Cafe
「……」「……」
邂逅。
二人の視線の間は真空になったように張り詰め、小さな刺激が雷電の如く瞬いた。
「……」
僕の荒い息が、明らかに震えている。
しかし――
僕は後ろから右の手首を取られ、そのまま半回転し、腕を体の後ろへと極められる。
「不法侵入ですよ」
腕に走る鈍痛の中、僕が触れるごわごわした服は、恐らくガードマンのものだ。誰かが呼んだのだろう。
「あいたたた!」
後ろから声がして、僕の手首を取る手の力が弱まる。僕は拘束から脱出する。
見るとリュートが僕を拘束していたガードマンの足に噛みついていた。
リュートは威嚇するように、ワンワンと吠えた。
「この犬!」
ガードマンは警棒を抜く。
「やめろ!」
僕はリュートの矢面に立つ。
「待ってください」
凛とした声が響き、その場の全ての人間の動きが止まった。
振り向くと、椅子に座っていた彼女が立ち上がり、後ろにいた出版社の人間を見回していた。
「私はこの方に用があって、ここへ呼んだのです。この方のことは、私に任せてください」
「……」
呆気にとられる。昔から、彼女は持ち前の一生懸命さから、他人に自分の話を素直に聞かせてしまう才能があったが、今聞いたその声は、7年前のそれとは性格を少し変え、まるで王女のような気品に満ち溢れていたからだ。
「……」
僕も含めて、皆が沈黙する。
すると彼女は、ソファーの脇に置かれていた、女性用にしては大きめのビジネスバッグを持った。原稿を入れるために、大きめなのだろうか。
「それでは編集長。私はこれで……」
ペコリと頭を下げる。
「え? し、しかしコンドウさん。まだ話は……」
「私によくしてくれる皆さんの頼みですが……すみません。やはり私には……それは何を言われても変わりありませんので」
「……」
「失礼します」
そう言って、颯爽と僕が来た道を戻っていく。
「……」
何も言わずに僕とすれ違う。
「……」
何だ? まるで僕が見えていなかったように……
ててて、という音。
見ると、リュートが後ろ姿の彼女についていっている。
「……」
僕も二人を追いかけ、オフィスを出た。周りの人間の、イタい人を見るような視線を浴びながら。
エレベーターまでの廊下にいると思ってたけど、彼女の姿は見えない。エレベーターの表示を見ると、エレベーターは一階に向かって下降中だった。
エレベーターに一人乗り、一人下のフロアへ。
そして、扉が開いた時――
目の前で、リュートの体を抱き締めるシオリがいた。背の低い彼女には丈の長い白のコートに、黒のロングブーツ。
あのリュートが彼女の顔を見上げて、嬉しそうだ。彼女はリュートが僕の次になついていたからな……
「……」
何か――何て言うか。
僕の知ってる、いわゆる感動の再会シーンというやつとは、ちょっと違うと言うか……
リュートに先を越されて、僕だけ一人、部外者?
