Friend
目を開けると、僕の目の前には、一面の花畑が広がっていた。
今は冬だというのに、ぽかぽかとした日差しが降り注ぎ、四季の花が時期とは関係なく、無作為に咲き乱れる。
目の前にはゆるやかな流れの、向こう岸が見えないほどの大きな川がある。
「……」
僕はふっと息をつき、川のほとりの近くまで歩くと、花の絨毯の上に、なるべく花を踏まないように気を付けながら、腰を下した。
そして、しばらく川の流れをなんとなく眺めて、膝を抱え、気持ちの整理に務めていた。
程なく、僕の耳に、花が何かに擦れるような音と共に、とても小さな足音が届く。
足音の方向を振り向くと、麦わら帽子を被った、生気のない白い肌をした小さな老人が一人、僕のすぐ横に立っていた。
「またここに来たのか」
老人は僕に言った。
「もう足掻くのはやめて、この川を渡りたいのか?」
「まさか――友達の見送りだよ」
僕は老人の方を見ずに言った。
「僕に長年連れ添った相棒だからな――見送りもいないのは寂しいだろう。しばらくは夢の中だけでも、ここに通おうと思っていたんだ」
そう、ここが夢の中というのは分かっているんだ。
「それだけではないのだろう?」
「――お見通しか、あんたは……」
そう言われて、僕は膝を抱え直し、顔を落とした。
「――っく……」
僕は、これまでずっと精一杯の理性で締め付けていた力を、徐々にほどいていく――
僕の肩がたちまち震え、寒気を覚えるような体の強張りを感じると、僕の目から、とめどなく涙が溢れた。
「わざわざこんな所に泣きに来る人間は、お前が初めてだ」
「――奴の前では泣かないと決めていたんだが……僕は人間ができてないんだよ。友人が死んで涙を流さない程、器用じゃないんだ」
「しかし、こんな所しか泣く場所もないとは、な」
「五月蠅い……」
僕は本当は、リュートの死の宣告を聞いて、トモミやエイジ以上に狼狽えていた。
リュートは、僕の生きる意味の一つだった。
名声も、居場所も、安息さえも失った僕に唯一ついてきた存在――
だから、何としても僕がこいつだけは生涯支えなければならない。
そう思えた。7年前の僕にあった、たった一つの生きる意味だ。
奴がいなかったら、僕はとっくにつぶれていた。
7年前――街から街へ旅をしていた頃、僕がギターを弾いたり、芸をやったりすると、リュートは観客の前を帽子を咥えて歩いて、おひねりをおねだりして。
そうすると、リュートの愛嬌で皆がおひねりを帽子に入れた。稼ぎが大きかった時は、普段は野宿なのに、その街の一番安いモーテルに泊まって、リュートと僕は、大人になった今ではご馳走とも言えないような、ささやかな食べ物を買って、二人でその日を祝って、同じ毛布にくるまって眠った。
あの頃は、家族への復讐や、日本に残した皆の思いに応えられず、浮浪者に甘んじている自分への憤りで目を背けていたけれど。
今ならわかるんだ。
あの頃、僕はそんな奴との時間に、しばしの安らぎを得ていた。
幸せだったんだ。
「なのに……」
僕は、何もしてやれなかった。
初めて会った時から、僕は家族から奴を守れなくて。
食うものも自由にならず、侮蔑され、他の犬と恋をし、家族を作ることすら許されず。
ただ、自分とは関係のない、理不尽なこと、理不尽な人間に巻き込まれて。
それだけの命で……
「あいつは、幸せだったんだろうか……」
僕はようやく嗚咽を持ち直した。
「少しわかったよ。誰かが死ぬってことが。どういうことか」
「ほう」
「きっと――今の僕みたいに、みんな思うんだろうな。死んだ人に、伝えたかったこと、したかったこと――そんな機会を突然、永遠に奪われることが、悲しくて、悔しくて……」
「……」
「そして僕は、そんな思いを沢山作ってきたんだ。自分が生きる――それだけのために、沢山の人の思いを踏みにじって、殺した」
つい最近――この三途の川へ以前に来た頃までの自分は、浮浪者にまで堕ちた自分を何とか這い上がらせることで頭がいっぱいだった。そのためには手段を選ばなかった。離間、背信、扇動――人の思いをズタズタにしてでも、自分の上に立つ権力者を倒して引きずりおろし、そこに自分が這い上がらなければならなかった。
あの飛天グループの連中もそうだ。僕は奴らの下についている人間を次々に離間させ、人間関係をぶち壊した。
「後悔しているのか?」
老人が僕に訊いた。
「それとも、慚愧か? 自分が今まで踏みにじった全ての事物への」
「いや、ちょっと違うね」
僕はかぶりを振った。
「勿論、多少の憤りもある。顧みもするさ。だが、死ぬのは弱いから――弱いから踏みにじられる。搾取される――それが世の中の真実だよ。死んだ奴は可哀想かもしれないが、生きる限りその現実から逃れられない。僕の生きてきたその真実は、結局変わらない」
