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セリエAの今年の日程が全終了し、ユータが帰国のために搭乗したローマ~羽田便は、東京に突如襲来した大雪のため、着陸先を成田空港へと変更した上に、到着が2時間も遅れることになってしまった。
積雪は10センチを超え、予報では更に積もる模様。電車も飛行機も地下鉄も、ほぼ全線運休、東京の都市機能は大部分がストップ。車もチェーンを巻いたタイヤか新品のスノータイヤを装着した車以外は走っていない。
「――ああ、状況は分かっている。無事に迎えの車に乗ったんだな。分かった。ああ、ゆっくり来ればいいさ。どうせ今日は仕事はなさそうだからな。ああ」
僕は成田に回したグランローズマリーの車中からのユータの電話を取り、到着時間を大まかに確認して、電話を切った。
「ヒラヤマさんも災難ですね」
僕の横にいるトモミが言った。
「しかし――本当に東京ですか、これ」
グランローズマリーの社長室の大窓から摩天楼を見下ろしたトモミは、まるでスキー場近くの民宿前の風景のように雪に埋もれた東京の街を、信じられないという気持ちで見ていた。
車もろくに走らず、歩行者に至っては車よりも少ない東京のビル街は、あまりにも静か過ぎた。粉雪が深々と降りしきり、音を封じ込めているようだった。
僕は自分の椅子に深く腰掛けて、ふっと息をついていた。
この部屋も、今は僕とトモミとリュートしかいない。
「静かだな……」
元々僕は喧騒を嫌い、静寂を貴ぶ人間だ。街は機能が止まって大混乱しているのに、この静寂は僕には心地よかった。
会社も通勤可能な希望者が来てはいるが、今日は事実上の開店休業状態。グランローズマリーの総合的マーケットであるローズストリートも、駐車場もテナントも雪に埋まりかけていて、客なんてほとんど期待できないと連絡を受けている。
僕への来客も、雪で交通機関がストップしていることで、ほとんど後日に先延ばしになり、僕は思わぬ手持ち無沙汰な時間を得ることになった。
「ゴホッ、ゴホッ……」
「社長、ちゃんと休めてます?」
トモミが訊いた。
「仕事は相変わらずハードだし、リュートくんのこと、ずっと見てますし、ここで泊まり込みじゃ、疲れも取れないでしょう」
「いや……大丈夫だよ。たまに部屋に帰って、風呂にも入ってるし」
「お風呂は毎日入ってほしいんだけどな……気分転換にもなるし」
「……」
「あ、じゃあ私、気分転換に、肩でも揉みますよ」
「え……」
返事をする前にトモミは僕の椅子の後ろに立って、僕の肩に手をかけてきた。
「い、いいですって。別に……」
「いいですよ。今日は私、これから出番ないですから……後で髪も直してあげますよ」
「……」
何だか照れくさい。
確かに体中はギシギシしていて、ひたすら体は重い。
肩は凝っていないわけじゃないが、誰かに肩を揉んでもらうなんてしたことがないから、何だかくすぐったい。
「ふふふ、社長、体に力入れすぎ……女にちょっと触られただけで緊張するなんて」
緊張して強張った体の正体を見破られる。
「……」
僕は観念して、肩の力を抜くことに努めた。トモミの細くて長い指の優しい感触を、ようやく感じ始める。
「女を前にこんなに硬くなって、シオリさんを前にしたら、どうするんですか?」
「……」
「――なんて」
トモミは僕の肩に手を添えたまま、指の動きを止めた。
「――世話を焼かれるのが、苦手なんですよね」
「え?」
「誰かの優しさに、どう報いていいか、どんな顔をしていいかわからなくて、いつも戸惑う――私、ずっとわかっていたんですよ。社長が人におせっかいを焼かれるのが苦手だってこと。きっと、小さな頃から、誰かに何かを与えてもらったことがないんですよね。だから、他人に対して、何かを得られることを、はじめから諦めてる――欲しいものを得られないことが当たり前で、自分の思い通りに他人が動かないのが当たり前で……だから、他人から何かを与えられるのが、苦手なんですよね」
「……」
何だ? トモミは何を言っている?
