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「お父様。中央ですともう少し背筋を伸ばした方がいいです。シュン様はネクタイが少し曲がっています」
トモミはデジカメを構えながら、実に細かい指示を出した。中央の椅子に座るマツオカ家の面々を中心に、僕とジュンイチ、エイジとマイが横に立つ構図だ。
僕はそんなトモミを見ながら、彼女が無理をして、シオリの家族のために協力しようとしているのではないか、一瞬心配になったが……
もうトモミは、しっかりと前を向いているのが分かった。少し前にシオリの家族をここに招いた時は、気になって何度も僕やシオリの家族のことをちらちらと目で追っていたのに……
「社長、社長ももっと顎を上げてください!」
そんなことを思っている僕が、上の空になってトモミに怒られた。
「……」
何となく懐かしさを覚える。
あぁ、ちょっと前は僕はトモミに、よく『バカ』と言われて怒られていたっけ。
色々なことがあって、僕達の関係が少し変化して、トモミも少し委縮してしまっていたのだろうけど。
こうして僕の尻を叩くような彼女が、一番彼女らしい。
「うん、いいですね、じゃあ、撮りますね。はい、チーズ!」
その10分後にユータがグランローズマリーに到着。今度はジュンイチのファインダー越しに撮影をし、何度もフラッシュが社長室に飛び交った。
「うーい」
超長距離移動を終えたユータは、撮影を終えてようやく一息つき、ネクタイを緩めて、スーツのジャケットを脱いだ。
僕達は今、社長室の横の応接室のソファーに座り、トモミの淹れてくれたコーヒーで体を温めていた。
「む。美味しい……」
シズカはどうもトモミのことを警戒しているようだが、コーヒーを一口飲んで複雑そうにトモミの方を見ていた。
「ありがとうございます」
トモミはさすがに歳上だからか、シズカににこやかな笑みを浮かべた。
「ふっふっふ」
ユータはそんなシズカとは初対面だったが、二人の間の空気を察したのだろう。不敵な笑みを浮かべていた。
「東京の雪景色を見下ろしながら、こうしてコーヒーを飲むか……」
ジュンイチはカップを持ちながら、窓の外を見た。
「お前の好きな酒はないが、これもおつなもんだ」
「本当ですね」
アユミがふっと息をついた。
「こうしてこんなコーヒーを飲めるなんて、何だか少し気が抜けたみたい……」
そう呟いて、アユミはコーヒーを淹れたトモミに会釈した。
「そうだな。何だかこの数か月で、生活が一気に変わって。こういう安らいだ時間が段々増えてきて」
呟くゴローの横で、シュンも黙って頷いていた。
「うんうん。颯爽と現れて、私達のことを助けてくれて」
シズカが僕を見てにこにこと笑った。
「さすが、私のおにいちゃんだ」
「――ぷっ」
そのシズカの発言に、トモミを除いたその場の全員が、ほぼ同時に軽く噴き出した。出たな、という意味だ。
「む……」
「その響きで、前回ケースケ、しばらくぼうっとしてたぜ」
その呼び方をさっきから期待していたのだろうジュンイチが、にやにやしながらシズカに囁いた。
「ああ、その攻め方は面白い」
事情を知らないユータもシズカを焚き付ける。
「やめろ、二人とも」
僕は二人を軽くいなして、シズカの方を見る。
「シズカちゃん――あまり大人をからかうんじゃない」
「照れるんですか?」
シズカは首を傾げた。前回と違ってちゃんとした服を着て、メイクも施している分、表情が以前よりも自信を持っていて。
その表情が7年前に初めて会った時の、ちょっとおませで小悪魔的な魅力を持ったシズカの表情を思い出させた。