エレベーターから出る。扉の閉まる音。
「あの」
「ちょ――ちょっと待って」
何か言いかけた僕の言葉を、シオリは背を向けたまま制した。
「大丈夫――だからしばらく待ってて……」
「……」
とは言ったものの、なぜこんなところで彼女はうずくまっているのか……
――あ。
「もしかして――腰を抜かしたのか?」
なかなか立ち上がらない彼女を見て、僕はその可能性に気付く。
「――う、うん」
リュートの体で表情を隠しながら言う。
「だ……だってまさかあなたがここに来るなんて、思わなくて……心の準備っていうか……」
「……」
「――か、体、震えちゃって……急いで出てきたんだけど、リュートくんを見たら気が抜けちゃって……一気に腰が砕けた……えへへ……」
彼女は笑った。
「……」
その笑い方を見て、僕は胸の奥から熱いものに、心をきゅっと握られたようになった。
25年生きてきて、僕は『切なさ』という感情を初めて理解したように、彼女の笑顔に心を支配された。
だが――それと同時に、僕は微かな違和感を確かに感じた。
それは、今彼女がしている、妙に大きな眼鏡のせいだろうか……
何とか鳴動する心を立て直して、彼女に手を差し伸べた。
彼女はそれに気付き、リュートの体の影から顔を見せる。
「――久し振りだね」
気の効いた言葉を探したけれど、心が震えていて、声を絞り出すのがやっとだった。
「……」
顔を上げた彼女は、初めて僕の姿を見上げる。
「ケースケくん、ずぶ濡れじゃない。ズボンの裾とか……」
「……」
僕のコートは水を吸って重くなり、凍えそうな程寒い。さっきまでは脳にアドレナリンが出ていて、気付かなかったけど。
僕の手に、柔らかなものが触れる。
彼女が立ち上がり、僕の左手を、彼女の両手が包んでいた。
「こんなに冷たい……」
「……」
何だ、これ……
胸が、ドキドキする……
こんなに彼女に触れられたことで、胸が高鳴ったことはなかった。
彼女に会って、冷めきった自分にこんな反応が出るとは、思いもよらなかった。
そういえば、僕は彼女といた時も、これが僕の初恋だなんて考えたことはなかった。
でも、今はよくわかる。彼女が僕の初恋の女なんだと――
「あ……」
彼女は、ばっと手を離す。
「ご、ごめんなさい。私……」
かあっと顔を赤くする。
「相変わらずだね、君は」
何とか口に出来た言葉は、それだけだった。
何だろう。現実に目の前にいる彼女は、それだけでリアルなのに、僕の心は、それをまだ現実とは捉えられないのか。
この7年、何度彼女の夢を見、何度彼女の写真を見ただろう。それがいつの間にか、彼女のことを、夢や思い出の中でしか会えない存在にしてしまっていたのか。
「……」
彼女も、僕のその言葉に少しだけ照れ臭そうにしたが、やがて僕の方を見て、微笑んだ。
「あなたも――久し振りね。ケースケくん」
それを聞いて、傍らにいたリュートが、ワン、と吠えた。
「あぁ――ごめんね」
彼女はまたしゃがみこみ、リュートの頭に手を伸ばした。
「リュートくんも、久し振りだね。私を覚えててくれて、嬉しいよ……」
そう言った彼女の声の優しさが、心地よく耳に残留した。
三人で出版社の外に出ると、もう外は真っ暗で、雪の粒は更に大きくなっていた。
道路には往生した車が不機嫌そうにエンジンを唸らせ、道行く人は転ばないように、下を向いて歩く。
僕達は出版社の入り口の屋根で雪を防ぎながら、降りしきる雪を見上げていた。
7年前、初めて彼女との鼓動が重なった、あの夜のように、雪は深々と降っていた。
「この雪は、やみそうにないな……」
僕は呟く。
「傘……入って」
シオリは自分の持っていた、小さなビニール傘を差して、僕の方へ差し出してくる。
「いいよ。どうせ濡れついでだし」
本当は相合い傘をしたかったけれど、僕が入ったら、彼女が濡れてしまう。彼女を濡らしたくなかったから、それは断った。
「それより……少し時間をもらえないかな」
僕は空を見上げた。
「お茶くらい奢るからさ」
変な言い方だ。何だか古いナンパみたいだ。しかも時間的に、お茶より飯じゃないか……
「うん。近くに出版社の人と打ち合わせで使う、コーヒーの美味しい喫茶店があるの」
