Missing
「ご家族に連絡は?」
「いや――明日一人で来い、だからな。まだご家族とは切り離してやった方がいい。彼女が下手に動揺するだけだろうから」
「その方がいいよ。今はシオリの言うことを尊重すべきだと思う」
喫茶店を出た僕は、ユータの泊まるホテルのスイートルームに向かい、集合していた面々に状況の報告をしていた。その中には、勿論トモミもいる。
一人掛けのソファーに座る僕。
「で、どうだったよ」
ジュンイチが立って腕組みをしながら破顔する。
「7年越しのシオリ姫の御姿は」
「あぁ……」
僕はシオリの姿を反芻する。
「――高校の時より綺麗になってたよ。あの頃より髪も伸ばしてたし」
「社長が女の人を、手放しで綺麗なんて言うの、珍しい」
トモミが自嘲気味に言った。
「俺達が会う前に、トモミさんのことも、綺麗だって言ってたけどな」
ユータがフォローを入れた。
「そうかぁ。まあ、さぞ綺麗になっているだろうなぁ」
ジュンイチが窓越しの雪を眺めながら言った。
「シオリさんは、高校時代からアイドルのような感じだったが、まだ発展途上って感じのするあどけなさがあったからなぁ……この娘はどこまで綺麗になるんだろうって、大学に行ったシオリさんを見て、思ったもんだぜ」
「……」
そう、それがマツオカ・シオリの美しさだ。
単純な見た目ではなく、そのたおやかな雰囲気とあどけなさが、まだ彼女を少女にとどめていた。
この娘が女性になったら、一体どんな女性になるのか、そこに危うささえ感じるほど、シオリは少女としても未完成な部分を抱いていた。
それがシオリの魅力だ。一緒にいた僕も、彼女のそんな、花の蕾のような未完成な部分を摘んでしまうようなことが、勿体ないような、怖いような――そんな思いにさせられた。
だが――さっき会った彼女は。
「お前、随分と落ち着いてるな」
ユータが僕に声をかけた。
「密集地帯のゴール前でも、ループシュートを打ちそうなくらいクールだ。この前会った時は、ぐらぐら迷ってばかりだったのに……別人のようだぜ」
「……」
少し前までの僕は、シオリに期待し過ぎていたのだ。
7年前のように今の僕を肯定し、そうして今の自分を壊してほしかったのだ。
だが――両親を殺し、飛天グループの人間達を殺したことで、はっきりと悟った。
もう自分のことを否定し、壊すことはできない。
僕の手は、もう血みどろだから。
それを悟って、自分がシオリに何かを求めることを、僕はやめた。
もう、『あなたはそんな人じゃない』という言葉を求めることもなくなった。
「実際、滅茶苦茶ビビってるんだけどな」
僕は言った。
「こんなことは初めてだ――彼女が今目の前に存在するってことが、どうしようもない安堵を与えると同時に、自分を酷く急かしつける……」
自分の掌が震えるように力が入る。
シオリのそのか細い手――7年かけて、やっと見つけたその彼女のか細い手を、つかんだら二度と離すなと、体がひとりでに警告する。
「……」
シオリとの再会を、何度も頭でイメージしていたのに。
想定外に、僕の体が反応を示す。
それなのに――自分の心が、今まで以上に静かになる。
シオリと邂逅することを恐れていたはずで――今でも自信があるとは言えないのに。
「シオリを前にして、この7年、ずっと考えていたことが、全く言葉に出てこなかった――その言葉の選択一つで、運命が変わってしまいそうで……人と対峙して、こんなに怖いと思ったことはなかったよ」
「――お前にとって、それだけ大事なことなんだな」
ユータが言った。
「少し前のお前は、ピッチに立っても試合に入り切れていないサッカー選手のようだったが、今回の試合には、100%気持ちは入れているようだな」
「ああ」
「だが――シオリさんのことを考えるのはいいとして、お前はどうする?」
「何?」
「シオリさんを救う――その目的はいいが、それでお前はその先をどうする?」
「……」
僕のこの先、か……
「――この場で皆に、言っておきたいことがある」
僕は顔を上げて、皆の顔を一瞥し、最後にエイジの顔を見る。
「エイジ。僕はこのシオリの一件が、どんな形であれ片付いたら、一度グランローズマリーの一線から離れたいと思う」
「何?」
エイジが気色ばんだ。
「無責任なことだと自覚している――勿論できる限り、お前のサポートはするつもりだ。だが――僕自身は、今回の件が終われば、グランローズマリーの最前線から、一度距離を置かせてほしい」
「……」
エイジは言葉を失う。
「――まあ、お前の体はボロボロだ。相棒のこともあるし、休息をとるのは当然のことだが……」
「そうじゃない」