そう、死ぬことは所詮は結果に過ぎない。
自分が強者であるか、弱者であるか。極論かも知れないが、死ぬ意味も、死ぬ場所も、その結果として顕在化する。
その事物の死の価値は、その人間の力で決まる。虫けらほどの力しかなければ、虫けらのように人間も死ぬ。
それが現実だ。どんなに欺瞞を重ねても、その現実から逃れる術はない。
それがようやく分かった。
「……」
そんなこと、生まれた時から知っていた。
それを認められずに、ここまでもがいて。
僕はまた、振り出しに戻った。
僕の人生は、無意味だった。
誰も救えず、何もできず。
意味のない目的のために、他人を際限なく傷つけただけだ。
「悲しいな。人が生きるってのは……」
そんなことを呟くように言った僕の心も、さっきから木枯らしのような寂寥の念がわいていた。
飛天グループの創始者一族の葬儀に行った頃から、ずっと心には、この木枯らしが吹いていた。
あの落葉に覆われた庭や、無力感をごまかすように寄り添った遺族、ナイフを僕に向けた老婆に、僕を罵倒した子供――
僕の目にも、靴にも、触れたものの悲しみが手に取るように見えてしまって。
その度に、ずっと思っていた。
「人は、何故こんな悲しい思いをしてまで、生きるんだろう――生きなければ、ならないんだろう……」
「妙なことを考えるな」
「前にここに来た時、あんたに言われたからな。もう一度、自分の生きる意味を見直せ、と。だから、自分なりに考えてみたんだよ。色々なものと、自分なりに向き合って……」
「……」
「でも、駄目だったよ。昔は何としても生き延びて、成し遂げなければならないことがあったんだ。でも、今はもうない――それどころか、僕が7年間でやり遂げようとしたことが、単なる欺瞞だったと、はっきりと分かった」
そう、この数か月で、僕は、自分が生きることの意味が見えなくなっていた。
自分の家族や、飛天グループの連中の、あの虫けら同然の様を見て。
ずっと不思議に思っていた。
こいつらは、何でこんな思いをしてまで、生きるのだろう。
リュートも死に、シオリのことも片が付けば、そんな悲しい思いをしてまで、何故僕は生きるんだろう……
「トモミさんと一緒にいて、彼女と一緒になって、7年前にシオリとそうしてきたように、ささやかな暮らしができたら――そんなことを考えた時は、心が動いたんだけどな――でも、現実に引き戻されて、思い知らされた。僕が生きる限り、彼女もそこに巻き込んでしまう――僕が見てきた汚いものを、彼女にも見せてしまう……そうしてまで、自分が望む、ささやかな幸せを得るなんて……どうしても、自分で納得できなかった。たとえ彼女がそれでもいいと言っても、やっぱり駄目だ」
「――ふぅむ」
老人は呆れるように首を傾げた。
「今お前は、納得できない、と言ったな」
「え?」
何気ない言葉尻に食いつかれ、僕は自分の言葉を振り返った。
「――やれやれ。お前は少し、目線を変えることを覚えるべきだな」
そう言うと、少し目を離した隙に、老人の気配が僕の横から消えた。
それに気が付いて、目を向けた時には、老人は後ろ姿もない、こんな見通しのいい花畑から、忽然と姿を消していたのだった。
「はぁ……」
僕はどさりと、花畑に寝転んだ。
そんな時に、僕は自分の視線の先に、一輪の青紫色の花を見つけた。
シオリの好きな、竜胆の花だった。
僕はその花を、手を伸ばして摘み取り、太陽にかざして見せた。
『私はあなたの悲しみに寄り添う。いつまでも……』
不意に僕は呟く。僕が唯一知っている花言葉。シオリの教えてくれた、7年前、シオリが僕にくれた、肯定の言葉。
そんな言葉をくれる彼女を、旅先で何度も思った。この花のように、派手ではないけれど、凛とした彼女のことを。
誰かが辛い時、悲しい時、傍で咲いて、その人の心を癒せるような――シオリはそんな、竜胆の花のような|女≪ひと≫だった。
僕もそんな彼女のようであれたら――その思いを忘れないように、僕はこの花をずっとそばに置いていたのだろう。
「……」
僕は今のシオリの傍で咲く、一輪の竜胆の花になれればいい。
今、どこかでひとりぼっちの彼女のそばで、少しでも彼女の心を癒せる。
それだけでいい。恋人だとか、未来だとか、そんなことを求める資格はない。
今更かもしれないが、せめてシオリにはそれくらいしてやらなきゃ……
『――人』
不意に、僕の耳にかすかな声が届く。
『ご主人……』
とても優しげな、だけど小さな声。
僕は上半身を起こし、辺りを見回す。
人影はない。
『ここですよ、ご主人……』
今度は下の方から、声が聞こえる――僕は視線を落とす。