――そして僕達は、喫茶店に入った。渋くて感じのいい店だった。ガーシュウィンがレコードで流れていて、バーカウンターにはグラスが逆さ吊りでオブジェとしても飾られている。薄暗い店内を照らす照明は、壁の木目に反射して、間接的に店内を照らしていた。恐らく夜になるとバーとして経営しているのだろう。
僕も好きな雰囲気だったけれど、止みそうにない雪の日だ。もう電車も止まっているし、ここでのんびり時間を過ごすような人間は限られる。客は2、3組、いるだけだった。
僕達は店の一番奥の席に座る。都内の喫茶店は今はペットも入れる店も多い。リュートは僕の椅子の傍らに立つが、彼女に会えたことで、最後の力を使い果たしてしまったのか、僕の横で蹲ってしまった。
「リュートくん、どうしたの?」
「あぁ……何でもないよ。少し疲れたんだよ」
僕はずぶ濡れのコートを脱ぎながら言う。
もうすぐこいつは死ぬのだと、伝えた方がいいのだろうが、それは今じゃない。
リュートには可哀想だが、今僕が言うべきことは、それじゃない。
ウエイトレスが注文を聞きに来る。僕も彼女も、ブレンドを注文した。それを聞いて、ウエイトレスが戻っていくと、カウンターから豆を挽く音が聞こえ出す。
「……」
僕はコーヒーを待つ間、外の雪の様子を窓越しに伺うシオリのことを眺めていた。
一応クライアントである出版社に赴くために、少しの化粧を儀礼的に施してはいるが、その小さな顔の半分を覆うような大きな眼鏡に、無造作なほどの黒のセミロングヘアを後ろでゴムで束ねただけの髪型。短く切り揃え、マニキュアも塗っていないシンプルな爪。服装もコーヒー牛乳色のセーターに黒のピーコート。
――明らかに、地味な女を装い、目立たないように努力している。
「ケースケくんも、疲れているみたいね」
彼女は言った。
「あなたは昔から、ひとりで抱え込んじゃう人だったから……仕事で無理してるんじゃない?」
「……」
やはり彼女は、ずっと僕のことを見ていたんだ。それはその一言でよくわかった。
普通、久し振りに会ったら、ユータやジュンイチでさえ、僕に、大成功したなぁとか言ったのに、それを言わなかったのは、彼女が初めてだ。
わかっていたんだ。今の僕のいる場所が、僕にとっては苦痛に満ちた場所だということを。
だが……
「君はどうなんだよ」
「え?」
「この際僕のことはいい――君は今、ひとりで……」
そう言いかけた瞬間に、ウエイトレスが僕達のコーヒーを持ってきたので、言葉が止まる。
「……」
ウエイトレスが去った後に、また沈黙が流れる。
手持ち無沙汰を誤魔化す半分に、僕はコーヒーを一口飲むと、冷えた体に体温が戻ってきた。苦いのに飲みやすい。今まで飲んだ喫茶店のコーヒーで、一番美味しい気がした。
そういえば、僕達は付き合っていた頃も、こうして喫茶店でだべったことなんてなかったな……
「……」
さて、改めてどう切り出すかな……
「エンドウくんやヒラヤマくんとも、最近再会したのよね」
そんなことを考えている間に、シオリが訊いた。
「ああ。そうなんだ。ジュンイチはマイさんと結婚していてさ。一月くらい前かな? マイさんが妊娠したっていきなり言ってさ。ジュンイチの奴、呆然としちゃってさ。その顔が本当に笑えて……」
僕は妙に上ずった声で、無理にオーバーなリアクションを取った。
「――そうなんだ。マイが妊娠か……エンドウくんって、いいパパになりそうだよね」
彼女も笑った。
よかった……久し振りだし、はじめは幸せな話題を送りたかったから。
「そっか……幸せなんだね。2人とも」
シオリがフッと息をつく。
「……」
沈黙。
音楽がガーシュウィンから、ジャズに変わる。
「そ、そうだ」
僕はコートのポケットから、トモミに渡されたデジカメを取り出す。
「これ、ついさっき皆で撮ってきた写真なんだ。君の家族も写っている」
僕はデジカメのフォルダを開いて、トモミが撮った集合写真を出したデジカメを手渡した。
「……!」
それを手に取った彼女は、小さく息を呑み。
それからしばらくして、切迫した息遣いを喉の奥で押し殺すように、小さく嗚咽し、俯いた。
「お、おい」
「だい――じょぶだよ――ちょっと――待って……」