「私、もう今年22ですよ。秋葉原のアイドルグループとかだったら、もうきっとおばさん扱いされてる歳なのに。おにいちゃん、なんて、ちょっとイタいくらいの年齢なんですけどね」
「――それでも、僕がシズカちゃんと初めて会ったのは、まだシズカちゃんが中学生
で、子供だったからな……その頃の印象がやっぱり強い分、どうもな……」
「……」
シズカは僕の発言を聞いて、少し眉間に皺を浮かべた。
「――私、もう大人ですよ――心も――カラダも」
「ぶっ――ゴホッ、ゴホッ……」
僕はそのシズカの発言に、コーヒーを吹き出しかけた。
ユータが口笛を吹いてみせる。ジュンイチは大爆笑。マツオカ家の他の面々はしどろもどろしている。
「か、体も?」
「――カラダも」
シズカは往年の小悪魔のような笑顔で、僕に囁いた。
「本気ですよ、私」
茶化しムードの応接室で、シズカは凛とした目で僕を捉えて、空気を正す声を出した。
「そりゃ、サクライさんはお姉ちゃんのものだって分かってるし、私よりも、ずっとお姉ちゃんがサクライさんを必要としていて、サクライさんとお似合いで――それも全部分かってます。お姉ちゃんを悲しませてまで、サクライさんのことを自分のものにしたくないって、ちゃんと思ってる――でも……そう言い聞かせ続けると、なんかふっと寂しいというか、胸が痛いというか……」
「……」
照れ笑いを浮かべながら言葉を紡ぐシズカの体が次第に震え、その後に声も震え出したのが分かった。
シズカは今まで、口には出さないでいたが、シオリへの念と、僕への念で葛藤していたこと――その期間の長さと、今まで誰にも口外していなかった思いだということは、それだけで僕も察することができた。
「でも、せめて気持ちだけは伝えるくらいなら、セーフかな、なんて……えへへ……」
「シズカちゃん」
僕はシズカの目をまっすぐに見た。
「う……」
僕に呼び止められ、僕の目を見て、シズカはびくりと体を硬直させた。
「ごめん、僕はシズカちゃんの想いに応えてやることはできない」
「……」
シズカも、周りにいる他の全員が、僕の方を見た。
「そりゃ嬉しいとは思うんだ。シズカちゃんみたいな娘からそんなことを言ってもらえて、正直気分はいい――けどさ、どうしてもそう思った後に、シオリのことが思い浮かぶんだ」
「……」
「今は本当にシオリのことしか考えられないんだ。あの娘がどこかでひとりぼっちで泣いていないか――ちゃんと食事は摂れているのか、笑えているのか。それができないのだとしたら――何のために自分がいるのかを見失いそうな気がする――シズカちゃんといても、僕はきっと駄目になると思うんだ」
「……」
「だから――嬉しいけど、今僕がすべきことは、そうじゃないと思うから――ゴメンね」
「……」
全員が沈黙して、僕の様子を窺っていた。
特にユータは、数か月ぶりに実際に会った僕の様子を、まるでペナルティキックを蹴る時にゴールキーパーを観察するような鋭い目を向けていた。
「――そっか。そうですか」
少し自嘲気味に笑いながら、シズカは首を一度軽く左右に振って、ゆっくりソファーから立ち上がった。
「あーあ! わかってはいたけれど、やっぱりお姉ちゃんにはかなわないなぁ」
シズカは大きく伸びをして、自分の心情を吐露した。
「ていうか、お姉ちゃんは色々ズルい!」
「え……」
「ズルいですよ! お姉ちゃんはこんなにサクライさんに心配されてて、ずっとサクライさんに心配させて――他の女の子に、全然チャンスがないままで――ずっと、サクライさんを独り占めで」
「……」
「――まあ、我が姉ながら、国民的な人気者のサクライさんを独占しても文句を言わせないくらいの|女≪ひと≫ではありましたけどね」
「……」
「はぁ! やめやめ、お姉ちゃんに張り合おうなんてことは、もうやめます」
