Kitty
「……」
シオリはコーヒーに目を落とす。
「私がこの7年で、何をしていたか、知ってる?」
僕の目を見ずに、そう言った。
「……」
そして、沈んだ声で話しはじめた。
「あなたが去って、2年かな……私は大学生になって、平凡だけど、それなりに充実した毎日を送っていたけど……」
「……」
「ある日帰ったら、家がテープで封鎖されてて……」
「5000万の借金――だろ」
こくりと頷く。
「それからは嫌がらせの電話や手紙は止まらないし、家に怖い人達が、ずっと押し掛けてきて……たった数日で、みんな夜も眠れずに、疲れはてていたわ」
「……」
「お父さんは、私やシーちゃんに、無茶なことをするなって、借金取りに抵抗してたけど……もうそんなことが言える状況じゃなかった。黙っていたら、お父さんが殺されてもおかしくなかった」
「……」
その通り。実際に僕の親父は、借金が原因で、廃人にされ、一生奴隷となった。下手をすればゴローだけでなく、シオリや、他の家族だってそんな目にあってもおかしくない――なんて曖昧な未来ではない。
誰かが何とかしなければ、確実にそうなっていた。
「だから君は借金取りと交渉した。君が言うことを聞くから、家族に乱暴なことをしないでくれ、と」
「……」
彼女は精一杯の力を振り絞るように、顔を上げた。
「うん。私は二ヶ月でお金を用意する。その額を見て、今後の対応を決めてくれと頼んで……」
「家を出て、働きはじめた」
僕が先に言う。
「しかし――君の話を、取り立て屋がよく聞いてくれたな」
僕は、最も不安に思っていたことの核心に迫っていた。
「もしかして……君は取り立て屋と……」
「――体を売った」
僕の言葉を、シオリが遮った。
「そう、心配しているのね」
「……」
僕は沈黙を以て答えた。
僕の最も不安に感じていた要素だ。
シオリが他の家族に無茶なことをさせないために、取り立て屋と何らかの交渉をしたことは分かっていた。
だが――そんな無条件で猶予をもらうには、ゴローの借金はあまりにも大き過ぎた。絶対的に弱い状況の人間の条件なら、強者はどんな無茶苦茶でも言う。
僕が同じ立場だったら――彼女の体を要求するだろう。
薬を打ち込まれ、廃人にされて男の相手をされていてもおかしくないと、会うまで不安だった。
「――それはないわ」
シオリは僕の不安を否定した。
「私がやったのは――もっと、最低なことよ」
「……」
「初めに猶予をもらう時に、私がしたことはね……」
そこでシオリは、言葉を詰まらせる。
「……」
シオリの顔を覗き込むと。
必死に荒くなる息遣いを噛み殺すように、ぎゅうっとその華奢な体に力を入れているのが分かった。テーブルの上に乗った両手を握り拳にして、僕から目を反らす。
そして、シオリはテーブルの上に何かを置いた。
テレビのリモコン大の電子機器に、透明の薄い紙袋に入った粉末だった。
「これは――スタンガンじゃないか」
しかも正規品ではない。改造された痕跡のあるものだ。下手をすれば命に関わるような電流の流れる代物だ。
「表向きには護身具ね……」
シオリは力なく呟いた。
「君は……」
「――私がやったのは――いわゆる、恋愛商法ってものね」
「……」
そうか――彼女は。
ということは、この横の粉末は、恐らく睡眠薬とか、そんな類のものだろう――いや、もしかしたら精神に支障をきたすような、もっとやばい代物かも知れない。
「……」
シオリの顔は、既に真っ青になっていた。
「でも、仕方がなかったんだろ。借金を返すために、手段を選べなかったんだろ」
生きるために、手段を選べないことは、僕だって旅先の貧乏生活で学んでいるつもりだった。
「違うよ」
しかし彼女は、僕の言葉に声を荒げた。普段大人しい彼女がこんな声を出すなんて、ほとんど聞いたことがない。
「――私は、あなたのご家族と、同じことをしたの」
「……」
「あなたが心の底から軽蔑した――あなたのご家族と」
「……」
「それに――私がお金を取ったのは、みんな男の人よ」
そこまで言うと、彼女の言葉が詰まった。
「――それがどういうことか、分かる?」
「……」
――そうか。
彼女は、そのターゲットを見つけると、その度に、男に媚を売ったのだ。
見境のない、プライドもない、家畜のように。
そして、ホテルの室内で、気後れした被害者を装い、これを使って、逃げた……
被害者の男も、売春未遂を犯しているなんてことを警察に届け出ることはできない。相手も法を犯しているのだという状況を作ることで、身の安全を確保する。
それは――律儀で真面目なシオリにとっては、耐えがたい汚さだろう。
「――男の人ってすごいね。少しでも自分に脈があると思った女の言うことは、すぐに聞いちゃうんだね」
「……」
その言葉が、まさかあのシオリが言ったとは、すぐに認識できなかった。
「それなのに――私は自分の身を汚すこともしなかった……お金を出す男に対して、見返りに体を要求した男は何人もいた。でも、私は――その度に逃げたの。そのために、改造したスタンガンを使ったり、薬を盛るようなことをしてでも、自分の身を守っていた」
「……」
シオリの抱いていた苦しみの正体が、少し見えた気がする。
リュートがシオリの横に擦り寄る。
「リュートくん……」
「落ち着いてくれ。話したくないなら、それでもいい……」
僕もシオリを落ち着けるために、なるべく静かな声で言った。
「……」
シオリはしばらく肩を震わせていたが、シオリはしばらくして、目を赤くした顔を上げて、少し笑みを作った。
