Corner-cut
「その血、なかなか止まらんな」
屋敷の庭園の石畳を歩きながら、ジュンイチが僕のこめかみの傷を見て言った。確かに、血の流れは遅く、もう血は流れたまま頬のあたりで固まりかけているが、いつまでも完全には止血していない。
「顔の血は拭けばいいが、もう喪服の白いワイシャツにも血が付いてる。そのまま、ここを出たら、お前が出てくるのを待っている外のマスコミが色々うるさいだろう。お前、運転手つきの車で来たのなら、中まで俺が連れてきてやろう」
運転手……
「ああ――すまないな。お詫びにお前も家まで送ろう。お前、どうせタクシーか電車でここまで来たんだろう?」
「OK。じゃあ、少しこの庭の中で待ってろ」
そう言って、ジュンイチはひとり庭の出口へと向かって行った。
「……」
庭の木々のざわめきが、まるでこの屋敷の主を崩壊させた僕を咎めるように、激しくざわついていた。
ほんの少しだけ、今表で僕を待っている彼女を、ジュンイチに送ってもらえばよかったか、という考えが頭をよぎった。
だがすぐに、まあいいか、と思い直す。
――程なくして、僕の乗ってきた車のヘッドライトが、暗い庭の中を一際明るく照らして、ゆっくりと入ってきた。
「社長!」
トモミが運転席から飛び出して、僕に駆け寄った。
そして、僕の顔の血を見て、息を止めた。
「お前なぁ――ここにトモミさんに運転してきてもらったって、先に言えよ」
助手席からジュンイチが降りて、僕を呆れ半分に怒った。
「これを聞いて、トモミさんがどう思うかわからんが」
ジュンイチがそんなトモミに声をかけた。
「確かにこいつは君に嘘をついて、初めから危ないことに首を突っ込むつもりだった。だけど、結果的にこいつが今日ここへ来たことは、無駄じゃなかった。それだけは一部始終を見てた俺が保証する。その傷も、名誉の負傷……」
「大丈夫ですよ、エンドウさん」
ジュンイチの言葉を、トモミは遮った。
「もうこの程度、社長にとっては傷ついたうちに入らない……段々私もそれくらいのことは分かってきましたから」
「……」
「俺が運転してやろう、二人とも乗りな。ケースケ。お前は後部座席だ。マスコミの前を通り過ぎるから、それまで頭を下げてろ」
ジュンイチがその重い空気を察して、トモミを助手席に、僕を後部座席へと促した。
車に乗り込んで、ジュンイチが車を発進させる。僕はやや前かがみに座って俯いていた。
しばらくすると、マスコミが僕の顔を撮ろうと適当に連射したカメラのフラッシュが焚かれる音を、機関銃のような速さで聞いたが、すぐにそれが聞こえなくなり、車がスピードを上げた。人混みを抜けた証拠だ。
「ケースケ、もういいぞ」
ジュンイチの声で、僕はようやく頭を上げる。
「とりあえず、トモミさんが心配するし、今日はやり過ごしたとはいえ、今のお前はマスコミに追われ続ける身だ。一応病院に連れて行くぜ」
「――ああ、そうしてくれ」
「ん? 妙に素直じゃないか」
ジュンイチは、僕が拒否すると思っていたのだろう、首を傾げた。
「負傷を見せびらかせば、あの遺族達がやったんだと、マスコミが更に騒ぎ立てるだろう。もうこれ以上、あの連中に追い打ちをやっても仕方ないからな」
「……」
僕のかかりつけの病院は、夜間もやっている救急病院だ。病室から出てきた僕を見て、ジュンイチはあんぐり口を開けた。
「――それじゃ、余計に負傷したことを宣伝しているようなもんだな」
僕の頭には、額を隠すように包帯が巻かれ、左目には眼帯をつけているのだった。
「まあ、お前のそんな姿を、世の女性はセクシーというのかもしれんが」
「さっさと傷が消えてほしいから、3、4針くらい縫ったんだよ」
傷口近くの目尻のあたりに麻酔を打たれ、まだ目元がじんじんと痙攣している。
「まったく、サクライさんはことあるごとに私達をひやひやさせますね」
縫合を行った医者と看護婦が僕の後ろで言った。
「眼帯は明日取っても大丈夫でしょう。ただ、数日は両目の視力のバランスが悪く、ピントが合わないような視界になるかもしれませんが……」
「十分です。ありがとうございます」
