Idiot
「うう、ううっ!」
じたばたと暴れながら、体が反射で火に対して現時点で一番耐性のある右足のローファーで、柱を蹴飛ばして、左足の上からどかした。
「あっ……く……」
僕は上半身を半分だけ起こしながら、柱の落ちた自分の左足を見た。
脛の骨が完全に折れている――スーツのズボンも完全に燃え落ちて、肉が爛れるほどの火傷。周りを舞う火の粉が、傷口を膿ませると同時に、抉るように酷い痛みを走らせる。
ーーサッカーは、もうできないだろうな。天才ファンタジスタの伝説に終止符。
そして――これでは、もう動くことはできない……
天井が抜けて、一際高くなった天井から見て、もう360度、完全に火が回っている。一階のリビングはもはや火の海で、玄関に続くガラス扉も、炎の向こうで見えない状態だった。防火用に樹脂が塗られている床にさえも、落ちた柱から火が回り始めた。
「……」
僕は大きく息をついて、がくりと倒れ込んだ。
「……」
――これは、死んだな……
ふふ――どうやら僕にははじめから、ヒーローの素質がなかったようだな……
こんな肝心なところでしくじってしまうんだから。本当のヒーローならこんな時にこんな無様なミスはしないさ…
もう僕に、ここから脱出する術は……
「……」
もう外壁も炎に包まれた家。木材が激しく崩れる音。
炎が僕を飲み込むのも、時間の問題だろう。
「――スケくん!」
不意に僕の耳に、シオリの声が届く。
「ケースケくん!」
炎の外――そこからシオリの僕を呼ぶ声。
「……」
シオリ――ドジっちまったよ。
できることなら、君が家族に会うところまで見届けたかったが……
――でも、やれるだけのことはやった……
シオリも、助けることができた……彼女の心の傷は、彼女の家族や、ユータ達が何とかしてくれるさ……
ユータ、ジュンイチ――これなら――上出来かな……
シズカちゃん……これで約束は、ちゃんと守れたかな……
トモミさん……僕は、君を失望させなかったか……
煙を吸い過ぎて、酸欠になり、朦朧とした意識の中で、僕は目を閉じた……
――目を開けると、そこには一面の花畑が広がっていた。
僕の足の傷も、肌を刺すような炎の熱さもなく、穏やかな日差しが僕を照らしていて。
目の前には向こう岸が見えないほどの、海のように大きな川があった。
その川のほとりには、一匹の犬がちょこんと座っている。
リュートだった。
「リュート……どうやら僕はお前と一緒に、この川を渡るようだな」
『ご主人、僕の言ったことの意味が、分かったんですね』
「あぁ……僕の本質は、天才とか、何でもできるとか――そんなことじゃない。筋が通っていようがいまいが、ただ、どうしようもない愚かだけど、まっすぐな気持ちが、僕の一番の持ち味――理路整然とした大人ぶった答えじゃなく、そんなどうしようもない馬鹿が、僕の本質なんだって、分かったよ」
『僕のアドバイスは、お役に立ちましたか?』
「あぁ――僕自身はへまをしちまったが、何とかシオリを助けられた……のかな」
『確かに現時点では、そうでしょうけど……でも、ご主人が死んだら、きっとシオリさんは泣きますよ』
「あぁ……」
『シオリさんは泣き虫ですからね。ご主人が自分のせいで、って、自分を責めて、ずっと泣いちゃうでしょうね……』
「……」
僕はシオリの泣いている顔をイメージする……
ーー不思議だな。さっきまでは僕自身も、生きることを諦めかけていたのに……
「――泣かせっぱなしでいるわけにも、いかないか……」
『そうでしょう?』
僕は立ち上がる。
もう――彼女にあんな顔をさせたくない。
僕が頑張れば、彼女が泣かないで済むなら――そんな簡単な選択肢はない。
僕はまだ……
「悪いな、リュート」
僕は川に背を向けながら、リュートの方を振り向く。
「今、生まれて初めて、本気で思ったよ――生きたいって」
『ふ――さようなら、ご主人』
「う……」
目を開けると、僕の視界はまた火の海に戻っている。
「うッ……」
左足の痛みも、さっき以上にひどい。体組織を焼かれているのか、足の感覚も失いかけているような感じで、足が意志通り動くかも覚束ない。
それでも立ち上がろうと、歯を食いしばる僕。
その僕の耳に。
オオオーン、オオオーン、という、雄々しい動物の鳴き声が……
「……」
これは、リュートの声だ。
「――分かってるよ、リュート……」
僕は歯を食いしばって、立ち上がる。
「もうシオリを泣かせないためにも――お前の最後の命に報いるためにも――ここで僕が死ぬわけにはいかないっ……」
