Wrong
「……」
――あのクソジジイ。
――いや、そういえば言っていたな。最近女に振られた話を。
成程ーー彼女ならあの爺さんの誘いを断るのも頷ける。爺さんの言っていた断りの文句も、シオリらしいと言えばらしい。
だが、まさか――それが自分がここまで追い求めた彼女だったとは。
「自分で言うのもなんだけど――ザイゼン会長は、私のために何でもしてくれようとした。都心にマンションを一棟買って、私にプレゼントしたこともあったわ」
「だが――君はそこに住んでいない。ということは」
「そう、全部売ってしまったの。長期的に見れば、都心の一等地のマンションなんて、持っていた方が得なんだろうけれど――みんなを早く自由にするためには、その方がいいと思って」
「……」
「それをした時に、思ったわ。力のある人の前では、私が罪を犯してまで必死で集めたお金なんて、何の価値もないんだ――だとしたら、私のしてきたことは、一体何だったんだろう――結局、世の中は力が全てなんだって、改めて思い知らされた」
「……」
それは、あの爺さんの信じる正義。
周りの人間を、それで屈服させる爺さんのそのやり方を、シオリも目の当たりにしたのだろう。
それは、高校時代のシオリの信じた正義とはまるで違うもの。
そして――心身ともに疲弊しきったシオリは、その価値観に屈した。
「力こそが正義ーーその考えにあなたが屈しないことは、私、ザイゼン会長から聞いていたの。あなたのことは、ザイゼン会長からいつも聞いていたーー私、パーティー会場の映像であなたを見たこともあるのよ」
「え……」
「あなたが7年前に言っていた、自分の力を誰かのために使う……その約束を果たすために、今もあなたなりに戦っているーーそれが分かったら、ザイゼン会長の正義に屈した自分が、酷く汚れて見えて……」
「……」
誰がいけないというわけでもないが。
シオリがあの爺さんの価値観にさらされ、そう思ってしまったことが、酷く悲しかった。
「でも――このアクセサリーだけは売れなかった」
「……」
「これを、あなたが作った。そう思うだけで、昔の楽しかった頃を思い出して――」
「なら、それでいいじゃないか」
「――よくないよ……このアクセサリーが、一体何億円したと思うの? 私は、最後にはこんな高額なものさえも掠め取れるようになったのよ? つまり――それだけの嘘を重ねたってこと……」
シオリの方は、小刻みに震えた。うるんだ目を向けて、僕の目を見る。
「私……あなたには、今の私を見てほしくなかった」
必死に絞り出した声が、体と一緒に震えているのがわかった。
「あなたは私にとって、一番大切な人……あなたにだけは、私のこんな姿、知られたくなかったのに……」
「……」
彼女の苦しみは、男の僕が完全にわかることはできなくて、まだ僕は、いまだに目の前の彼女が何を恥じているか、上手く捉えられていないのかもしれない。
だが――彼女の涙声を聞いていると、僕も狂おしい程、悲しくなった。
「ケースケくん」
シオリが、僕の名を呼んだ。
「実は――昨日あなたが息を切らせて私に会いに来てくれた時――あなたの目が、7年前と変わらずに、すごく澄んでいたのを見て……私、すごく嬉しかったの」
「……」
「でも――私、自分のそんな気持ちが、心からのものなのか、分からなかったの……」
「……」
シオリの顔は、穏やかに笑っていたが、目からは涙が溢れている。
何かが壊れてしまったような、悲しい笑顔だった。
その一言が、僕の疑問を一つ氷解させる。
彼女の手紙の文面から見えた、彼女の生活感のなさ――彼女の姿や、この家、彼女の周りを全て司るものから漂うこの虚無感の正体。
――彼女の心が、嘘をつき過ぎたことで、壊れていることからのもの。
「この涙も――本当に流れている涙なのか――あなたに優しくしてもらおうと、演技で泣いているのか……」
自嘲するような笑顔を浮かべるまま、シオリは震えた声で言う。
「私はね――ズルいんだよ。7年前も、あなたに嫌われたくない一心で、すごくわがままな自分を隠してたの――あなたが他の女の子と一緒にいることに、すごく不安になったり――でも、そんな気持ちを押し付けて、あなたに嫌われることが怖くて、必死に自分を偽ってた。7年前から私は、嘘ばかりついてたの……」
「……」
何が本当で、何が嘘か……
既に彼女は、大切なものを自ら踏みにじった。
その瞬間に、そんな概念が崩壊して。
自分の中の全てのものに、嘘が混じっているように思えてしまう……
「……」
その痛みは、僕にもわかる。
ユータ達に会う前の僕も、奴等に自らの志を貫いて力尽きたように見せるために、自分を装っていたから。