そう言って僕は医者達に頭を下げ、コートを羽織りながら、病院の廊下を進み始めた。
「おいおい、どこへ行く」
ジュンイチが僕を制した。
「部屋に帰るよ。この姿じゃ、さっさと帰って大人しくしているのが一番だ」
「まあ待てって。折角こんな時間に会えたんだ。飯でも食おうや」
そう言って、ジュンイチは横にいたトモミの方を振り返った。
「トモミさんも、一緒に来るといい」
再びジュンイチの運転で連れられてきたのは、下町の小さなお好み焼き屋だった。
「こういう湿っぽいくさくさした気分の時は、鍋か鉄板って決まってるんだよ」
というのがジュンイチのルールのようだった。
ジュンイチは店主と顔馴染みらしく、ジュンイチが店に入るなり、店主が奥から出てきてジュンイチを出迎えた。
「ここは撮影の後に、よくスタッフと打ち上げで使うんだ。だから多少の融通は効くんだ」
ジュンイチは店主に頼んで、店の一番奥の、玉縄暖簾で隠れた一番目立たない座敷席を取ってくれた。なるほど、これなら閉店までいれば、他の客に僕達がここにいることを気付かれはしないだろう。
コートを脱ぎ、僕とトモミはジュンイチの向かいに隣り合って腰を下ろした。座敷は掘り炬燵状になっていて、足が伸ばせるのが心地よかった。
手慣れた手つきでお好み焼きの生地を鉄板に流し、それを綺麗にひっくり返すジュンイチ。鉄板の上からそのままソースをかけると、滴り落ちたソースが鉄板の上で湯気を立てて、香ばしい匂いを誘った。
「私お好み焼きなんて、お店で食べるの初めてです」
お嬢様育ちのトモミが、さっきからジュンイチの手つきをもの珍しそうに見ていた。
「鉄板から直接食うお好み焼きとビールに勝る組み合わせは、そうそうないぜ」
ジュンイチはその言葉通り、既に鉄板の横に中ジョッキを待機させていた。
「ほれ、食え食え」
それまで何も言わずに座って、お好み焼きが鉄板の上で食い物の体裁を整える瞬間を何となく観察していた僕も、若干癪ではあったが、ジュンイチの焼いたお好み焼きを美味そうと感じた。
「……」
「何だよ、しけた顔しやがって」
ジュンイチがさっきから大人しい僕の前に、切り分けたお好み焼きを差し出した。
「何を考えてるよ」
ジュンイチはそのまま自分の目の前のお好み焼きを箸でちぎって口に含んだ。
「――さっきの子供のことを考えていた」
僕もお好み焼きに箸を伸ばす。
「子供……」
その様子を見ていないトモミも、恐らくその子供が誰のことを指すのか、すぐに察したようだった。
「お前があの家族を止めたことは、あの子にとって良かったと思うぜ。あんな小さな子だ。親は必要だろうよ」
「どうかな……」
僕はお好み焼きを食べながら言った。確かに美味だった。
「じゃあ、お前はあの子がこれから、どうなっていくと思う?」
ビールを飲みながら、ジュンイチが軽く体を前に乗り出した。
「――大まかに、みっつの道が考えられる」
「ほう」
「ひとつ――今のまま、親の仇である僕をそのまま恨むことで、今の自分の悲しみや心の隙間を埋めようとする。ふたつ――大きくなるにつれて、自分の親達が沢山の人に酷いことをしてきたことが分かってきて、そのせいで自分が理不尽に世の中から迫害されているような気分になって、自分に流れる血や、果ては自分自身の運命を呪う。みっつ――自分の無力や僕への恨みはあるが、これから起こるだろう、あの子の親を恨む連中からの日常的な報復に絶望して、心を折ってしまう……」
「――どれもあんな年端もいかん子供にとっちゃ、きつい道だな」
「ああ。どの道を選んでも、このままいけばあの子の将来は、ろくなもんじゃないだろうな」
「悲しいことですね」
トモミが言った。
「だから、お前があの子の家族の暴走を止めに行ったんだろ」
ジュンイチがビールが半分ほど入ったコップをひょいと持ち上げる。
「あの年頃の子に、親は必要だよ。あの子が今抱えて、そしてこれからも積もり続ける悲しみから守ってやれるのは、親しかいないんだしな」
「……」
僕はもう一口お好み焼きを口に運ぶ。
僕自身は、あの子にとって残された家族がどれだけの存在かなんてわからない。
別に可哀想とか、守ってやろうとか、そんな殊勝な思いがあったんじゃない。