足に激痛が走る。僕は自分の左腿を拳で強く叩いた。
「こんな痛みなんかよりも――もっと守りたいものがあるんだよ!」
僕は叫びながら、炎に向かって突進した……
――「ケースケ!」
ユータ、ジュンイチ、マイの3人が僕を囲んでいる。
「夏の大会が終わったら、ここにいるみんなで海に行こうぜ」
県立高校の教室の、夏のうだるような暑さの中で、皆一様に笑顔を浮かべている。
「シオリさんも、いいだろ?」
ユータの視線の先には――
今よりもずっと無邪気で、ずっと明るい笑顔を浮かべた、シオリの姿が……
「お金が出来たら――行きたいな、ケースケくんと」
「ヒューヒュー」
ジュンイチが僕を茶化す。
「……」
あぁ、この場面は……
折節、教室の扉が開く。そこから教師が入ってくる。
「サクライ……さっきお父上が、退学届を、学校へ……」
「え? ケースケが退学?」
ジュンイチが驚いた声を上げる。
「……」
僕はそれを聞くと、席を立ち、一人教室を出て、校長室へと全力で走る。
「け、ケースケ!」
ユータの声を置き去りにし、校長室の前まで走ると、そこには狂的な表情を浮かべた僕の両親の姿があった。
僕はそこで足を止める。
「あらケースケ。お友達にお別れは済んだの?」
「これから中東に行くんだ。お前は何も考えずにサッカーを……」
「……」
僕の人生で、一番悔いた瞬間……
もう二度と、同じことは繰り返させない。
もう二度と、手を離さない……
「いいか、お前達が何を企もうと、あいつらを傷つけようとしても無駄だ! 絶対にあいつらは、俺が守るんだ!」ーー
「う……」
目を開けると、そこには僕の知らない真っ白な天井があった。
視界が覚束ない……体中が締め付けられているような感覚。
「ケースケくん……」
優しく甘い声で名前を呼ばれ、声の方を見ると、マツオカ・シオリがベッドの横の椅子に座って、涙を浮かべながら、微笑んでいた。
「シオリ……」
僕はそれを見てから、自分の体を確認する。
少し動いただけでも、体が擦過傷だらけになっているように、痛みが伴う。体中が包帯できつく縛られて、衣擦れのないようにされている。
「――そうか。あの火の海の中から、何とか助かったか……」
僕は安堵する。
「……シオリ、リュートは……」
「……」
シオリは沈黙したまま、首を横に振った。
「ーーそうか」
僕は嘆息する。
リュート……最後まで世話ばかりかけちまったな……
お前がいなければ、僕はまた同じ過ちを繰り返すところだった……
「最後まで格好良かったなぁ……お前は」
「ばかだよ、ケースケくんは……」
僕のベッドのシーツに涙を落とすシオリ。
「全身大火傷を負ってまで、あんな無茶なことをして……」
僕は泣いているシオリの頭に手を伸ばす。
「――いいんだよ。馬鹿なことをするのが僕の本性だ」
「……」
「馬鹿なことは僕が引き受けるから、君は君らしく、真面目に生きればいい――僕が7年前に、君となりたかった二人の形ってのは、そんな二人だったんだ」
「……」
「僕はこの愚かしさで君をいつでも信じ抜く……その代わり、僕が間違った方向で馬鹿なことをしそうになったら、君の真面目さで僕を止めてくれ……多分、それで僕達は上手くやれるはずなんだ」
「……」
「――だから、もう、こんな馬鹿なことをしちゃ、駄目だよ」
「――ズルいよ、ケースケくんは。私の話を聞かないんだから……」
「――じゃあ、話を聞かないついでに、もう一つ……」
「え?」
「君に会いたがっている奴等を、勝手にいっぱい呼んであげるよ」
一時間後、ユータとジュンイチが、僕の病室にすごい勢いで走り込んでくる。
「シオリさん!」
二人はシオリの姿を見るや、ボロボロと歓喜の涙を流した。
「エンドウくん――ヒラヤマくん……」
「シオリ!」
二人に遅れて、お腹を少しふっくらさせたマイが息を切らせて入ってくる。
「マイ……」
「ケースケ。何があったか知らないが、上手くやったようだな」
「やるときゃやるな、さすが俺達のエースだ」
ユータとジュンイチはベッドの横で僕に手を伸ばした。僕は互いの手に拳を当てた。
「少しはこんな有り様の僕を心配して欲しいんだがな……」
「お前は大切なもののためなら、いつでも傷だらけだろうが」
「通常運転のケースケだよ、その姿は」
二人は僕を見下ろして、皮肉めいてはいるが、満面の笑みを向けた。
「……」
そうだな……結局はじめからそうだったんだ。
僕達の本質は、どんなに大人になっても、愚か者であることしかなくて……
