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Memento-mori

 僕に会うためだけの帰国をし、イタリアに戻ってからのユータは、復帰早々にハットトリックを決めたのを皮切りに、リーグMVP級の活躍でACミランをセリエA首位にまで持ち上げていた。

 リーグの中断機会に入り、日本のトヨタカップを残し、今年のサッカーはほぼ終了し、ユータも帰国のため、機上の人になっていた。

 その頃の僕は、殺人的なスケジュールの下にいた。

 飛天グループの接収、サッカーシーズンが終了して、近く始まるグランローズマリー主催のチャリティーマッチも迫り、その準備に既存の社員も忙しさを増し、デザイナーとしてまた一つ名声を高めた僕に、世界中から注文も殺到。

 僕は連日、グランローズマリーの社長室に泊まり込みになった。もう今が何日で、昼か夜かの区別もつかなくなるほど僕はただ働き続けた。

 医者のいいつけどころではないほど、僕が不在では回らない仕事が次々と舞い込んだ。トモミが代わりに僕を献身的に支えてくれたが、僕の体も弱っている。食事の度に体が荒れ、誰もいないところで度々嘔吐をし、それでも働いていた。

 だが、それ以上に体調が思わしくないのがリュートだった。

 リュートはもはや、僕についてくる以外の時はほとんど動くこともなくなり、部屋の隅でずっと、まるで力を蓄えるように突っ伏していることが増えた。僕以上にほとんど食事もせず、明らかな衰弱が目立っていた。

 何とか体が空き、ようやくわずかに時間の余裕ができた頃、ようやく病院にリュートを連れていくことができた。

 医者の診断は……

「もう老犬な上に、生涯かなりの無理がたたっていたのでしょう。かなり体を弱らせています。治療で症状を軽くはできるでしょうが、きっとまた、すぐに体を壊してしまうでしょう」