「――そうか」
僕はほっと胸を撫で下ろした。
「さあ、みんな、もう私達は帰ろう。サクライさんも色々忙しいんだから」
シズカはそう言って、他の家族に立つように促した。
「どうせこの雪じゃ、仕事にならないからいいのに」
「いいんですよ。お忙しい中、話を聞いてくれたってだけで」
「……」
「でも――ほっとしました」
「え?」
「サクライさんが、私の告白なんかで揺れてくれなくて」
そう言ってシズカは、僕の前に歩を進める。
「私の告白でぐらつくようだったら、怒ってあげようと思ってたから」
「――何だ、じゃあさっきの告白は、カマかけられただけか」
僕はふっと失笑をこぼす。
「本気で返事を考えちゃったのが、少し恥ずかしいな……」
「ふふふ――そう思いますか?」
そう、ふっと言葉をこぼしたシズカは。
そのまま一足飛びに僕の横に立ち、僕の左頬に、自分の唇を優しく触れさせた。
「うおッ……」
ジュンイチとエイジが息を漏らす。
「……」
僕は左手で頬を摩りながら、動揺して、まずシズカの父親のゴローの方を見た。
娘がいきなり男に告白し、キスシーンを見せられ、ゴローはもうゲシュタルト崩壊をしたかのように瞳孔を開かせていた。
それから僕は、すぐ眼前で僕を見上げるシズカの顔を見る。
「ふふっ、サクライさん。あんまり女を甘く見ちゃダメですよ」
そう言って、シズカは僕に背を向けて歩き出し、そのままくるりと振り返った。
「これでお姉ちゃんを助けられなかったら、責任、取ってもらいますからね」
そう小さな声で僕に微笑みかけると、シズカはそのまま会議室を出て行ってしまった。
「……」
突然のことと、家族の面前でキスをされたことに驚いた僕は、とりあえず周りを一瞥する。
僕は、申し訳なさそうに僕に苦笑してみせるマツオカ家の面々と、まるで汚物を見るようなじとっとした目を向けた、他の連中の視線に包囲していた。
「――何だよお前ら、その目は」
「――お前、いくら何でもフラグを乱立させ過ぎじゃねぇの?」
ジュンイチがそう吐き捨てた。
「まったくだ。この女の敵め」
エイジも罵倒に乗る。
「天然ジゴロ、人間磁石、ギャルゲー主人公、ラッキースケベ……」
ユータも苦笑いを浮かべる。
「お前ら……」
「でも」
トモミが落ち着いた声で割って入る。
「それで揺れずにシオリさんのことを考えてたっていうのは、評価できますけどね」
「……」
「今の妹さんの断った理由、そのままシオリさんに伝えてあげればいいじゃないですか。なんか今の言葉、社長の今の行動の説明として、すごくわかりやすかった気がします。」
「……」
僕は頭を掻く。
「とりあえず、シズカ姉を放っておくわけにもいかないっすね」
沈黙をシュンが破った。
「一応、絶賛失恋中なわけだし」
「そ、そうですね。私達はシズカちゃんを追いかけます。ほら、お父さんも」
「あ、ああ、そうだな。すまないサクライくん。シズカがいきなり、とんだ無礼を」
ゴローは僕にぺこぺこと頭を下げた。
トモミに促されて、マツオカ家の面々は社長室を出ていく。
僕達は社長室に出て、突然のことに息をついて、気持ちの整理に努めた。
「サクライくん、全然女遊びしてないんだね」
マイがいまだに左頬を気にする僕を笑った。
「でも、ちゃんとぶれずにシオリのことを考えてるって言えたじゃない」
「……」
「やっぱりサクライくん、かなり変わったよ。どういう心境の変化があったの?」
「……」
――これはいわゆるメメントモリ。シオリの笑顔が最後見れるなら、もうそれで十分――シオリの笑顔を、自分の死に場所と思えるようになったから。
なんてことを、こいつらに言うわけにはいかないな……