僕はエイジの言葉を遮った。
「僕は――もう戦えない」
「……」
「いや――今の僕の戦いは、もう一方的な搾取ばかりだろうな。僕はもう――それが出来そうにない。そんな体力も気力も、今の僕にはもう……」
昔は家族への復讐を果たすために、そして、シオリ達に自分を守ったことを後悔させない男になるために、手段を選ばずに戦い続け、どんな手を使っても勝ち続けてきたが。
家族に引導を渡し、シオリにも会ってしまった僕の心は、今では酷く穏やかになってしまって――
体の不調も相まって、僕の心は、次の戦いへと、全く足が進まない……
戦意が全くなくなる程、今の僕の心は、この足を止めることを僕に訴え始めた。
「……」
その一言だけで、全員が僕の現状を何となく察したようだった。
「だから――このシオリと向き合うこの一件を、僕の最後の戦いにしたいんだ」
「――そうか」
エイジは頷いた。
「お前、毒気が抜けたというか、随分穏やかな目になっちまった。もうそれは、戦いをする人間の目じゃねぇよ」
「――すまん」
「それでいいと思いますよ」
トモミが言った。
「最後の最後に、誰かを救うための戦いなんて、素敵じゃないですか」
「……」
トモミのその笑顔を見て、僕は思う。
前までの僕なら、こうして笑う彼女を見て、申し訳ない気持ちになっていたのだろう。
だが、今はその気持ちが、一瞬心を満たすが、すぐに粉薬のように胸の中で溶けていく。
それはきっと、トモミのことも、シオリのことも諦めるということを、自分で納得できたからだろう。
「……」
僕は立ち上がる。
「ユータ、積もる話もあるが――僕は今日は帰る。一人でもう一度、じっくり考えてみるよ」
「ああ、そうした方がいい。お前の人生の全てをかけて悩め」
「ありがとう」
「何かあったら、いつでも連絡ください」
「俺も、眠れないなら、話に付き合うぜ」
「私達も、今夜は遅くまで起きてるから」
トモミ達が口々にそう言った。
「みんな、ありがとう」
7年前の、家族への憎しみに苛まれた時は分からなかったが。
僕は本当に仲間に恵まれた。
そのせいだろうか、本当に今の僕は、心が穏やかだ。
自分でも不気味なほどに。
自分自身が空っぽになっていっているのが分かる。シオリを救うということだけで、僕の体は今、動いている。
だが――それが終わったら……
この僕の心を満たすメメントモリは――僕を『そこ』へと導くのだろうか……
次の日の朝も、東京は雪が降り続いていた。
ほぼ一日振り続いた根雪は、もう電車も飛行機も、昨日以上の高確率での運休を記録し、積雪は20センチを超えた。
ここまでくると、もう従業員を集めようとしてもできることはたかが知れている。僕は朝6時には、事故を防ぐために、東京都内の職場在籍社員に本日の臨時定休を通達した。
僕はユータのホテルから、一人自宅に数日振りにリュートと帰宅し、久し振りの長い睡眠をとり、活動を始めたのは昼過ぎになってからだった。
自分のマンションにある作業室の掃除をして、それから自室でパソコンを立ち上げ、自分がグランローズマリーを去った後のエイジの引継ぎのためのデータをまとめる作業を行った。
元々以前から僕はエイジにグランローズマリーを譲る気だったので、引き継ぎ事項の準備はある程度整っていたから、データ量は多かったが、それをまとめてUSBに取り込む作業は割とすぐに終わった。
3時にもなると、その作業もすべて終わり、僕は自分で落としたコーヒーをすすりながら、一人息をついていた。
「……」
作業室を空っぽにするまで片付け、自分の部屋のパソコンの液晶画面には「All data deleted」の文字が浮かんでいる。
――もう僕が宝石や貴金属を生成することも、財界に戻ることもこれでなくなるだろうか。
そんなことを考えると、少しだけ自分が自由になれたような、そんな気がした。
そして、思う。
まるで自分が、死ぬための準備をしているようだと。
「……」
――何を改めて考えているのだろう。
僕はずっと前から、自分が死ぬことを望み、その瞬間のことを幾度となく考えた。
自分は長い間、自殺志願者だった。
それなのに……
別にシオリの件がどんな結果になろうと、それが終わった後の自分のことは、あまり上手く想像できていない。恐らくその結果次第で色々な分岐があるのだろうと思う、という程度だ。
命に代えても、彼女を説得しよう、なんてことも考えてはいない。人の命を一つ捧げたくらいで何でも願いが叶うほど、命に価値がないことはよく知っている。
だが――僕はシオリのことに決着がついたら、また再び、自分が生きることに迷うだろう。
