Flame
「!」
それを見た僕は、一瞬でその可能性に辿り着き、シートを閉めることも忘れて、車の外に飛び出し、再び玄関に走った。
外れかけたドアノブを回したが、中から鍵がかかっている。
「くっ」
だが、僕の考えが正しければ、この煙は……
僕は迷わず、ドアを回転回し蹴りで蹴破った。古いドアは蝶番の前に、木枠に穴が開いて、中が開いた。
部屋の奥のドアからも、黒煙が漏れ、ガラス越しにはオレンジ色の光が漏れている。そのまま玄関を土足で上がり、僕はガラス戸を開けた。
部屋の奥の台所から、オレンジ色の激しい炎が巻き起こっている。リビングにも延焼が始まっており、家具類にも火が回っている。
短時間でここまで火の勢いが増すなんて、はじめから灯油を使ったのだろう。
そして――
リビングの、それまで僕達が座っていた椅子に座ったまま、机に突っ伏しているシオリがいた。僕が入ってきた音を聞いて、シオリはびっくりしたように顔を上げた。
「け、ケースケくん……」
「――何やってるんだ」
僕は静かな声で、彼女に問い質した。
「君は……」
「もう――終わったの……何もかも」
「終わったって……」
「だって……だって苦しいの! あなたや――みんなの気持ちを踏みにじったの! もうみんな、どこにもいないの!」
シオリの華奢な体から、初めて聞くようなヒステリックな声が出た。
「あなた達に合わせる顔もない今の私が、生きている意味なんて……」
「……」
そうか――きょう一日、時間を空けた理由は。
僕自身も、エイジに対して引き継ぎの準備をしながら思ったことだが。
シオリは本当に、自分が死ぬための準備をしていたんだ。
僕が彼女に会いに行った昨日のその瞬間に、自分の秘密を知られることを悟って。
恐らく、残りの全財産を翌日には、シオリの家族の口座に振り込むように……
「……」
そして、さっきのキスも……
シオリはあのキスで、自分の命を、僕に託した――そんな意味合いがあったのだろう。
残された家族を守ってあげてほしい――私のことを、忘れないでほしい、と。
そんな小さな祈りを、僕に託したのだろう……
「馬鹿な真似はやめるんだ」
僕はシオリの手を取る。
「離して!」
シオリは僕に抵抗して、手を振りほどこうとするが、僕はそのままシオリを引き上げて椅子から立ち上がらせ、強く体を抱きしめて、体を抑えつけた。
「嫌ぁ……もう死なせてよ……こんな姿、あなたに見られたくない……」
シオリは力なく抵抗しながら、呻くように涙声で弱音を漏らした。
「――君みたいな、真面目を絵に描いたような女の子が、僕と馬鹿のやりあいをして勝てるわけないだろう」
僕はそんなシオリに、こう呟いた。
「君は今、実に分の悪い勝負を僕に挑んだんだ――だから、僕が君よりもはるかに馬鹿である以上、君の思い通りにはならない」
「な、何言ってるの?」
シオリは言葉の意味が分からないといったように、僕の腕の中でぶんぶんと体を回した。
「あなたが私に付き合うことなんてない! この家には灯油が撒いてあるの! 木造の古い家だから、すぐに火が広がっちゃう!5分もすれば家中に火が回るの! あなたは……」
「だったらその5分で、君を説得するまでだ」
僕はシオリの両肩をしっかり掴んで、シオリの目を僕に向けさせる。
「やめてよ! もう私のために、あなたまで巻き込まれるなんて、我慢ならないの! だからずっと、あなたにこのことを知られたくなかったのに……軽蔑したでしょ? 醜い、恥を知らない女だって、思ったでしょ? なのに、何で……」
「――ありえねぇんだよ……」
僕は震える声で言った。
「僕のことを君が嫌いになってもいい――だが、君がこんなところで、ひとりぼっちで、あれだけ大事にしていた家族にも会えないまま、泣いているなんてこと――生きていることが辛いなんてことは……僕の中で絶対にありえないんだ! 君がそんなことをしなきゃ生きられない世界は、絶対に僕の中では無しだ!」
「……」
「できることなら、君の苦しみを代わってやりたいと思う――それができないなら、僕は君がこんな目にあわなければいけない世界を全力で否定してやる! 君を傷つけるもの、君を泣かせるものがいっぱいいる世界なんか、滅びてしまえばいい――君が死ぬなら、君を罪人として地獄に落とそうとする奴がいるなら、神だろうが閻魔だろうが、全力で逆らってやる! 君が泣かなければいけないなら、僕は君にそうさせた奴と――世界と戦うだけだ! 君を悲しませないためなら、僕はなんだって……」
僕はそれを君に伝えたかった。
「僕は君の横で、一輪の竜胆の花になってやる――君の悲しみに、いつまでも寄り添ってやるから……君が僕を好きでも嫌いでも、もうどっちでもいい――炎の中だろうが、君をひとりぼっちにはさせない! そのために僕は、今まで生きてきたんだ!」
自分に全く余裕がなくなって、シオリの気持なんかこれっぽっちも考えていない、エゴイスティックな自己満足。