それが、一人の大人として社会で生き、本気で目の前のことに向き合っている奴らに比べると、酷く薄っぺらく思えて……
酷く自分を恥じた。
「――っ」
僕はもう、そんな彼女が可哀想過ぎて……
嘘をつかなければならなかった今までの道のりがーー
7年前の僕達との絆まで、嘘だったと思いこまされている彼女が。
あれだけ優しくて、気丈で、悪いことのできなかった彼女がこんなに歪まされたことが、あまりにも酷すぎて。
僕の肩も震え出す。
「け、ケースケくん……」
僕はシオリの少し驚いたような声にも、顔を上げられなかった。
「うっ……あぁぁぁっ……」
僕は必死に声を殺そうとしたが、抑えられなかった。
シオリのことがあまりにも可哀想で……僕はどうしようもなく泣き崩れた。
「……」
沈黙。
「変わらないなぁ。ケースケくんは……」
僕の頭上に、シオリの呟く声が聞こえる。
「そうやって、誰かの悲しみを、自分の悲しみのように抱え込んじゃうんだよね……7年前もそうだった」
僕は顔を上げる。
「そんなあなたが好きだった――正直なあなたが、心から好きだった」
「……」
その言葉を言った彼女の表情が。
再会してから初めて、7年前の彼女のままの笑顔だったと、不意に思った。
その笑顔が、僕の記憶を過去へと強く引き戻すのを感じながら……
「ねえ、ケースケくん」
だが、シオリはその笑顔を、ふっと力ないものに変えて、僕に言った。
「わかったでしょう――今のあなたが、私なんかを相手にすることはないよ」
「……」
「あなたは稀代の英雄になれたんだから――きっと素敵な人も、周りに沢山いるんでしょう?」
「……」
「私も、昔ならあなたのことを好きだったと思う――でも、今の私には、あなたは正直すぎて――正直、息がつまりそうだわ」
「……」
「私が好きになるのは、あなたじゃない――あなたの相手も、私じゃない……そして、私が家族の許に帰ることも、もうない……」
「……」
それでいいのか、とか、そんなことはない、とか、何か言葉を言わなければと思ったが。
その言葉が今の彼女に届かないことは、7年前、同じ過ちを犯した僕にはよくわかっているから。
何も言葉が出てこなかった。
「ねえ、ケースケくん」
懊悩する僕に、シオリは声をかけた。
「折角だから、一つ、私のお願いを、聞いてくれないかな」
「え?」
「私と――キスしてくれない?」
「……」
「いいでしょう? 最後の最後なんだし――私なんかが、稀代の英雄と昔付き合ってたことがあるって――ちょっとくらい、思い出に浸っても――ね」
「……」
「そうしたら、きれいさっぱり忘れる――それで、おしまい――ダメかな。それくらい、昔の女に情けをかけてくれても――罰は当たらないんじゃない?」
「……」
シオリとキス――か。
それは僕にとって、実に心躍る話だ。
7年前に一度だけしたキスのことを、僕はまだ覚えている。
あれほど二人の心が一つに感じられたキスはなかった。
そのはずなのに。
「あぁ……分かった」
僕は立ち上がり、シオリの前に立つ。
そして、シオリの頭と、肩にそれぞれ両手を回す。
「……」
シオリの体は酷く震えていた。
これは恐怖からくるもの――僕と正対することに、体が恐怖している。
「……」
シオリは心から、僕達と再会することに恐怖していることは、それですぐに分かった。
「――なあ」
「大丈夫。大丈夫だから……」
そう言って、シオリは目を閉じる。
「……」
戸惑いは勿論ある。だがそれ以前に、それをすることで、確かめてみたいと思う気持ちの方が勝っていたのだろう。
僕はシオリの薄い唇に、自分の唇を重ねた。
「……」
その瞬間に、はっきりと分かった。
もう、シオリの心が、僕から逃げていることが。
そのぬくもりも、唇の感触も……
その全てに、シオリはいなくて。
冷たく毛羽立った、どうしようもない拒絶を感じるだけだった。
こんなに近くにいるのに――7年前と同じとは思えない。
ただ儀礼的に、唇を重ねただけ――その冷たさが、酷い悲しみを、僕の胸に連れてくる。
「……」
――何だよ、これ……
これで終わりなのかよ。
シオリのことを救うんじゃないのかよ。
この唇を離したら、本当に終わっちまうぞ。
唇から伝染したシオリの悲しみに触れて、僕の心は千々に乱れる。
何か――何かないのか。
今のシオリを救えるものは……
まだ少し粘る策も巡らせたが――何も思いつかないまま、僕は唇を離した。「……」「……」
僕達はお互い見つめ合う。
「さようなら」
「ありがとう」
最後の二人のやり取りは、それだけだった。
僕はハンガーにかけていたコートを取ってそれを羽織り、靴を履き、僕はシオリの部屋を出ていった。
