Sorry
慌ててスクラップブックを箱に戻す。
扉越しに、右手に包丁を持った彼女の小さな背中を見た。
「……」
ポーカーフェイスが上手くなった。今の今まで彼女がずっと、こんなにも僕を見ていたなんて、気付きもしなかった。
彼女は、まだ僕のことを……?
チーン、という音。
「出来た」
シオリはエプロンを外す。ミトンをはめた手で、オーブンから器を出す。
「あ、あぁ……」
やばい……あんなものを見て、少し動揺してる。
僕はこういうことに関しては、すぐに顔や仕草に出るタイプだからな……落ち着け。
僕は席につく。リュートはシオリの横で、ちょこんと座った。
目の前にはブロッコリーの緑が映えるグラタンとポトフ、そしてサラダとバゲットが並んでいた。どれも何とも見事な出来映えだ。
「体が冷えてたのに……待たせてごめんね」
「いや……」
しかし、落ち着けと言い聞かす割に、僕の心拍数は、どんどん上がっていくのだった。
照れを隠すように、僕はスプーンを伸ばし、グラタンを口に運んだ。
「……」
あれ? と思う。見た目は完璧、チーズの焦げた匂いも完璧だったのに……ホワイトソースは豆腐のような味がして、中身はほとんど味がしない。
ポトフはコンソメの味が何処かぼやけ、野菜の甘味も何故か思ったより出てない。ベーコンを炒めずに投入してあるからか、肉の味が弱い。
「……」
――そういえば彼女の料理は昔もこうだったな……見た目はとても美味そうなのに、食べてみると微妙な料理を作っていた。
でも――その料理を食べていて、僕は何とも幸せな気分を味わっていた。
味だけで言えば、トモミの料理の方が、ずっと美味いのに――何故この美味くもない料理が、こんなに僕の胸を打つのか、自分でもわからなかった。
「……」
彼女はそんな僕を、じっと見つめている。
「どうしたの?」
「ううん。私の料理なんかを、あんまり美味しそうに食べるものだから……」
「そうかな……」
「仕事が忙しいから、きっと体がエネルギーを欲しがっているのね」
彼女は僕に笑いかける。
「私の料理、美味しくないでしょ」
「美味しくないって――味見してたじゃないか」
「知ってるでしょ? 私、味オンチだから……味見しても美味しく作れる保障がないの。不便でしょ? えへへ……」
彼女はたまに、こうして自虐的なジョークを言う時がある。僕は思わずつられて笑ってしまう。
「……」
――何だこれは。
この妙にほのぼのとした空気は……
きっと、7年前に僕達二人の道が別れなければ、ずっと前からこんな時間を送れていたのだろう。
毎日仕事に追われ、精神が今やボロボロになるまで仕事をしていた僕にとって、そんなゆっくりと流れる時間は、僕の胸をじんわりと満たした。
そして、目の前にはあの頃と変わらない、大好きだった女の子の笑顔がある。
「……」
ああ――思い出した。
7年前も僕は、いつだって彼女の笑顔に支えられていたんだ。
怒りや憎しみに満たされた心を、彼女の笑顔や言葉が、いつも解きほぐしてくれていたんだ。
それをこの7年、憎しみに苛まれて、すっかり忘れていた。
なんて……なんて幸せだったんだろう。
彼女の、花の蕾が花開くような笑顔を見て、凝り固まった表情と心が緩む感覚に気付く。
「……」
――僕は何を考えているんだ……
左手に残る、彼女を殴った時の感触が、僕のそんな考えを戒めはじめた。
――そんなことされなくても、もうわかっている。
彼女の笑顔が、僕のために存在するなんて、そんな思い上がりは、もう二度としない。
この笑顔を、いつまでも僕の側に置きたいなんて気の迷いは、二度と起こさない。
そんなこと、もう望まない。
そんなこと……
「なあ。ひとつだけ、はっきりさせておきたいことがあるんだけど」
僕は自分の甘い考えを振り払うかのように、意を決して彼女の目を覗き込む。
「僕は……僕は今の君のこと、なんて呼べばいい?」
「……」
彼女の匙が止まる。
「――そっか……昨日から一度も名前を呼ばないから、おかしいと思ったけれど……」
そして、下げた匙を皿に置いた。
「戸籍上も名前を変えていることも、知ってたんだね」
「……」
「かまわないわよ。どっちの名前で呼んでも」
「そうか。じゃあ……シオリ、で」
「……」
沈黙。
「お酒――飲む?」
彼女は沈黙に焦れるように、席を立ち、キッチンに入る。
「ワインでよかったらあるんだけど……」
そう言って、彼女は冷蔵庫を開ける。
「いや……いいよ」
僕も席を立ち、背を向ける彼女に声をかける。
「酒が入ったら、君とちゃんと話が出来なくなる……」
「……」