僕のすぐ傍らに、小さなシェットランドシープドッグが一匹、きちんとお座りをして佇んでいた。
「リュ、リュート?」
『そうですよ、ご主人』
リュートは口を開かず、僕の脳に言葉を送り込むように、その丸い瞳を僕に向けていた。
「はは……ここに来ると、お前とも話せるのか。お前が人間だったら、と思ったことが何度もあったけど……」
ていうか、僕はずっとこいつから、ご主人、なんて呼ばれてたのか。
「お前がここに来たってことは……」
『――確かにもう僕は長くないですが、まだ死ねませんよ』
リュートは僕の横に立ち、目の前の三途の川を見つめた。
『ご主人が僕がいなくなっても上手くやれるか、心配だから』
「犬のお前に心配されているのか、僕は……」
『そりゃ、長い付き合いですからね』
リュートは少年のように抑揚の大きな声で言う。
『ご主人は、僕のことをすごく大事にしてくれていたことは、僕にも伝わっていましたから。ご主人は天才だけど、放っておけない愛着もわくってもんです』
「――僕は、お前に何もできなかったぞ」
『はは、確かにそうですね。お互い、出会った当初は荒んでましたよね』
「……」
『でも、それでも今日までやってこれて、お互い楽しかったこともたまにあって――あんな最悪な場所から、ここまで這い上がれただけでも、すごくないですか?』
「え……」
『最初の頃を、こうして思い出みたいに語れるようになるくらいまで這い上がれた――上出来でしょう? 僕達は、そうして這い上がるくらいでちょうどいいんですよ。お互い、些細なことを幸せに思えるんだから――ね』
「……」
――僕は、また目頭が熱くなるのを必死にこらえた。
夢の中とは分かっていても、長年の相棒だったこいつが、僕と共に生きた時間をそう言ってくれる――
それだけで、どれだけ救われただろう。
『そんなことも、僕が人間なら、もっと前に、言葉で伝えられたんですがね……』
リュートが僕の目を覗き込んだ。
『ねえご主人。やっぱり言葉にすることは、すごく大事だと思うんですよ。犬の僕が言うのも変ですがね……僕だって、ご主人と言葉を伝えられないことは、ずっともどかしかったですから』
「……」
『ま、せっかく言葉で僕の気持ちを伝えるいい機会だから、一つご主人に、ヒントをあげましょう』
「え……」
ヒント? ヒントって何に対しての……
『――ご主人。ご主人の生き方は、あまりにも正しく、あまりにも筋が通り過ぎなんですよ。他人に対しては情に脆いくせに、自分のことになると、情を捨てようとする――誰かのために傷つくことは厭わないくせに、自分のことを傷つけることを本当はとても恐れている――それがあなたの長所であり、短所でもある』
「……」
『でもね、ご主人の真価って、本当はもっと別のところにあるんですよ。天才サクライ・ケースケの一番の武器――7年前に、もうあなたはその答えに辿り着いている――』
「……」
『そこを見失わないで。シオリさんを助けるのは、今のままじゃできない。確かに前進しているけれど、それだけじゃまだ足りないから』
「.……」
何を言っているんだ? リュート……
その時。
花畑の花が無数に光りはじめ、花粉を飛ばすように光の鱗粉を空に巻き上げだすと、景色がどんどん光に包まれ、何も見えなくなり……
自分が立っているのか、落ちているのかわからなくなるように、周りの世界がなくなっていき、やがて隣にいたリュートの姿も見えなくなる……
――目を開ける。
僕は毛布にくるまって、グランローズマリーの社長室の壁に寄りかかっていた。石油ストーブが部屋を暖めていて、灯油の臭いがする……
「……」
毛布を少しめくると、リュートは昨日と同じ姿のまま、微動だにせず目を閉じていた。体を触ると、まだ暖かく、弱々しい脈も感じられた。
「……」
さっきの夢――あれはリュート、お前が見せてくれたのか。
――いや、まさか。夢で会った飼い犬が喋った何て、僕の願望だろう。別れの時が近づいて、少しセンチな思いに浸っただけだ。
早く切り替えないといけない……めそめそした姿を見せて、リュートに心配をかけたくはないから。
時計を見ると、6時を回ったばかりだった。僕は立ち上がり、トモミが昨日入れてくれていたコーヒーメーカーのコーヒーをカップに注ぎ入れた。
「ん……」
社長室に戻ると、超大型強化ガラスの壁越しに、静かに、だが激しい粉雪が、東京の摩天楼に降り注いでいた。
東京では滅多に見られないほどの雪。これは記録的な大雪になるだろう。すぐに都心は大混乱になる。それが一目でわかるような降り方だった。
その後に、社長室の僕のデスクの上に飾られた、花瓶に活けられた竜胆の花に目をやった。
「竜胆の季節も終わりだな……」