「最近の社長を見ていると、もうシオリさんに逢いに行って、力になってあげたいっていう気持ちは、絶対に揺るがないと思うし、そこに100%集中し始めてるってことは分かります。だからそこに関しては心配してないんですけど……社長って、人前で自分の気持ちを抑える癖があるから。シオリさんのことでは、それが心配……」
「……」
どういう意味だ?
「トモミさん、君が何を言っているのか、僕には……」
「私がそれを言うのは、あまりに利敵行為ですし、社長が自分で気づけなかったら意味ないですから。教えてあげません」
「?」
「じゃあ、ヒントをあげますよ」
「……」
僕は訳も分からないまま、後ろのトモミの顔を見上げる。
「――悔いの残らないように、想定される全ての事態を、今のうちに沢山考えてください」
「……」
「社長、きっとリュートくんといつかは別れなければいけないってこと、前から分かっていて、覚悟を決めていたつもりだったと思います。でも、お医者様から実際それを言われた時、絶対に悔いが残ったでしょう? リュートくんに対して、もっとこうしてやればよかった、ああしてやればよかった、って」
「……」
その通りだった。ずっと分かっていたことだったのに、その日に向けて、リュートに自分ができることは何でもしてきたつもりだったのに。
「それが、多分シオリさんと逢った時も、起こりますよ」
「……」
「私は、今このタイミングでリュートくんがこうなってしまったのって、今の社長にそれを伝えたかったんじゃないか、って。自分のことで後悔してもいいから、シオリさんのことで後悔するな、って――こんな時に、不謹慎で、勝手な想像ですけど……」
「……」
――いや、それは強ち、間違っていないかもしれない。
リュートは僕の夢の中で、何かを伝えたいようだった。シオリを救うためには、まだ僕に足りないものがある、と。
今のトモミと同じことを、夢の中のリュートも言っていた。
「全く――ヒントをあげすぎちゃったかな。諦めの境地の立場とは言え、利敵行為が過ぎるな、私……」
トモミは力なく自嘲を浮かべた。
「――何か、トモミさんも、少し変わったね」
僕はトモミの顔を見上げた。
「少し前は、僕に対して不安そうな顔をしたりすることが多かったのに……」
「……」
沈黙。
「――これでも、心じゃ泣いてるんですけど」
「え?」
「私自身も、何やっているんだろう、って思うことの連続ですけどね……前は社長がシオリさんのことを幸せそうに話したり、シオリさんのことで、私が見たこともないような表情をするのを見るのが、正直すごく嫌でした。でも、今は――」
「今は?」
「上手く言えませんけど、やっぱり気になりはするけど、前ほど嫌じゃなくなった――のかな」
「どうして?」
「うーん……」
トモミはまた言葉を咀嚼する。
「多分、色んなことを考えたからだと思います。自分の今後のこと――もう社長のことを諦めることも――正直、社長をシオリさんに会わせないように、ってことも、色々考えました」
「……」
「そうして考えながら、自分の意に沿わない可能性を潰していって――私の中に最後に残った答えは、社長に後悔してほしくない、だったんです」
「え……」
「だって、シオリさんのことを探すって決めてから、社長の顔は、随分と穏やかになってますから――危ないことをするのは相変わらずですけど、何だろう――周りの空気が少し優しくなった気がするんです」
「そうかな……」
「そうですよ――ここで倒れた頃を思うと、まだ体は回復してないとは言っても、表情がすごく柔らかくなりましたよ」
「……」
そう言われた時に、僕の脳裏に家族のことが邂逅した。
あんなことがあったっていうのに、僕の表情が穏やかになっているのだとしたら、僕はやっぱり性格が悪いな、と、心の中で自嘲する。