何も言わず、シオリはパタンと静かに冷蔵庫を閉めて、ゆっくりと僕の方を向く。
「……」
また沈黙。
「ごめん。昨日の時点で、君が自分の話をしたがってないのは、わかっていたんだけど」
前置きをする。
「まずは、僕の用件を済ませてもいいかな」
僕は彼女の目を真剣に覗き込んで……
深々と頭を下げた。
「その……ごめん」
頭を下げたまま、僕は声を上げる。
「7年前に、僕は君を殴ってしまった。それに……君にろくに説明もないまま消えてしまって……その……」
みっともないことこの上ないが、まず僕はその事を正式に謝罪した。
7年間、その事をちゃんと言えずに後悔しない日はなかった。
許してほしいなんてことさえ望んで言うわけじゃない。言わずにはいられなかったんだ。
僕は何だかんだで、海外で好き勝手やって、彼女が諦めた大学にまで行って、彼女が必要な金を、余らせる程持っていたんだ。
それを彼女にずっと見せていた。僕はなんて残酷なことをしたのだろうと……
フローリングに落とされた僕の視線は、ぎゅっと閉じられていた。彼女の審判を聞くのが怖くて、自然と目を閉じていた。
こんなに何かを怖いと思ったのは、生まれて初めてだ……親父に殴られる恐怖よりも、ずっと……
「気にしてないよ。だから――顔を上げて」
頭上から、優しく甘く鼻にかかる声。
顔を上げると、シオリは変わらぬ笑顔で僕を見ていた。
「私達だって、あなたがお父さんから、あれだけ辛い目に遭っていたのに、何もできなかった……あの状況、いくらあなたでも、高校生には判断が難しすぎるわ」
「……」
「色々な要素が重なっちゃっただけだよ。不幸な事故だって……」
そう言って、彼女は悲しそうに微笑んだ。
「……」
僕はまだ、そんな彼女が笑う理由が、上手く捉えきれなかった。
本当は――彼女の方が、僕よりもずっと強いんだけど……昔の彼女は、本当は自分も辛い時に、我慢して笑う癖があった。
今は、どっちだろう……
「……」
そう考えていると、シオリはすっと歩み寄り、彼女を傷つけた僕の震える左手を取って、自分の小さな両手で包み込んだ。
「私より、あなたの方が痛がってるじゃない……」
「……」
「ずっと、そのことで苦しんでいたのね。相変わらず、あなたは優しいね」
彼女はふっと息をつく。
「あなたは昔から、他人の痛みを自分のことのように感じちゃう人だったから……そういうところ、全然変わってないのね」
そんな言葉を僕にかけた
「変わったよ。僕は」
そう、僕は変わった。
あの頃、君と一緒にいた頃に見えていたものが、もう、僕には見えない……
あんなに世界が、はっきりと綺麗に見えていたのに。
今の僕の住む世界は――地獄だ。
阿鼻叫喚の悲鳴と、鮮血と腐臭の臭いの絶えない、涙の川が流れる地獄だ。
「私も変わったよ……」
シオリの悲しげな声が、僕の思考を遮断した。
「座って」
シオリは僕を椅子に促した。それから自分の仕事場から、ローラーのついた三脚椅子を引っ張ってくる。リビングのテーブルには、椅子が一つしかないためだった。
「コーヒーを淹れるわ」
そう言って、シオリはガスコンロに薬缶をかけ始める。
インスタントのコーヒーをカップに入れながら、シオリは口を開く。
「あなたは――どうして私の家族と会ったの?」
そう訊いた。
「――ああ」
僕は答える。隠しても意味はない。
「君の家族と僕が会ったのは、偶然でさ……地元に最近帰った時、リュートがいきなり走り出して……道行くシズカちゃんを見つけたんだ」
「……」
「君達の匂いを覚えてたんだよ。こいつは」
僕は傍らのリュートの頭を撫でた。
「……」
彼女は複雑そうな顔をする。
僕でも何となくわかる。話がもう、踏み込む領域に入ったことを。
「君が手紙で、家族に僕と会わないように頼んでいたのも、もう知っている。はじめはシズカちゃん達も、僕に君のことを話すのを迷っていた」
もう覚悟を決めて、僕は少し突っ込んでみる。
「でも……君の家族は、僕に思いを託したんだ。僕は君の家族に頼まれて、君を迎えに来たんだ」
下手な言い方だ。何故僕は、人にもっと優しい言葉をかけてやれないんだろう。
「いつから何でも屋さんになったの?」
彼女は意味のないジョークを言う。
「そんなのじゃないよ」
僕は否定する。
「放っておけなかったんだ。君を……」
「……」
沈黙。
「私が何故、名前を変えたかわかる?」
シオリは口を開く。
「……」
想像はついているが、口にしたくなかった。彼女の口からも、その言葉を聞きたくなかった。
「私は、あの家族を捨てたのよ」
僕の予想と同じことを言った。