Epilogue
埼玉県川越市にあるスタジアムは、スタンドに360度、超満員のサポーターを収容している。
市街地から離れたスタンドは、先程からサポーターのジャンプで地鳴りを起こす。
「ただいまより、グランローズマリー主催、エキシビジョンチャリティーマッチを開催いたします!」
男性のDJの声に、スタンドは大歓声。
今日はグランローズマリー主催のチャリティーマッチの前座試合が行われる。出場するのは日本人限定、元Jリーガーから、チャリティー活動に賛同した著名人まで、出身地を基準にJ-EAST、J-WEST名義でチームを分け、交代枠無制限で90分を戦う。
「J-EASTミッドフィルダー、ヒラヤマ・ユータ! レアルマドリー所属!」
今日の一番の目玉選手、ユータの先発発表時には、大歓声の前にどよめきが上がった。
「最後にフォワード、エンドウ・ジュンイチ!」
観客から再びどよめきが起こる。
本来フォワードであるユータ、現役時代はミッドフィルダーであるジュンイチのポジションが逆なのである。
「そして、J-EAST監督」
スターティングメンバー発表が終わり、監督の発表となる。
事前にグランローズマリーのネットに選手は発表してあったものの、監督はサプライズゲストとして発表していなかった。
「前グランローズマリーCEO、今チャリティーマッチの発起人! サクライ・ケースケ!」
スタンド中が、今日一番の大歓声に包まれる。
――「おほ」
選手入場口にいたジュンイチが、そこからも聞こえる地鳴りにびっくりする。
「一年振りの表舞台だからな――お前は」
ユータが俺の方を見た。
――高らかなファンファーレが鳴って、先発の選手達は子供達と手をつないで、ピッチに入場する。
大歓声の中、参加した選手や著名人達は、スタンドに手を振る。公式戦ではないファンサービスである。
「それでは試合前に、グランローズマリー現CEO、ミツハシ・エイジによる挨拶と、今回のチャリティーマッチに際し、両チームの監督に花束の贈呈です」
DJの案内の後、スーツを着た一際大きなエイジが、花束を持った秘書のヨシザワ・トモミとピッチ外のシリコンでできたウォーミングアップエリアに両チームの監督を呼んだ。
その瞬間、観客がどよめいた。
どよめきの中心にいるのは、俺である。
車椅子に乗り、車輪を懸命に転がして、エイジの許に行く俺の姿を見てのものであった。
一年前のグランローズマリーCEO辞任会見を最後に表舞台から引退したサクライ・ケースケ。
その俺の、未だ歩けない姿に向けられたものであった。
試合はやはりお祭り――和気あいあいとした和やかな形で進む。
プロの実況中継と解説をスタジアムで生中継させて、笑いを取るような有様だ。
その中で、ボランチの位置からゲームメイクを担うユータからは、非常に厳しいパスがジュンイチに飛び続ける。
しかし、ジュンイチのブランクと体力の低下が、なかなかボールを前線に納めさせてくれない。結果的につぶれ役になっており、こぼれ球を周りの選手が押し込んでくれ、2点を取っていたが、こちらもお祭り――一方的な試合にならないように、見事なゴールには手を抜いてゴールキーパーもセービングしたふりをしてすぐに同点に追いつかれる。
ユータのスルーパスにうまくスペースに抜け出したジュンイチだったが、お祭りだからかマジなのか定かではないような見事なスリップで決定機を逃し、観客の笑いを誘った。
まったく――こりゃ流れの中で得点は難しいな。あいつにここまで攻撃のセンスがないとは。
しかし、そのジュンイチがバイタルエリアでつぶれたおかげで、J-EASTはゴール前25メートルでのフリーキックを得る。
キッカーはジュンイチ。
「……」