「そんな社長を見て、私、思ったんです。社長がシオリさんのことを選ぶとか、そういうことが私にとって大事なんじゃない――社長に後悔してほしくない、穏やかに生きてほしい、って……好きな人の不幸を願うようなことは、やっぱりできないし、カッコ悪いなぁ、なんて……」
そういって、トモミは照れくさそうな笑みを浮かべた。
「……」
あの民宿での夜――トモミはあの時も、僕にそう言った。
シオリのことを忘れて、会社も辞めて、どこかで静かに、穏やかに暮らさないか、と。
「はぁ」
「ど、どうしたんですか? 私何か、変なこと言いましたか……」
僕の溜息を見て、トモミは少し不安そうに首を傾げた。
「――いや、勿体ないことしたかな、って」
「え?」
「あの時――民宿に泊まった日に、トモミさんと……」
「う……」
トモミの顔がかあっと赤くなる。
「まったく……」
僕もトモミから目を反らして、デスクに頬杖をついた。
僕って奴は――あの時トモミを抱いてしまっていたらよかったじゃないか。
今になって、あの時の選択を、改めて愚かなことをしたと思う。
「……」
「でも、私」
トモミが口を開いたので、僕は顔を上げる。
「あの時、社長が最後の最後で、その……結局、しなかった時――すごく社長の体が震えていたのを感じて――それがなかったら、私は社長を恨んでいたのかもしれません」
「え?」
「社長がシオリさんのことしか考えてなくて、私がどんな気持ちでいるのか、ちっとも考えてないわけじゃないって、それでわかりましたから。そうじゃなかったら、私は今、社長に当たり散らしていたかもしれません――はっきり言ったらどうなんだ、僕はシオリと一緒にいたいって」
「……」
――そう、このトモミとの状況も、実に身勝手な理由から始まったもので。
それでも彼女は僕に言いたいことも沢山あるだろうに、僕がユータ達や、シオリとのつながりを繋ぎ直すことに心を砕いていて……
「――人の恩ってのは、重いものだな」
「え?」
「君には感謝している。君がいてくれたから――僕もここまで来れたから。君のおかげでユータ達ともまた会えたし、シオリのことも……」
「礼を言うのはまだ早いですって」
トモミがにこやかに僕の言葉を遮った。
「それに、今の社長のお礼は腹の足しにもなりませんから。シオリさんと逢って、シオリさんを私の前に連れてきて、その上で、私の気持ちに……」
そう言いかけた時。
トモミのそれまでにこにこと笑っていた眦から、涙が溢れだした。
「あ、あれ……」
「……」
きっと――トモミが涙の先に言おうとした言葉は……
『私の気持ちに、とどめを刺して』だろう。
折節、社長室の扉の向こうから、チーン、という音が聞こえた。
社長室フロアに続くエレベーターの扉が開いた音だ。僕はばっとトモミから腕を解く。
ノックもなく扉が開くと、先頭にエイジが立ち、その後ろからジュンイチとマイ。
それから――
「サクライさん!」
大人っぽい黒のドレスに、完璧にメイクを施されたシズカが満面の笑みで、大柄なエイジとジュンイチの陰から姿を現した。
ジュンイチも無精髭はそのままだが、タキシードを着ている。マイはもうほんのりお腹が大きくなっていて、少しフォーマルという程度のワンピースだが、しっかりとメイクは施されている。
そして、シズカの後ろから出てきたゴロー、アユミもしっかり礼服に身を包み、シュンは上等のストライプスーツをしっかり着こなしている。
「へぇ――見違えたな」
「グランローズマリーってすごいのね。ヘアメイクやスタイリングアーティストがあんなに……」
マイが感心したように言った。
「一応ファッション業界で名を上げた企業だから、そのくらいのことはな」
「はいはい、じゃあ撮影のためにちょっと準備をしますから。ケースケ、エイジさん。ちょっとその机をどけよう。手伝ってくれ」
ジュンイチは持っていた鞄から、折り畳みの三脚を組み立てると、僕に指示を出した。
今日ここに皆を呼び、おめかしまでさせた目的は、ユータも交えて、ここで記念撮影をするためであった。