僕は自分のデスクの上に腰を預けて、天井を少し見上げ、歪曲な言葉の咀嚼に努めた。
「最近、シオリとトモミさんのことを考える時間が増えた」
「ん?」
「トモミさんが病院で、僕に言ったんだ。好きとか嫌いとか、同情とか愛情とか、もうそんなのわからない、って」
「……」
「シオリもさ、7年前に僕に最後に言い残した言葉があったんだ」
僕は目を閉じる。
「どんなに時間がかかってもいい。あなたは、ユータやジュンイチとバカやって、サッカーをしていた頃の、サクライ・ケースケのままでいてください、って」
「ふむ」
ユータやジュンイチも頷く。
「――きっと、自分の気持ちが届くとか、報われないまま終わるとか、自分に利がないとか、そんなものをどうでもよいと思って、誰かの幸せを願う――そういうこともあるんだな。僕はシオリに7年前、それを教わった気がする」
それから僕は、ユータ、ジュンイチ、エイジ、マイの顔を見る。
「きっと、7年前のお前達も、そういうことを僕に伝えたかったんだな。あの頃は気持ちに余裕がなくて、そういう気持ちを分かれずにいたけれど――」
僕は軽く失笑を浮かべる。
「だから今度は、もしシオリが昔の僕のように、ひとりぼっちになってしまっているなら――同じことをしてやりたい。付け焼き刃や、自己満足と言われるかもしれんが、7年前のシオリの言葉を、自分なりに考えたってことくらいは、見せてやらなきゃな、と思う――」
僕は襟を正すと、皆を一瞥し、深く頭を下げた。
「すまなかったな。7年前のお前達の言葉を聞けなかったこと、この場で詫びさせてもらおう」
「――ふ」
ユータが笑った。
「たまに出るケースケのデレだが――こいつがデレた時は、一回り人間がでかくなった証拠だな」
ジュンイチが髭を摩った。
そう言って、ユータとジュンイチはお互い僕に近づいて、僕に右拳をそれぞれ突き出した。
「シオリさん、必ず連れ帰れよ」
「そしたら、みんなでいっぱいシオリさんを叱って、その後ごめんなさいして仲直りして」、盛大な宴と行こうぜ」
「ああ」
僕は二人の拳に、自分の拳をそれぞれ合わせた。
その折。
僕の携帯電話がぶるぶると震えたのだった。
「もしもし」
『もしもし。お忙しい中失礼いたします。サクライ様の探し人の消息をつかむことができました』
その探偵の言葉を聞いた瞬間、僕の心のギヤが一気にチェンジしたのが分かった。
「今すぐグランローズマリー本社へ来てください」
『え? あの』
「この雪で来れそうにないなら、迎えの車をよこしてもいい。大至急ここへ来てください」
そう言って、僕は探偵の返事を待たずに、電話を切った。
「ふぅ……」
電話を切っても、自分の心臓の鼓動が軒並み早くなり続けているのが分かった。
ふつふつと、自分の心が高ぶっているのが分かる。
「――おい、今の電話って」
そんな僕の様子を見て、エイジが僕に訊いた。
「シオリの消息がつかめたらしい」
「……」
沈黙。
「――えらい剣幕で、探偵さんにここに来い、って言ったな」
ユータが腕組みをした。
「常に冷静なお前にしては、意外だった。シオリさんにそんなに逢いたいか?」
「逢いたいよ」
「即答かよ……」
ユータはトモミの方を一瞥した。そしてその後、肩をすくめる。
「別に会って何をしようとか、今彼女がどうなっているかとか、具体的なことは何もわからないがな――ただ、シオリが今ひとりぼっちで泣いているかもしれない――それだけのことが、どうしようもなくシオリの方へ僕を駆り立てるんだ。トモミさんには申し訳ないと思っているがな」
「……」
「探偵がここに来るまで、時間がかかるだろうが――お前達はどうする?」
「もちろん待たせてもらうぜ」
ジュンイチは言った。他の面々も頷く。