 というものだった。

 事実上の寿命宣告だった。


「そんな……」

 社長室に戻り、トモミとエイジにそのことを伝えると、トモミはリュートのそばで涙を流した。

 リュートは滅多に人に懐かないが、トモミには随分と懐いていたし、トモミもエイジと同じく仕事でずっとリュートのそばにいることで、リュートのことを可愛がっていた。

「くっ……」

 エイジも目を背けてはいたが、そのどんぐり眼には、涙が浮かんでいた。

 愛想のない僕だが、それだけにリュートという賢い犬の機転と愛嬌はそれを補っていたし、仕事続きの僕達を和ませていた。

「……」

 覚悟は決めていたが、さすがにそれを宣告された僕の心も、酷く沈み込んでいた。

 僕は社長室にあった毛布を、うずくまるリュートの体にかけた。

「もうリュートは動くこともできん。数日は僕もリュートとここに泊まり込む」

「そうか……」

 エイジは深く頷いた。

「だが、医者の言うことには、まだ薬や手術とか、まだ打つ手があるようじゃないか。なのに、何で薬ももらわずに……」

「ウゥ……」

 エイジの言葉を、リュートの低いうなり声が消し去った。

「リュートは賢い犬だ。自分の寿命をもう分かっているんだろう」

「下手な手術や入院なんかをするよりも、最後まで、主人である社長の傍に……ですね」

 トモミの言葉に、僕は頷いた。

 無論僕も医者に何らかの治療を頼もうとは思った。

 だが、リュートがそれに抵抗したように感じた。力なかったが、差しのべた医者の手を拒み、僕の方へすり寄った。

 僕はそれをリュートの意思と感じ、医者の治療を断った。もしやの際に、苦しみを和らげる程度の薬をもらっただけで帰ってきた。

 グランローズマリー社長室の大型ガラス張りの窓から見える東京の摩天楼は、クリスマスのイルミネーションも手伝い、そこかしこがライトアップされている。

「とりあえず、今日は早く仕事も終わったんだ。二人も早く帰って休めよ」

「ほら、帰るよ」

 トモミはエイジの丸太みたいな腕の袖を引っ張った。

「わ、分かった分かった。すぐに荷物をまとめるよ」

 エイジは自分のごちゃごちゃになったデスクに慌てて向った。

「私、コーヒーを落としておきますから」

「ありがとう、嬉しいよ」

「いえ……私がリュートくんにできるのはこのくらいしかないですから」

 そう言って、トモミはリュートの方を見た。

「私も、リュートくんとは、もっと一緒にいたいけど――それで社長とのお別れを邪魔するわけにもいきませんから」

「……」

「社長も、何か買出しとかあれば、遠慮なく言ってください」

 トモミは湿っぽいのを嫌い、懸命に笑顔に努めている。

 それが分かった。僕もトモミとは長い付き合いだ。

「さ、帰るよ」

 そんなに急ぐこともないのに、トモミはエイジと一緒に、社長室を出ていった。

 社長室に、僕とリュートだけが残される。

「やれやれ……」

 僕はトモミが入れてくれたばかりのコーヒーを給湯室でカップに注ぎ、リュートの隣の絨毯に座った。

「クゥン……」

 もう体を動かすことすらままなっていないリュートだったが、ゆっくりと僕に向けて首を持ち上げる。

「ふ……」

 僕は大きめのブランケットを持って、自分の肩にかけ、そのままリュートと共にブランケットにくるまった。

「なんかこうやって二人でいるのも、すごく久しぶりに感じるな」

 まだ僕が外国で、何も持たずに旅をしていた頃は、こんな冬は毎晩こうして二人で毛布にくるまって眠った。

「……」

 毛布にくるまっているリュートは、少し心地が良くなったように、リラックスしたように絨毯の上に寝転んだ。

「お前は格好いいな。自分の死期を知って、下手な治療をしても、自分は長くないことも分かっている」

 僕はリュートの頭に手を差し伸べた。

「お前は、最後まで賢く誇り高い、犬のリュートであり続けるんだな」

 人間の僕が、一匹の犬の生き方に感服した。

 寂しさはある。ちょっと待ってくれ、と、僕も医者に言いたかった。

 だが、そんなリュートの決断を見て、余計なことを言う気も失せた。

「なあリュート。ハッキリ言って、僕もお前がもう人間でいえばかなりの老犬なことは分かっていたんだよ。だからお前との別れが来ることも、覚悟していたつもりなんだがな……格好悪いな、僕は医者の話聞いて、ちょっとうろたえちゃったよ」

 そんな話を笑って話してみせる。リュートが僕のそんな言葉や意味を理解できるかなんて分からないのだけれど。

 だからこそ、こいつには何でも話せる。

 昔から遠慮などは一度もしなかった。

 ユータやジュンイチよりも先にできた、僕の最初の友達だった。

「リュート、お前と一緒にいたこの10年余り、お前が人間だったら、なんて、何度も思ったよ」

 僕はリュートに目を落とした。

「世間で僕が、今じゃ英雄扱いされているが、お前が人間なら、きっと僕なんて問題じゃないような名君になっただろうな」

「……」

「そんなお前がこうして最期の最期まで、こんな馬鹿な主の僕の傍にいることを選んでくれた……犬に生まれてしまったお前だが、僕はお前のその忠誠心に、熱い思いを感じずにはいられん」

「ウゥ……」

「ありがとう――シオリにもう一度会うまで、何とか今日まで、恰好がつけられたよ」

 僕は、リュートにどうしても伝えなければならないことを告げた。

 そうして僕は、自分の腕に巻かれているロレックスのベルトを緩め、腕を天井にかざし、その手首についたためらい傷を見上げた。

「――まあ、僕もすぐにお前に会いに行くかもしれないがな……ゴホッ、ゴホッ……」

 体の不調が、激務にさらすことで更に悪化し、体はもうボロボロだった。

「クゥン?」

 その言葉を聞いて、リュートは再び僕を強い視線で見つめた。

 その目は、トモミとシオリのことはどうするんだ? と訴えていた。

「あぁ……仕事から離れて、少し自分がまともな人間だと、何勘違いしていたんだろうな……もう僕の手は血みどろなんだよ。お年寄りに泣き叫ばれて、小さな子供にも、死んじゃえ、なんて言われるような人間さ」

 僕はかざしていた腕を下す。

「ろくなもんじゃない」

「……」

「シオリもトモミさんも、もっと幸せになるべきなんだ。これから僕についてくれば、この前の葬儀みたいな後味の悪いものを、何度も見せることになる」

 そう、もう僕は何も望まない。

 シオリやトモミのような素晴らしい女性を両天秤にかけられるような人間じゃないんだ。

 この前の葬儀に出て、自分の今の立ち位置が、はっきりと見えた。あんなものを二人に見せることが、どうしても許せなかった。

 だから、どちらも選ばない。

 それが僕の選んだ答えだ。

「ふぅ……」

 溜息をつく。

 家族に引導を渡して以来、改めて自分はどうしようもない奴だと思い知った。

 そして、それを終えて、僕が闘い続ける理由も失われ。

 その分、シオリのことを思い出すことが増えた。

「……」

 多分僕は、シオリの笑顔に、自分の死に場所を見ているのだろう。

 家族への復讐のために、沢山の人を際限なく傷つけた。死んでしまったり、人生が滅茶苦茶になった人も大勢いる。

 家族への復讐を終えて、そのことをはっきりと悟った。

 僕に逆らった人間は、もう皆死んでしまった。

 どの面下げて、シオリやトモミのような女の子に、僕が見てきた光景に付き合わせろと言うんだ。

 そんな僕が、今どこかで、大好きな家族も遠ざけてひとりぼっちなのかもしれないシオリのために、何かしてやれる。

 もうそれだけで、十分じゃないか。

 疲れ切った心が、そう自分を納得させようとしている。

 シオリの笑顔のために何かできれば、もう十分じゃないか、と。

「……」

 ここ数日、僕の心が異常なまでに静かで穏やかだった理由。

 きっとこれは、死生観――いわゆるメメントモリというやつなのだろう。

 今まで漠然としていた自分の死に場所をはっきりと悟ったことで、今の自分が生きる理由――生きて成さなければならないことも、同時にはっきりと見えた。

「クゥン?」

「あぁ、いや、まだシオリと会った後にどうしようかなんて、決めているわけじゃないよ」

 僕はリュートに微笑みかけた。

「だけど――もう分かっていることがある。この場でお前に誓うよ」

 僕は壁に背を預け直す。

「今が一番大事な時――この戦いが終わるまで、僕は二度と迷わない。シオリを救い出す――間違いなく、これが僕の最後の戦いだ」


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