表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
372/382

Home

『目的地、周辺です』

 ナビの終了を確認したころには、時計はもう7時40分を過ぎていた。

 農道地帯を抜けた道の先は、山岳地帯になっており、すり鉢状の盆地の下の集落の細い道をひたすら進んだ。段々と住宅の数が増えてくる。

 平屋が多く、おそらく昔ながらの住人が多いのだろう。広い庭のついた家が多い。各家庭の夕食の香りが、雪の降る凍てついた空気を温めるように香っていた。

 僕はコートを羽織ると、一度車の外に出て、目的地を見上げた。

 シオリの指定した場所には、一軒家が建っていた。

 だが――

 2階建ての、かなり年季の入った木造の一軒家。外観の木目が長年の風雨で随分と削り取られ、腐食が明らかに目で見て取れる。屋根は瓦造りのようだが、積雪のために確認できない。恐らく木目がこれでは、瓦だって相当ズレが生じているだろう。こんな大雪が降ったら、雪の重さで一気に潰れてしまいそうな、そんなボロボロの家だった。

 家には車2台が置けそうなくらいの庭がある。膝の高さほど雪が積もっていて、庭には何があるのか確認できない。恐らく彼女が昨日この家に帰ってきたはずだが、もうその足跡も、降り積もる雪に消されてしまっていた。

 庭で唯一確認できるのは、プロパンガスのボンベだ。この山岳地帯では、恐らく都市ガスを引いていない。この辺りの家、全てそうなのだろう。

「……」

 目的地に近づくにつれて、もうタイヤの轍は完全に消えていたので、雪にタイヤを取られないように、止まることなく、だけど慎重に周りを見て進んだが。

 この周辺には大きなスーパーも、コンビニも、アミューズメント施設もない。ネオンを発したり、夜間に煌々と明かりをつけているような施設が何もない。

 車を走らせる間、この雪なら当然かもしれないが、もう30分以上、一台の車とも、一人の通行人ともすれ違わなかった。ありふれたコンビニの明かりが愛おしく思えるほどに道は寂しく暗く――そして、静かだった。

 そして、このボロボロの家。

 こんな過疎地帯の古びた一軒家なら、二束三文だろうが、とても若い女性が一人で住むような家、場所ではない。

「……」

 シズカ達と出会ったばかりの、あの古びたアパートに、家族4人で住んでいる姿を見た時以上に、その彼女の生活環境は、僕にこれでもかと現実感を叩きつけてきた。

 これが、現在のマツオカ・シオリの現実なのだと。

「ふーっ……」

 視界の悪い、雪道の長時間運転で、さすがに疲れた僕に、この光景はなかなかずしりと堪えた。深く吐いた息は、ドライアイスのように雪に混ざって、暗闇に溶けた。

 とりあえず車は今、路肩に止めている。この雪では、しばらく止めていたら、タイヤが埋まって出られなくなってしまうが、近くに駐車場もない。

 ――いや、いいか。

 どのみち、もうこの雪じゃ、今日は帰れそうにない――近くに施設もない集落の道を、こんな夜更けに走る車もないだろう。

「リュート」

 僕は助手席のリュートに声をかけると、リュートは顔を上げて、目を開いた。この雪の深さでは、リュートはどの道足が埋まって歩けない。僕はリュートの、最近は食事もろくに摂らずに、すっかり軽くなった体を抱き上げた。

 僕は足跡のついていないその庭の雪を踏みしめて、玄関のドアの前に立ち止まる。板がただはめ込まれただけのような、セキュリティという言葉とは無縁の薄い扉だ。

「……」

 リュートを屋根の下に下ろし、呼び鈴を押そうとすると、その指先が震えていた。

 武者震いというやつだ。

 僕の――最後の仕事。僕の双肩に、彼女の家族や、ユータ達――僕にとっても大切な人の思いも沢山背負って、僕は彼女と会いに行く。

 実業家としては、諸葛孔明張りの神眼を持ち、常勝街道を突き進んだ僕だが、人の心を扱うことに関してはからきしだ。

 仕事では、行動を起こす前に、最低でも50は不確定要素を分析していたから、失敗など恐れたことのない僕だが、この勝負は、僕に勝算がどれくらいあるかもよくわからない。分析しようもない。