――まあ、元々ロングフィードは上手かったからな。ボールを止めて蹴れるのであれば、それほどキックにセンスがないわけじゃないと思うが……
もう俺も、祈るのみである。
ジュンイチはそんな俺の気も知らずに、俺の高校時代のフリーキックのルーティンを真似て、集中を高めるポーズをとっていた。
――何でもいい、決めろ。そのためにお前をフォワードにしたんだからな。
俺はスタンドを一瞥した。
その俺の願いが通じたのか、ジュンイチの蹴ったボールは少し高く浮いたが、ジャンプしたキーパーの手を掠め、クロスバーの下を叩いて跳ね返り、そのままゴールの中に飛び込んでいった。
「キターッ!」
大歓声と爆笑の中、ジュンイチは嬌声を上げて、こぼれ球を待っていたユータと抱き合うと、そのままフィールドプレーヤー全員を連れて、俺の待つベンチ前まで来ると、後ろのスタンドに向けて、俺を含めて選手が一列に並び、掌を空に向けて、腕を体ごと左右に振って見せた。
「どうだケースケ! 俺はやるときゃやる男だろ!」
隣のジュンイチは、俺にドヤ顔で言いながら腕を振った。
「――2カ月もフリーキックの特訓に付き合わされたからな」
「ははは! まあいいじゃないか。パパになったお祝いってことで」
隣でそれを聞いていたユータが大きな声で笑った。
このスタンドにいるマイと、マイの抱いている子供のための『ゆりかごダンス』のためだけに、俺の監督としての評価を台無しにするような布陣で臨んだのだから、全く高くついたものだ。
「ジュンイチ、やっとお前を交代させられるよ」
「えぇ!?」
ジュンイチはわざとオーバーリアクション気味に後ずさった。
試合は6-5という、およそサッカーの試合とは思えないようなスコアでJ-EASTが勝利した。5日後の、世界的プレイヤーが集まる本戦に出るユータも、ジュンイチのゴール直後に交代し、後半の試合は芸能人や元Jリーグのレジェンド達が試合を盛り上げた。
試合終了後に、現時点のチャリティー興行額が電光掲示板に発表され、その額は、全世界規模で10億円を超えたことが発表されると、ピッチ上に集まっていた今日の出場選手達が一緒になってガッツポーズした。
「ありがとう!」
マイクを持ったユータが満面の笑みで叫ぶと、スタジアムは再び大きく沸いた。
「それでは、このチャリティーマッチの発起人、J-EAST監督、サクライ・ケースケより、皆さんに挨拶があります」
DJのその言葉に、スタジアムの拍手は次第に鳴りやむ。
芝生の上を、車椅子は走れない。
左手に杖を持って、右手はジュンイチが支え、左足を引きずって、俺はスタジアムのセンターサークルへと歩いた。
「……」
酷く遅々とした歩み。
観客の誰もが「頑張れ」というような歓声も送れないほど、その姿は痛ましかった。
センターサークルの中央に俺が立ち、そこにある椅子に腰かけ、マイクを渡されると、場内は、シーンと静まり返った。
「えー……」
俺は少し空を見上げた。
「俺が最後に、マスコミの映像越しでなく、一般の皆さんの前で、マイクを取って話をしたのは、もう8年も前のことです」
会場が少しざわつく。きっと俺の一人称のせいだろう。
そう、実際に生でサクライ・ケースケが業務的な内容のみの話でなく、マイクを取って人前に出るのは、もう高校時代が最後。
「8年前の俺は、『時代の寵児』と呼ばれ――ほんの1年前は、皆さんは俺を『英雄』と呼びました。そんな俺ですが――この通り、俺は今、自分の足で歩くことが、いまだにできません」
「……」
「1年前の俺が『英雄』なら――今の俺は何なんでしょう……」
静寂。
俺は息を整える。
「――日本に戻ってから、ある人が俺に言ったことがあります。君は、ラブ&ピースや、ワンダフルワールドを歌う人間ではない――本質は生まれながらの戦闘狂だと」
「……」