恥ずかしいが、それこそが、今のシオリに伝えたかったことなんだ。
7年前、君が僕の幸せを願ってくれたように。
僕は馬鹿だから――他人の気持ちなんて分からないから……
自分の正義に従うことしかできない。その僕の中で、彼女がこんな結末を迎えることは、絶対にありえないことだ。
こんな簡単な答えにも、辿り着くまでに大変な時間を費やしてしまったけれど……
「……」
シオリの抵抗の手が止まった。涙を炎に照らしながら、僕の目を見ている。
「ふ――どうもうまくない言い方だな。7年前に君が僕を肯定してくれた時は、もっと優しさを感じる言葉だったが……」
僕は炎の中で笑った。そして、シオリを強く抱きしめる。
「でも――そういうことだ。分の悪い勝負を挑んだ以上、もう君の負けだ。諦めろ」
「……」
「不安なのはわかるよ――毎晩感じる自分への罪悪感も。僕もそうだったから」
「……」
「でも――君が家族を守りたかった気持ちは本物だ。それを知っているから――僕は君を信じる。僕は君を嫌いになったりなんかしない。だから、今が辛いなら――助けてほしいなら、強がらないでそう言ってくれよ! 君が歪んじまったなら、何度でも元に戻してやる。君が自分をひとりぼっちだって思っているなら、この場で誓ってやる。僕はこれから朝も昼も夜も、君のことを考える! 望むのなら毎日でも会いに行く! 君が不安にならなくなるまで、君のことを一番に考える!」
「……」
炎はすごい速さで僕達の周囲を囲んでいく。
「――ケースケくん……」
僕の胸の中で、くぐもった声でシオリが声を絞り出した。
「――ああ」
「ケースケくん……ケースケくん……うう……」
僕の名を呼びながら、シオリは僕の腕の中で、子供のように泣いた。
その涙は、自制的なシオリが、今までの人生でずっと抑え込んできた――人にすがることを禁じたシオリの、初めての心からの甘えだったのかもしれない。
火に包まれた家具の崩れる音。肌がひりつくように部屋の温度が上がっている。
「ケースケくん……」
「……」
「――私を……助けて……」
僕のワイシャツにしがみついて、哀願するように、シオリはか細い声で言った。
「仰せの通り!」
僕はシオリの手を取る。
「家を出るぞ!」
僕は手を引いて、シオリを玄関へと連れていく。
その瞬間、めきめきという音を立てて、屋根が崩れる音がした。
「危ない!」
僕はシオリにコートをかぶせるように、かばいながら、横に飛んだ。
火柱が玄関のドア口に降り積もり、玄関前が完全に火でふさがれた。
「く……」
もう呼吸も苦しくなるほどに、火が回っている。火元のキッチンはもはや火の海、リビングももうほとんど火が回っている状態で、シオリの仕事部屋ももうフローリングに火が回っている。
「二階に行こう! 窓から飛び降りるんだ!」
火元は一階――ならまだ二階なら火がそれほど回っていないはず……
そう判断して僕はシオリの手を引き、二階への階段を上る。
二階の部屋はシオリの寝室だった。ベッドと箪笥とテレビなどが置かれている以外は、ほとんど装飾品もない、彼女の今までの虚無感を現したような部屋。
こちらも、階段から火が上がっていたから、もう時間の問題だろうが、火は届いていない。
僕は窓を開ける。閑静な住宅街では、まだこの火の手に気付いている者は誰もいないようで、まだ野次馬などもいない。下に誰かいれば受け止めてもらえることを期待したが……
「かなり深い雪が積もっている。君が先に飛ぶんだ」
「ケースケくん」
「君が飛ばなきゃ、僕も飛ばないぞ。僕を助けるために、僕を先に逃がそうなんてのは、怖くて承諾できないから、問答無用で君が先に飛ぶしかない」
こんな時に嫌味を言って、シオリの抵抗を早々に諦めさせる手を使う。
「――うん」
「大丈夫だ。結構高いが、雪がある程度受け止めてくれる」
「――ケースケくん」
「ん?」
「――ケースケくんも、すぐ来てね」
「ああ」
僕が返事した時の笑顔を見て、シオリは不安そうな顔をしながら、窓の外から飛び降りた。
どさっという音がして、シオリは着地時にバランスを崩したが、もともと軽量のシオリは怪我もなく、家の外へ脱出を成功させた。
「――よし」
「ケースケくん!」
シオリが両手を開いて、僕を呼ぶ。
「ああ」
そう言いかけて、僕が窓枠に手を伸ばした瞬間。
メキッという音と共に、僕の足場が深く下にめり込み――
次の瞬間、そのまま二階の床が、ガラガラと派手な崩壊音を立てて、一気に底が抜けた。
「うあああっ!」
僕もそのまま一階へと落下する。突然のことでバランスをとることもできなかった僕は、そのまま一回の床に仰向けに叩きつけられた。
「うっ!」
体の痛みもそこそこに立ち上がろうとした次の瞬間。
自分と共に落ちてきた二階の床――一階の天井の大きな柱が、激しい炎を帯びたまま、僕の左足にそのまま落下した。
「ぐあああああああっ!」
一本100キロを超えるような太い柱が、火だるまになって足に落下したことで、僕は悲鳴を上げた。