シオリの笑顔に、今の自分の死に場所を見ている僕は……
――いや、僕のことはどうでもいいか。
僕はただ――シオリがひとりぼっちで、大好きな家族と離れ離れになってしまっている状況が見ていられないだけだ……
それを何とかしてやりたい。それだけなのだから。
僕は昨日シオリから貰った紙を取り出して、パソコンでその住所を確認し、経路を選択する。
「……」
場所は都内とはいっても、23区外で、おまけに近くに電車もなく、途中でモノレールに乗り継ぎ、そのモノレール乗り場からさらにバスで20分という場所であった。
窓の外を見ると、雪は一時よりも弱まってはいたが、積雪は昨日よりもより深く、東京の街を静寂に包みこんでいた。この雪では、もはやモノレールの運航は絶望的だろう。
「車で行くしかない――となると、もうすぐ家を出た方がよさそうだな」
僕は椅子に座り直すと、僕の椅子の傍らにうずくまるリュートに視線を落とした。
部屋に戻るまでは、しっかりとした足取りで歩いていたリュートだが、部屋に帰って、僕と二人きりになると、またぐったりと座り込み、一晩中、ぴくりとも動かなかった。
昨日、ろくに動けなかったリュートが、シオリに会いに行く僕を見て立ち上がったのを見て、分かった。
最後まで、僕のことを見届ける気なのだと。
「リュート」
僕はその名を呼ぶ。
それを聞いたリュートは、ぴくりと反応し、覚束ないながらも、ゆっくりと体を起こし、僕を見上げた。
「――ついてくるか――なんて、愚問か」
僕がそう言うと、リュートは少し不機嫌になったように、鼻を鳴らした。
東京の大通りさえも、車の数はまばらである。
歩道は積雪20センチにもなり、ほとんど膝まで埋まりそうなほどになっているが。雪かきされた雪が歩道の脇に所々積もっているが、二日続いた雪はその雪の上に新たな雪をかぶせている。
車道は、さすがにどうしても車を使わなければいけない人が走る分、タイヤの轍が残り、何とかタイヤを取られず走れる状態ではあるが、もう道路の中央線は勿論、標識すらもろくに見えないほど、横殴りの雪が降っており、30メートル先の視界も覚束ない。渋滞でもないが、僕は速度を30キロにまで低下させて、空いている道を走った。
助手席には、リュートが鎮座している。こうして二人で車に乗ることは久し振りだった。体が冷えないように、リュートの体にはブランケットをかけている。
シオリの指定した場所は、高速の出口もない。東京の端だ。
途中まで高速に乗って、途中で下に降りようと考えたが、車内のラジオの交通情報では、どうやら高速でスリップ事故が起き、渋滞が起こっているらしい。僕は高速を諦め、一般道を使うことにした。
電車とモノレールを乗り継いで、そしてまたバスで20分――それは都内とは言っても、ほとんど隔絶された場所にあると言っていい。
新宿方面から、更に西に車を進める。
「……」
本来なら自宅から30分で行ける道だが、ここまでで1時間半弱も時間を要した。ナビではあと1時間走行する必要があるようで、このペースだと、彼女の指定の場所まで、合計で5時間近くを要することになりそうだった。
東京の雪道の運転には慣れていない。しかも、23区内を抜けると、道はますます暗くなり、目印になるような建物も、信号もなくなる。車道のタイヤの轍はどんどん薄らいでいく。中央線もない道は、どこに続いているのかもわからない。
そんな見たこともない道を走る僕を、酷く不安に、神経質にさせた。
「……」
そんな自分の不安を感じながら。
脳裏には、シオリのことが思い浮かぶ。
昨日、彼女も恐らくこの道を走って、あの出版社に行った。
彼女の小さな顔の半分を覆うような大きな眼鏡に、ぼやけた印象の服装、手入れの跡のない髪形。
――彼女の姿からは、明らかに、自分を地味に見せようとする努力の跡が見えた。
目立たずに、存在を雑踏に埋没させようとした、努力の跡が。
車が農道地帯に入る。見通しが良くなりはしたが、街路灯もほとんどなく、道は真っ暗。ナビがなければ、もう遭難したと思っても不思議ではない。360度、ほぼ完全な暗闇に包まれている。
「……」
昨日見た7年ぶりの彼女の姿は、酷く寂しげだった。
7年前と変わらない笑顔を見せようと努めていたが、その笑顔は、どこか影を帯びていて。
――そして、今彼女は、この雪に閉ざされた、何もない、寂しい道の果てにいる。
そんな思いを、景色の変わらない運転の紛らわしに考えながら。
僕は、今まで何度も感じた、一種のデジャブが自分の背に伝わるのを感じ取っていた。
それが、自分の背筋に、酷く冷たいものを走らせる……
僕は車内のヒーターの温度を上げた。