俺は少し大きく息を吸う。
「この8年で、俺は自分の家族を全員殺しました」
その言葉に会場中がどよめいた。
「――俺は皆さんの知らないところで、数えきれないほどの人を、この手で――この力で傷つけてきました――戦うことしか知らず、勝敗以外で何かを決着させることを知りませんでした。そしてその戦いには、全て勝利してきました。その戦いの末に見るのは、決まって敗者の阿鼻叫喚でした。かつては俺も敗者として――その最下層で泥水をすすりましたが――その頃も、勝者となってからも、そして今も考えることがあります」
「……」
「人間は――何故こんなに悲しい思いを抱えても、生きなければならないのだろう――俺はずっとそんなことを考えていました。血を分けた家族ですら殺し、友ともすれ違い――悲しいことの多いこの世界に、自分は何故生きなければならないのか――」
「……」
「きっと、それは……」
試合後、川越市のホテルで、参加選手やチャリティー運営スタッフの慰労を目的とした、簡単なパーティーが開かれた。チャリティー用に回収した資金を使わない、100%赤字のパーティーだから、本当に簡素なもの。
本番である海外のトップ選手を招くチャリティーマッチに活動資金を回し過ぎているし、目的がチャリティーである上、今回は前座試合のようのものだから本当に簡素なものだった。
もう一線を引いている俺は、今日の試合の監督を務めたが、簡単な挨拶をしたら、すぐにホテルを跡にしてしまった。
パーティーの慰労はエイジに任せ、俺はユータ、ジュンイチと一緒に、都内に戻っていた。
――「いいねえ、この割り下の匂い。懐かしいぜ」
ユータが鉄鍋の近くに鼻を近づけて、空きっ腹をさすった。
「上等な牛肉だからな、独身最後の夜の贅沢って感じだな」
「――実際は、もう結婚したのは3年前だけどな」
シーズンを終えてユータが日本に帰ってくるタイミングを待ち、明日、ジュンイチとマイは、結婚当時に挙げていなかった結婚式を挙げる。
今夜はジュンイチの希望で、独身最後の夜気分をもう一度味わいたいということで、ジュンイチもマイもお互い離れて、各々の時間を過ごしている。
「――で、お前のリクエストは俺達と一緒にすき焼きってわけか」
火の通った鉄鍋を、布巾を取っ手代わりにユータがリビングのカセットコンロに運ぶ。
「独身男っぽい雰囲気あるだろ?」
「エイジがもうすぐこっちに来るって言ってたからな、食うのはもう少し待とう」
俺は小型の車椅子を使って、キッチンから出た。
「嫁さんのウエディングドレス姿か――チアをやってて昔から健康的なプロポーションだったマイさんのことだ。綺麗だろうな」
「お前とサオリちゃんのために、今日は無理な戦術での試合を余儀なくされた上に、2か月もフリーキックの特訓に付き合わされたからな」
「まったくだ。あのゆりかごパフォーマンスのために、慣れないゲームメイクをやらされた上に、明日はお前のデレデレの舞台とくる。すき焼きくらいご馳走してもらっても損はないよな」
サオリとは、今年の春に生まれたジュンイチの娘である。
ジュンイチが生まれて早々、号泣しながら大喜びし、呵々大笑しながら病院内を走り回って、その体を抱いた時のジュンイチは、まさにこの世の春と言わんばかりであった。
「まあ、ジュンが幸せ丸出しなのはいい――スペインに越した俺のところにも、毎日のように娘の写真を送ってよこしてきたからな」
「――しかし、まさか本当に、レアルにまで行っちまうとは」
ジュンイチがその大きな体をすくめた。
「移籍報道が出た頃に取材をしたんだが、お前、代理人を代えたんだってな。まだ若いけど、凄腕の国際弁護士って聞いたけど。何でもレアルの移籍交渉のために、ものすごい辣腕を振るったとか」