「――やっぱり、あなたもリュートくんも――変わらないのね」
「え?」
「私――そんなことをやっている頃に、あなたがフランスでサッカーを始めたニュースが私にも届いて……」
「……」
「あなたは――フランスでサッカーをやっている時は、今よりもずっと鋭い目をしていたわ。ご家族のことでの怒りがまだ消えていないのは、一目ですぐわかった。きっと――あの時のあなたは、高校の、あの教室での時間から、全く時間が進んでいなくて――私のことも、忘れていないんだろうな、って」
「……」
「でも――あなたはそれでも、ズルをしたり、汚い手を使ってのし上がろうということを、全然しなかった。高校時代と同じ――いつだってまっすぐで、公平で――どんなに譲れないことがあっても、自分で努力して、そこに立つ――それを見て、改めて思ったの」
「……」
「あぁ、やっぱりケースケくんは、すごいなぁ、って……私なんかよりも、ずっと辛い立場にいて、一刻も早く力が欲しいような状況でも、汚い手には一切乗らない……そんなことのすごさが、自分が今辛い立場にあって、痛いほど分かった」
「……」
「それが半年、一年と続いて……あなたはどんどん人の賛美を集めていて……私はその度に、気が狂いそうな程、罪悪感に苦しめられた……私は嘘をついて、自分の身を守って、自分を正当化して――いつもフェアな条件で、不利な状況と闘っているあなたに対して、私のやっていることは、耐えがたい汚さだったもの……」
「……」
そうか――シオリは、ずっと前から僕のことを、そんな風に見ていたのか。
自分が公平で、公正で――
――そんなこと、考えたこともなかった。
僕はずっと――彼女に救われる前から、彼女の生き方に憧れていた。
彼女の通った跡に、花の道ができるような――そんな優しい生き方に。
そんな彼女が、僕の生き方なんかを……
「何よりも、私の大切な人との思い出も、嘘を重ねるごとに踏みにじっていくようで……みんなに今の私を知られたら、私をどう思うんだろうって、思うと、怖くて……だから、自分の正当化のために、体を売るってこともできなくて……」
「……」
――彼女が他の男に、体を捧げていないことを知って、安堵しなかったと言えば、嘘になる。
だが――そんな僅かな安堵よりも先に。
彼女のその境遇が、あまりにも悲しすぎた。
嘘をつき続け、卑怯で卑劣なことをして、自分の身を守ることも、自分の体でその痛みを正当化しようとすることも、どちらも痛い……
そんな二択しか、彼女の人生には存在しなかったのかと思うと。
「……」
そしてーー今の彼女にとって、7年前に僕とーー僕達と過ごした日々は、当時と全く変わらない、大切な思い出であることも。
それを、自らの不義で汚し続けたことが、何よりも彼女の心を抉ったことも。
彼女にそんなことを思わせるのは――きっと、その彼女の生き方が大きく歪んだからで。
それを思うと、頭痛を覚えるような酷い思考を、僕の脳に運んでくる……
「そんな思いを抱えながら、2年前に――あなたが日本に帰ってくるってニュースを見た時に、もう気持ちが一気にはじけて――私は、あなたからも、家族からも完全に逃げることを選んだ――作家になって、ペンネームを実名に変えることで、マツオカの名前も捨てた……」
「……」
「この辺りなら、東京だけど、下手な郊外に出るよりも、見つかりにくいしね……」
名前を変えた理由は、罪を犯した自分を恥じ、家族に顔向けできなかったから、別人となって償おうと……
なんてこと……
「……」
――しかし、シオリのことを訊いて、自分の心は妙に落ち着いていた。
僕は――昨日一目シオリを見た時に、見えたのだ。
彼女の『絶望』を。
詳細なことは分からなかったが、彼女の生き方が、それによって歪まされていることが、はっきりと見えた。
あの地味に装った格好に、ここに来るまでの見た景色に。
彼女の『悲しみ』を。
僕には、それが見える……
「――もうひとつ、訊いていいか?」
僕は、ずっと自分から目を反らし続けるシオリに、静かに声をかけた。
「君の家族から、預金口座を見せてもらった――君の家の預金口座に、匿名での送金をしていたのは、君だな」
「……」
「だが――あれには、下手な詐欺をする程度で稼げるような額じゃない額が、何度も入金されていた。あれは、どうやって?」
「……」
シオリは、しばらくの沈黙の後、席を立った。
「少し待ってて」
そう言って、シオリは部屋を出ていく。階段を上る音が聞こえた。恐らく部屋の間取り的に、二階は彼女の私室だろう。
すぐに戻ってきたシオリは、一つの箱を持っていた。湿気や衝撃に強い木材を使った、装飾が施された白い箱だ。
「ん……」
その箱を見た時、僕の目には違和感が飛び込んでくる。
「――これが、その秘密よ」
そう言って、シオリはテーブルに箱を置いて、僕に中身を見せた。
「!」
その中身を見た時、僕の体はここに来て初めて、強い動揺に心臓が収縮した。
箱の中身は、指輪、ブレスレット、ネックレスにティアラ――どれも贅沢に装飾の施された、見事な一品だった。
だが、これは――
「これは……」
「そうよ、あなたが帝国グループのザイゼン会長から注文された、妾へのプレゼント……」
そう、僕はあの爺さんから、何度も女のために贈り物の作成を依頼されている。
その中でも一番高い注文は、孫娘のレナの成人祝いだったが――これはその2番目。
「じゃあ、君は……」
「――そう、私は帝国グループの、ザイゼン会長の後ろ盾をもらったの――最終的に、あの人をターゲットにして」