何とか彼女は、声を絞り出す。
「……」
「クゥン……」
リュートがシオリの横にすり寄った。
「え? ――えへへ……ありがと、リュートくん……」
シオリは濡れた目尻を指で拭うと、笑顔を無理に作って、リュートの頭を撫でた。
「……」
彼女が鎮静のために、僕から目を反らし、深い呼吸を繰り返しているのを待ちながら、僕は7年振りの彼女の観察を続けていた。
――明らかに、無理をしている。
自分を地味に見せる努力もそうだが、今の彼女の笑顔……
あの時と同じように、少し癖のある笑顔を見せるが。
シズカ達が僕に見せた、彼女が書いたであろう手紙の文面。
あれと同じ――酷く無味無臭だ。
はじめそれを見た時は、とりあえず笑顔を見せられることにひとまず安心したが……
二度目の彼女のその笑顔は、その違和感が安心感よりも先に、心に届いた。
「――それで、二人に会って、私のことを思い出したの?」
その違和感に戸惑っている僕に、シオリは訊いた。
「だから――こうして私のところに来たの?」
「え?」
「私のこと――エンドウくん達に訊くまで、忘れてたかな……」
「そんなわけないだろ」
僕の声が少し荒ぶった。
「僕は――」
言いかけて、言葉が詰まる。
あの日――親父の盾になって僕に殴られた君を案じていた。
あの日のこと――君に酷い手紙を残して君の前から消えたことを、ずっと謝りたかった。
この7年、ずっとそんなことばかり言いたかったのに。
その言葉が出てこない……
「ねぇ、ケースケくん」
そんな思考を巡らせる中、先に口を開いたのは、彼女だった。
「私、何でケースケくんが、今日私に会いに来たのか、大体理由はわかってるつもりなんだけど……」
「……」
「でも、いきなりのことで私、気持ちの整理がついてなくて……上手く喋れそうにないの」
「――そうか。そうだろうね」
「だから……明日じゃダメかな? 話すの」
「……」
「ちょっと待って」
そう言うと、彼女は自分の大きめの鞄から手帳を取り出し、メモ欄を一枚破って、何かを書き始めた。
そして、書き終えたものを僕に差し出した。
それは、地図だった。駅からの道のりが、詳しく書かれている。地図の左下に、住所が書かれていた。
「今の私の仕事場なの。都心からは結構遠いけれど――ここなら、邪魔も入らないし……どうかな?」
「……」
僕は視線を紙から彼女へ戻す。
「そうだね。そうしようか。君の気持ち、考えなしに会いに来ちゃったもんな。心の準備、できないよね」
「――ごめんなさい」
「いや、謝らないでくれ」
僕は、手を広げる。
「でも、ひとつお願いがあるの」
彼女は申し訳なさそうに言う。
「明日もここには、あなた一人で来てほしいの。二人きりで話したいことがあって」
「……」
「クゥン?」
「あ――リュートくんなら、大丈夫よ」
何故そこに念を押すのか、いくつかの選択肢はあるのだが。
恐らくこれは、家族を連れてこないでくれ、という念押しだ。
と、いうことは……
「あぁ……わかった。一人で行くよ」
「ありがとう。じゃあ明日の午後8時、その場所で……」
そう言うと、シオリは席を立ち、二人分のコーヒー代の千円札を置いて、それじゃ、と言い残して、一人喫茶店を出ていってしまった。
一人残される僕。
「……」
僕は千円札をつまみ上げながら、シオリの出て行った喫茶店のドアを見て、大きく息をついた。
「ふーっ……」
「クゥン?」
大きく息をついた僕を見て、リュートが力なく顔を上げた。
こいつが喋った夢を見たせいか、別れが近づいたことで、妙にシンクロ率が上がっているのか、こいつが何を言いたいのか、確信めいて分かった。
『その溜息、あれだけ威勢よく飛び出したのに、ご主人も心の準備ができてないとかで、疲れたのか?』
きっとこう言いたいのだろう。自分との別れにも少し動揺してしまった僕に、体を張ったこいつなりの皮肉だ。
「――トモミさんの言葉を思い出していた」
僕は店の誰にも聞こえない、リュートの耳にだけ届くような声で言った。
「想定される事態を、今のうちに沢山考えておけ……」
シオリ――僕の目は節穴だけど。
君がどんなに無理をしても、唯一、はっきりと見えるものがあるんだよ。