「そんな話も知ってるのか」
そこを突っ込まれ、珍しく押し黙るユータ。
「どうした?」
「――俺の元彼女だよ、今の代理人は」
「マジで?」
「10年振りに便りが来てな」
「ドラマチックな話じゃねぇか」
ジュンイチが話に食いつく。
「よりを戻すとか、そういう話にならないのか?」
あまり騒がれるのもだるかろうと思い、俺が先に核心を突いてやった。
「――まだ話はしてないがな。だが、俺が埼玉高校に行くきっかけを作ってくれた女だから――俺はそこで、お前らに出会えたってのを見せてやりたいんだ。だから――いつか連れてくるから、お前達、そいつに会ってやってくれないか?」
「勿論だ」
「むしろ俺が、プレイボーイのお前をぐらつかす女の子ってのに会ってみたいぜ」
俺達はすぐに承諾した。
「しかしユータも恋かぁ。こりゃ独身を貫いてたモテ男も、年貢の納め時か?」
「俺がモテ男なのは昔の話だよ。俺よりももっと問題児がいるだろ」
ユータが軽く息をつくと、部屋を見回した。
「狭い部屋ではないが、まだ一人部屋だな」
俺は今、1年前に住んでいた部屋を引き払い、東京23区外の今の部屋に引っ越している。
前の部屋に比べると家賃は5分の1だが、小型車椅子が使え、部屋の至る所に手すりがあり、キッチンは座って調理ができる、作業台の低いもの。バリアフリー設計になっている。
「――それから首尾はどうだ?」
遠慮がちにユータが訊いた。
「見ての通りだ。ようやくつかまり立ちができるようになったり、杖を使って少し歩けるようになった程度だ。医者が言うには、それができるだけでもすごいと言われたがな――1年リハビリをしてみて分かる。もうこの足は、二度と元には戻らんだろうな」
結局俺はこの足の怪我もそうだが、8年前に日本を出てからの無理がたたって、怪我があろうとなかろうと、日常生活の復帰すら、早期にはできない状態だった。
グランローズマリーのCEO職を辞任した俺は、ほぼ3カ月入院静養と、足のリハビリのみの生活を送った。
神経が損傷して、感覚がないくせに、感覚が残る脚の付け根に痛みを感じる。立ち上がることさえ、歯を食いしばるような有様で、それをするだけでも、ほぼ1年かかった。
「――あまり沈んではいないようだな」
「――ああ。まあ、そのおかげでもっと大事なものが俺達のところに帰ってきたんだ――悔いはないよ」
「ふ――それを本気で言ってるって目が本当にできてるからすごい……」
すき焼きが弱火でぐつぐついっている。
折節、インターホンが鳴り、エイジが部屋に入ってきた。
「お、すき焼きか、いいね」
「よぉ、CEO殿。パーティーお疲れさんです」
「やめろ、まだ代理みたいなもんだよ」
エイジもスーツの上着を脱いで、机の前に腰かけた。
「シオリさんはどうしているんだ?」
ユータが言った。
「俺はもうてっきり、お前はシオリさんかトモミさんのどっちかと住んでるのかと思っていたが」
「――シオリは今、自分の家族と一緒に暮らしているよ。戸籍も昔のものに戻して」
「――そうか。まあ、ご家族もずっと話したいこともあったろうしな――お前が歩けなくなったことを聞いた時には、自分を責めて泣いてばかりいたと聞いていたから、あの娘のことだ、何が何でもお前の面倒を見る、って言いそうだとも思ったんだが……」
「……」
俺は苦虫を嚙み潰す。
「何だ、あのシオリ姫が一緒に住みたいっていうなら、もっとテンション上がるだろ普通は」
「ふふふ……」
ユータの横でジュンイチが茶化すように笑う。
「――ユータ、お前が思っているようなうらやまけしからん状況になんて、ここ一年まったくなってないから安心しろ」
「まったくだな」
エイジがしみじみ頷いた。
「こいつの女難の相もここに極まれりだ」
「はぁ?」
ユータは首を傾げた。