リュートが慌てるように、僕についてくる。
外に出ると、雪の降る夜の冷気が顔を冷やす。僕の背中越しに、ドアの閉まる音。
「……」
雪はまだ、深々と降り続いている。
僕の口から出た溜め息が、白く染まる。
掌を開き、僕の掌に雪が落ち、すぐに水になると、掌を握り締める。
「……」
今の僕の心に降るのは、雪と言うより、雨だな……
巷に雨の降るごとく、我が心にも涙降る。かくも心に滲み入る、この悲しみは何ならん……
どこかの詩の一説を、降りしきる細雪を見上げながら、思い出す。
ポケットの中の携帯電話に、指が触れる。
彼女の家族に、何て説明しよう……
それを思うと、気が重い……
彼女と会えた時、はじめはあんなに幸せな気持ちになれたのに……
「……」
あの時、見た夢の通りになってしまった。
羽の生えた天使のような姿の彼女が言った。
「私のことは、もう忘れた方がいい」と……
僕はリュートを助手席に乗せると、崩れ落ちるように運転席に座り込んだ。
ステアリングをつかみながら、僕の体は前かがみに崩れそうだった。
「……」
何も出来なかった。
何も言えなかった。
目の前にいる彼女の僕への想いも、それを否定している強がりも、汚れた自分への絶望も、全てがくっきりと見えていたのに。
僕がもっと優しい言葉をかけてやれたら――もっと上手く彼女の苦しみに気付いてやれたら……
彼女の7年間の苦しみを、終わらせてやれたのか。それとももう、誰にもどうしようもないことだったのか。
「……」
せめて彼女のために、今まで彼女を苦しめてきた奴をぶん殴ってやろうか……なんて一瞬考えた。
でも、それで彼女が救われるのか。むしろ僕が刑務所に入れば、彼女は余計に罪の意識に苛まれる……
「――違う……」
僕は呟いた。
「違う違う違う! 僕がシオリに伝えたかったことは、こんなことじゃない!」
聞き分けのいい大人を気取って、自分の選択肢が消えていくばかりだ。
今までは、傷ついているシオリをいかに傷つけまいとして――いかに優しくしてやれるか、それだけを考えていた。
だがーー違うんだ。
「僕にシオリを好きになる権利なんてない」
「僕はただ、君を家族とまた幸せに暮らせるようにしてやりたいだけ」
「君が今ひとりぼっちでいるのなら、君のことを助けてやりたい」
ーーそんなもの、全部僕の思いなんかじゃない……
もう僕は大人だから――そう言い聞かせて、聞き分けのいい大人を演じていただけだ。
これまでもずっと自分のエゴで彼女を苦しめた――だから、せめて今回はシオリの気持ちを尊重しようと、紳士を気取っただけだ。
シオリ――僕は君に会うまで、ずっと自分の気持ちを誤魔化していたよ。
僕は今まで、君の笑顔に自分の死に場所を見ているのだと思っていた。
僕の手も血まみれで――今更君のことを好きだとか言える立場でもない。ならそれで十分じゃないか、と。
でも――そうじゃなかった。
家族への復讐がなくなって、君のことを考える時間が増えて……
君のことを考えることを続けているうちに、心が穏やかになっていった。
7年前に、気が付けばいつも君の笑顔に救われていた時のように。
君の作ってくれた料理を食べて――不意に和んだ心を顧みて、それが分かった。
僕は君に――『死に場所』を見ていたんじゃない。
君に、『生きる意味』を見ていたんだ。
7年前――君の笑顔を守れるだけの力が欲しいと――そう願うだけで、勇気が沸いてきたあの頃と同じところに、僕は初めから立っていたんだ。
それを――聞き分けのいい大人にならなくては、と、誤魔化してばかりで……生きることを諦めた自分が、また君の笑顔に救われるなんて、あってはならないと思い込んで……
「……」
僕はただ――彼女が笑顔になってくれるだけで。
彼女が幸せそうに、微笑んでいるだけで。
それだけのことで――ちゃんと生きている気がしていたんだ。
彼女に笑顔になってほしい――そう願うだけで。
僕は、ちゃんと生き甲斐を持って生きていけたんだ。
気がつかなかっただけだ。
誤魔化していただけだ……
「クゥン?」
助手席のリュートが、顔を上げる。
「リュート――お前が夢の中で言った言葉の意味が、やっと分かったよ。トモミさんの言葉の意味も……」
僕はそれを呟くと、顔を上げる。
「僕はまた――7年前と同じ、目の前にあるものに気付かない過ちを犯すところだった……まだ、終わってないんだ。シオリを――」
そう僕が言いかけて、車の外に飛び出そうとした時。
シートを開けた瞬間に、何か科学的な臭いが外に充満しているのに気づき。
そして、シオリの家の方を見ると。
家の木の隙間から、白い煙が小さな帯となって、無数に夜空に吐き出されていた。