 説得するにも、材料もあまり用意していない。出たとこ勝負だ。

 このドアを開けて、鬼が出るか蛇が出るか……まだ何もわからないまま、ここへ来てしまった。

「……」

 失敗はできない。今日で全て終わらせるんだ。

 2、3度深呼吸し、僕は感情を昂らせて、インターホンを押した。ピンポーンという音。

 程なく扉が開く。

 そこには、コーヒー牛乳色のセーターの上から、青のエプロンをかけた、彼女が待っていた。

「いらっしゃい……来てくれたんだ」

 彼女は力なく微笑む。

「来るさ……来ないわけがない」

「寒いでしょう? 上がって。リュートくんも」

 スーツにまとわりつく雪を見て、彼女は僕達を中へ招き入れる。

「お邪魔します」

 僕とリュートはは敷居を跨ぐ。

 玄関は靴箱さえなく、半畳ほどの段差になっているだけ。そこにスニーカーや、ブーツが3、4足、無造作に置いてある。

 雪道を歩いて来たから、革靴の中の靴下も、少し濡れていた。

 靴を脱ぐ僕を見て、彼女はスリッパを玄関先に出した。

「……」

 レギンスを履く彼女の足に履かれているスリッパに比べると、新品同然――というより、買ったばかりという感じ。

 彼女は普段、この家に人を招くことはないということか。

「スーツ、脱いで。濡れているし、かけておくから」

 彼女はスリッパを履いた僕の背後に回って、僕にスーツを脱ぐよう促した。

「……」

 僕はスーツを脱ぐと、彼女は僕のスーツを後ろから持って、はじめから用意していたハンガーにかけ、近くの杭に吊るした。

狭い廊下を抜けて、すりガラスのはめ込まれた引き戸を開ける。

そこは板の間のリビングになっていた。広さは十畳ほどで、小さなテーブルがある。テーブルに椅子は一つ。

リビングの奥には、こちらもすりガラスのはめ込まれた引き戸が2つあり、片方は引き戸が開いており、もう片方は閉まっているが、明かりがついている。開かれた引き戸の先は、パソコンの置かれたデスクと、大きな本棚が見えた。恐らくここが彼女の仕事場だろう。

家の外観に反して、部屋の中は痛みを感じない、綺麗なものだった。埃や腐食の臭いは一切なく、部屋の中に香る、ミントのような芳香剤の匂いに混じって、美味しそうな匂いが少し混じっていることに気がつく。

 閉まっている引き戸の向こうから、ぐつぐつという音と、コンソメのような、いい香りがしていた。

 テーブルクロスの真ん中には、彼女の好きな竜胆が一輪生けられた花瓶がある。

「夕食、まだでしょ? 少し待っていてくれない? もう少しでできるから……」

そう言って、彼女は閉まっていた引き戸を開ける。やはりそこはキッチンだった。古びているが、きちんと掃除されているガスコンロに、鍋がかけられている。

 彼女の部屋は、僕が何となく想像したものと、ほとんど同じだった。

 人の気配や匂いがほとんどなく、竜胆の花を除けば、生活にまるで飾り気がなかった。

「そういえば」

 料理の下ごしらえをする彼女を見ながら、ふと思う。

「僕、女性の部屋に入るのは、生まれて初めてだ」

 そんなことに気がつくのが遅れるほど、彼女のこの家は、女の子然としていなかった。

 彼女はツボに入ったのか、ふふっと笑い出す。

「――それ、新しい口説き文句? 自分は女遊びをしていないって、そう言うと、女の子が信じてくれちゃうのかしら」

 彼女はじとっとした目で僕を見る。

「お上手だなぁ」

「え? い、いや、そんなつもりは……」

 僕はそんな反応を想定しておらず、どぎまぎする。

 だって――事実だし……正確には、ごみ溜めみたいな妹の部屋には入ったことがあるけれど。

「――冗談よ。あなたはそんな回りくどい口説き方ができる人じゃなかったもん」

 彼女はいたずらっぽく笑う。

「本当――相変わらずなのね……残酷なくらいに」

 彼女は笑いながら、ホワイトソースを縁の深い皿に、ヘラを使って流し込んでいく。

「ごめんなさい。あと10分くらいかかりそう……退屈だったら、テレビでも見てて……」

彼女はテーブルを指差し、座るように促す。

「いや、最近テレビはよくわからなくて……」

 最近というか、昔からだな……テレビなんか昔から見る機会がなかったし。

「手伝うよ」

 僕は上着を脱ぎかける。

「いいよ。あとはもうオーブンにかけるだけだし」

 そう言って、さっきのホワイトソースにチーズを乗せて、彼女はキッチンの角にあるオーブンにそれを入れ、つまみを回した。

「……」

 彼女の手は、白魚のように細かったけれど、全く飾り気がなかった。爪に何の装飾もない。

 昔は僕の方が、料理が上手かったのに、随分手際がよくなった。日常的に料理をしているのだろう。

 仕事柄、爪も綺麗に飾っている手をした女性と会うことは多かったが、本当はこういう手をした女性の方が、何となく好感を持つ。指を飾る指輪を作る仕事をする人間にはあるまじき発言だが……