ゴローは先月、グランローズマリーの中途採用に合格し、グランローズマリーのシステム部で働き始めている。アユミはパート、シズカは大学生アルバイトとして、グランローズマリーのアウトレット施設、『ローズストリート』での売り子の仕事をはじめ、家族は東京で、グランローズマリー社員に出る住宅手当を使っての新生活をスタートさせた。シュンは来月のセンター試験へ向けて、追い込みの時期に入っている。
マツオカ家の皆も、それぞれの新しい人生の一歩を歩み始めている。シオリが見つかった時、そんな家族の姿をしっかり見せてやろうと考えた僕は、ユータが帰国する日を狙って、ジュンイチに写真撮影を依頼したのだった。
「後ろの大窓の雪化粧は、背景に入れよう。白い板も持ってきたが、そっちの方がいい写真になるかね」
「すまなかったな。こんな大雪の中、大荷物持ってこさせて」
「いいって。俺の車、今度の撮影のためにスタッドレスに変えたばっかだったし」
「皆さんも、こんな日にご足労頂いて」
僕はマツオカ家の面々に頭を下げた。
「よくお似合いですよ」
僕は緊張した面持ちのゴローに微笑みかけた。
「新しい生活は、どうですか?」
「すごく充実してます! 売り子の仕事も楽しいですし、東京での新しい家も気に入ってます」
「――まあ、家で一人で使える部屋が持てて、勉強ははかどってます……先月の最終模試で志望校の国立の合格率も上がりましたし」
シズカとシュンは口々に言った。
「でも――少しだけ心残りがないと言えば、嘘になります」
アユミが表情を曇らせる。しっかりメイクを施すと、一段と若く見える。トモミのお姉さんと言っても無理はない。
「あぁ――シオリ自身は、君に頼らないように、と、私達にお願いしていたのだからね――シオリがそれを知って、どう思うか……」
ゴローも僕を前に申し訳なさそうに言った。
「もちろん君――いや、社長に対しては感謝しているんです。社長なくして、今の私たちの充実はありませんから。で、ですが」
「社長なんて呼ばなくていいですよ。第一僕、社長じゃなくて実際はCEOですから」
僕はゴローの言葉を遮った。
「僕が勝手に知ってしまって、僕が勝手にやったことなんで、それは僕が彼女に説明しますよ。それに――ちゃんと皆さんが幸せに暮らしているって姿を見せれば、気持ちも変わるかもしれないし」
「そうですよ。皆さんは、シオリさんが安心するような笑顔で、俺のファインダーに収まってくれればいいんですよ」
ジュンイチがカメラを構えて、僕に助け舟を出した。
「しかしお前、CEOなんて、随分と回りくどい肩書を使ってるな」
「一応ヨーロッパで起業したからそうしてるんだが――確かに日本じゃピンと来ない肩書だよな。威厳がイマイチないって言うか」
「天下のサクライ・ケースケなんだ。もっと威厳のある肩書を名乗れよ」
「日本に帰ってきた時、しばらくエイジは僕を『お館様』って呼んでた」
「ぷははは! いいじゃないか、お館様。威厳があるじゃないか」
ジュンイチは大笑いした。それにつられて、マツオカ家の面々もぎこちないが、顔に笑顔を浮かべた。
「お、いいねぇ、いい表情になった」
ジュンイチは予定通りに場を和ませたのを確認し、そそくさとカメラの準備を始める。
「ユータが着いたら、撮影を始めよう。この雪で、予想外に待ち時間が出来ちゃったな……」
「あ、じゃあ……」
僕の言葉の後に、ずっと黙っていたトモミが小さく手を上げた。
「待っている間、デジカメでよければ、私、皆さんの写真撮りますよ。エンドウさん、撮影するんじゃ、写真に入らないでしょう?」
久し振りの掲載になります。
また掲載がすぐに止まるのではないかという読者様もいると思いますが、一応この物語、第3部終了まで完成いたしました。
これから毎日朝9時に一話ずつ更新していく予約も完了しておりますのでどうぞ安心して続きを読んでいただければ幸いです。