だからこそ僕達は出会った。だからこそ僕達は互いのために頑張れた。
土壇場で、それに気付くことが出来た……
「ユータ、ジュンイチ、彼女のご家族は……」
「ちゃんと連れてきたぜ。ほら、皆さん入った入った!」
ジュンイチがそう言って、ユータと一緒に病室の外から手を引いて、ゴロー達を引っ張ってくる。
「お姉ちゃん!」「シオリ姉!」
最初に病室に入ったシズカとシュンは、真っ先にシオリの胸に飛び込んだ。
「うえぇぇん……お姉ちゃん……」
シズカは声を上げて、7年分我慢した姉への甘えの気持ちも手伝って泣いていた。
「シーちゃん、シュンくん……」
ずっと再会を拒んでいたシオリだったが、二人のことを抱きしめながら、目には再び大粒の涙がたまっていた。
「シオリちゃん……」
ゴローとアユミもシオリの許へと駆け寄る。
「お父さん、お母さん……」
互いに微笑んだ顔を見て安心した両者は、一気に今までの辛かったことを思い出し、それをすべて吐き出すかのように、互いを慈しむように肩を抱き合った。
「お父さん、お母さん……本当にごめんなさい……」
「いいんだ、これで……お前が無事なだけで、私は……」
「私達こそ、シオリちゃんに辛い思いをさせて……」
「ううう……」
マツオカ家の5人が、抱き合って泣いているのを見て、ジュンイチやマイはすごい勢いでもらい泣きしている。
病室の外で様子を見ているエイジとトモミが、所在のなさそうに、肩をすくめているのが見えた。
「――シオリ」
体を起こすことのできない僕は、目を閉じたまま、シオリを呼んだ。
「実際、僕の手も血まみれなんだ……本来なら、君やユータ達の前にのこのこ顔を出せるような人間じゃない」
「……」
「でも――僕や君の周りには、仲間のためならどんな時でもおせっかいを焼きたがる、お人よしの馬鹿共がいっぱいいてさ……」
「……」
「君は悪い奴らに騙されて、自分を生きる価値がないと蔑んでいるかもしれないけど――そう思う前に、そんな馬鹿共を少しは頼っていいんだぜ。そんな馬鹿共と一緒にいたら、もう悩むのも馬鹿らしくなるだろうぜ」
「……」
「それでも辛い時はーーいつでも助けを呼びな。君が助けを求めるなら、その馬鹿は火の海の中に飛び込むことくらい、軽いもんだ……」
「――うん」
「ーーユータ」
僕はユータに向けて手を伸ばす。
ユータはそれを聞いて、僕の手に、自分の持っていたものを手渡した。
それはーー彼女の好きな花。
僕が君の隣で、一輪の花になると誓った花。
一輪の、竜胆の花だった。
「今は、これが精一杯ーーなんてな……」
僕は自嘲を浮かべながら、シオリに竜胆の花を手渡した。
「……」
シオリは、僕の手から竜胆の花を受けとると、暫し沈黙した。
「ーーケースケくん……こういうのはもっとスマートにやるものなんじゃないの……」
シオリは、泣きながら顔に笑みを浮かべ、苦しそうに声を漏らした。
「多分これ、結構大事なところなのに……」
「どこかの怪盗紳士みたいに、計算ずくじゃ立ち回れないんでな……ほら、僕って、馬鹿だからな……」
「……」
周りの人間が苦笑を浮かべる。
「ーーだがケースケ、お前今、とんでもないものを盗んだんじゃないのか?」
ジュンイチが弾んだ声で言った。
「シオリさんのここ……」
言いかけたジュンイチの脇腹を、ユータが小突いた。
「野暮な奴め。その台詞は、みんな言いたいけど、言うのを我慢してるんだぜ」
そんな二人のジョークに、涙の洪水だった病室は、一同笑顔に包まれる。
その時、病室のドアがノックされ、白衣を着た医者と看護師が入ってきた。
「サクライさん、気が付かれたようですね」
僕は体を起こす。
「ご気分は如何ですか?」
「……」
気分はーー
「ーーまぁ、身体中痛いですけどね……それ以外は、今のところは……」
ーー不思議なものだな。以前血を吐いて倒れた時から、体を酷く蝕んでいた体の重さが、今はない……
まるで7年前に、シオリに救われた頃のように、体が軽い……
だが、僕の目の前にいる医者の表情は、実に暗かった。
「丁度いい。サクライさんには身内がいないので、知人の皆さまにも、聞いていただきたいことがあります」
神妙な面持ちの医者の表情を見て、病室の空気が緊張に包まれた。
「サクライさん――申し上げにくいのですが、あなたの左足は、もう――完全に治ることはないでしょう」
「え……」
トモミの声が漏れる。
「……」
「脛の骨の複雑怪奇骨折に、足の神経を傷つけるほど深い火傷を負っていて、今後まともな歩行ができるかどうかも……」