だよな、俺達は」

 この1年、辛いことも沢山あったが。

 その分、今までを取り返すくらいの思いで、俺達は笑った。

 肩書きを失い、金も失い、離れた人間も多かったが。

 それでも俺の周りに集った人間とは、それこそバカみたいに笑い合えた。

 きっと――あの娘とも、また笑えるよな。

『でもよかったですね、ご主人』

 リュートは言った。

『もう、ひとりぼっちじゃなくなったんですね』

「……」

 俺は花畑から立ち上がる。

「――まあ、こんな最悪な夢みたいなところにいても、俺は性懲りもなく、求め続けるさ――途方もなく愚かしいが、とても綺麗な――みんなが笑っている未来を」



 スタジアムを、俺はぐるりを見渡す。

「きっと、それは――この先にどんなに悲しいことがあっても、こんな馬鹿と同じ思いを抱く奴が、世界のどこかにいる――そんな奴といつか巡り合って、馬鹿やって、笑ったり出来る日が、そんな悲しい思いをチャラにするくらいのものであるって、俺は同じような馬鹿に教わりましたから――だから、悲しいことがあっても、その日を夢見て、俺はこんな足になっても、生き続けるんだと、俺は思っています――俺は救いようもないほど愚かで、多くの過ちを犯し、悲しいことも沢山ある人生を送ってますが――俺はそれでも、馬鹿やりながら、これからも生きていくんだと思います――今世界のどこかで、ひとりぼっちでもがき苦しんでいる人全てに、伝わるかどうか分かりませんが、言います」

 ひとつ息を吸った。

「人生を生きることってのは難しくて――俺自身も、悲しいことの続く人生に、嫌気が差すこともあって――君に答えを与えてやることは出来ないけれど――俺は多分、今日も明日も明後日も、そんな悲しいことを吹き飛ばすようなものを求め続ける――こんなバカが、今日もどこかで生きている――その事実ひとつを、今、ひとりぼっちのキミに捧げます」



                  ひとりぼっちのキミに 完


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すごかった こんな作品初めてでした 世界変わった 作者様ありがとう
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