 ガスストーブがチリチリと音を立てる。

 僕は半開きになった磨りガラスのはまった、引き戸の先の部屋が気になっていた。

 そこからは本棚が見えていて、彼女が読むにしては、ジャンルが違うような本が見えていたからだ。

「じゃあ――待っている間、本を見てもいいかな? テレビより、そっちの方が興味があるな」

「え……」

 そこで彼女は、明らかに動揺を見せたが……

「――ええ。いいけど……」

 彼女はスープを味見しながら頷く。リュートはシオリのそばに駆け寄って、その様子を見ている。

 僕は隣の部屋に入ってみる。広いデスク。その隣の棚に、プリンタと固定電話が備えられている。デスクには恐らくスペックにこだわりはないのだろう、3、4年前の古い型のデスクトップ。

 そして扉の両脇には、それぞれに本棚が置かれていて、本がびっしり入っている。

 昔の言葉を並べた用語辞典や、百科事典数式。季語などをまとめた資料、図鑑――これは仕事用だろう。

 日本語で書かれていない本も並んでいて、その中に一枚の紙切れが挟まっていた。

 それは、英語検定一級合格の証書だった。取得時期は6年前だ。彼女が東大にいた頃――

 ――なるほど。英訳本を読むのもお手のものか。才媛ぶりも健在か。

 もうひとつの本棚には、ビジネスや、心理学など、沢山の分野の専門書が沢山入っている。図書館にあったら、3年経っても借り手ゼロでもおかしくないような本もある。

 何冊か手にとって、パラパラとめくってみる。

「随分難しい本を読んでいるんだね」

 本に目を落としながら、僕は隣の部屋の彼女に言う。

「まだ読めてない本も沢山あるのよ。読んでもすぐ内容を忘れちゃうし……」

「この辺りに本屋なんてあるのか?」

「出版社との打ち合わせで、月に1回くらい都心に出るから、その時に買ってくるのよ。この辺りはお店も少ないから」

「……」

 辞典などが並んだ場所に、風景を撮り貯めた写真集の数巻セットが並んでいる。きっと情景をイメージするために使うのだろう。

「……」

 撮影者の名――エンドウ・ジュンイチ――

 ご丁寧に箱に詰まっていて、僕はそのひとつに手を伸ばす。

 それには花の写真が主に飾られていた。花の説明も写真集の後半に入っていて、花の名前もよくわかる。写真は花の美しさもよくわかる、繊細な撮影がされている。

「……」

 へぇ……ジュンイチの奴、こんな写真もやるのか。あいつは本当は人よりも、史跡や景色を撮りたがっていたからな……

 次の写真集を、手に取ってみる。

「……」

 違和感。手に取った箱には、図鑑ではない。別のものが入っている――

 箱を手に取り、中を開けると、中には一冊のバインダーが入っていた。

「……」

 ――見てはいけないもの――そんな気がする。

 だが、これから彼女との交渉の材料になるかも――現在の彼女を知る資料になるかもしれない……

 なんて考えながら、僕は恐る恐るバインダーを開いた。

「……」

『サクライ・ケースケ、高校サッカー選手権で最優秀選手に選出』『サッカーU―20代表ワールドカップ、日本代表、強豪イングランドを破る。サクライ、大会ベスト11に選出』『サクライ・ケースケ、フランスリーグアンに降臨! 天才児がサッカーチームと正式契約』『サクライ・ケースケ、イギリスの名門、オックスフォード大学に合格』『グランロースマリー、今年の国内企業の株価最高値を更新、サクライCEO、世界を動かす20代100人に選出』

 それは、7年前からつい最近に至るまで、僕に関する記事を事細かに記録した、スクラップブックだった。

 すごい……新聞は最低でも5つ以上、専門的な雑誌の記事まで……僕自身、載っていたのを知らない記事まで。

 彼女は……


色々考えたのですが、この話はこの通り長いので、あれだけ長いスパンが空いてしまうと、もう今までの話を忘れてしまった読者様も多いのかと思い、一日一話ずつの更新で、時間を空けて思い出していただきたいと思っていたのですが。

よく考えると1年以上待たせたうえに、こうして時間をかけるもの失礼だという思いもあったので……

今日で第3部終了まで全て更新したいと思います。


読むペースは読者様に一任することにいたしますので、宜しくお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もしこの話をお気に入りいただけましたら、クリックしてやってください。 小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