親が踏み出す地獄への一歩は、そのまま子供も有無を言わさず、阿鼻叫喚へと引きずり込む。
そんな理不尽を、これ以上僕が見たくなかった、それだけ。
僕がしたのは、自分本位の勝手な行動だ。
ただ……
「もしそうであれば、あの遺族達が、僕への想いをきっぱり捨てて、あの子のために穏やかな幸せを作ることを考えてくれればと願うよ」
「慰めにもならんからはっきり言うが、かなり難しいと思うぞ」
ジュンイチが言った。
「人間、大事な人の死を、そう簡単に割り切れるもんじゃない」
「……」
そうなったら、今度は間違いなく、僕が一人残らず、あの遺族達の息の根を止める。
そう、僕はあの葬儀の席で……
折節、僕の携帯電話が胸の中で震えた。
僕は、失礼、と断ってから、座敷を立ち上がり、座敷席の横の壁に寄りかかって、電話に出た。本来は外に出るのがマナーだが、包帯を巻いた僕が外に出てしまうのは、人目に付くと面倒なことになる。
『サクライくん、儂じゃよ』
「ザイゼン会長」
二人にも分かるように、電話主の名を呼んだ。
『今日は残念じゃよ。途中までは儂の思い通りだと思ったんじゃが……』
「……」
『しかし――ああして死地に乗り込んででも、敵に情けを贈る、か……お優しいことじゃ。儂には真似できんが――君と儂の生き方は、遂に交わらんままのようじゃなぁ』
「……」
僕は携帯電話を耳に当てたまま、座ったままのジュンイチとトモミに背を向けた。
「ザイゼン会長。別に僕はあの一族に情けをかけたわけじゃないですよ」
『ほぅ』
「葬儀の場にいたあの一族――こうすればこいつは絶望に沈み、心を壊し、勝手に死んでいく……そんなことが手に取るように分かっていました。そんな未来が、はっきりと僕の目には映っていましたよ」
――そう。僕はあの屋敷に入った瞬間から、ずっと連中の絶望が見えていた。
あの道に降り積もった分厚い落葉、荒れ果てた庭――そして何より、連中の僕を見る、憎しみをぶつける気力さえも枯れかけたその表情。
その全てから、連中の悲しみと、疲れと、絶望が手に取るように分かってしまう。
そしてそれをどうつつけば、更なる苦しみに突き落としてやれるか――『死にたい』『生まれてこなければよかった』と思えるほどの闇へと引きずり込む方法も、すぐに見えてしまう……
そうやって、僕は沢山の人を壊してきた。
だけど、僕は決して法に裁かれない。
僕は、決して自分でとどめを刺さないから。
致命傷を与える――その人間の大事なもの、その喉元に一突きを与える。それだけで、相手は勝手に自らを死に追いやる。
死んだ飛天グループの連中達のように。
僕の力、その全てが相手の絶望に変わる。
猛毒のように、僕への恐怖が相手の心身を蝕む。恐怖は相手の脳内でどんどん肥大化し、猛毒はどんどん強くなっていく。
凶器もなく、痕跡もなく、自滅に追い込める。
僕はパーフェクト・クライマー――完全犯罪者。
相手が勝手に死ぬか狂うかしてしまう。だから僕は決して裁きを受けない。
そんな殺し方――人の壊し方が、身に染みついている。
僕は、あの屋敷に足を踏み込んだ時から、それを再認識していた。
「はっきり言って、面倒だと思っていましたよ――弱いくせに、自分の権利ばかり主張する――正直、癇に障ってました。そんなに生きたがるのに、お前は何故弱い? とね」
僕はわざと聞こえよがしに言った。爺さんではなく、横にいるトモミとジュンイチに向かって。
『ほう、君にとって飛天グループは、随分と長いこと、君を馬鹿にしていた人間の旗頭のようなものじゃった。積年の恨みもあって当然――実際、君が飛天グループをここまで追い込んだからには、それがなかったとは言わせん。喧嘩を売った当初、君は間違いなくあの一族に惨たらしい死を与えようと思っていたはずじゃ。なのに何故、手を緩めたのじゃ。今までの惨めな姿を見て、気が済んでしまったのか?』
「……」
何でだろうな。飛天グループに攻勢を仕掛けた時は、爺さんの言うとおり、跡形も残らないほどに奴等の地位も、心も蹂躙してやるつもりでいたのだが……
確かに僕は手を緩めた。当初の予定では、僕を蔑む連中の筆頭である飛天グループの遺族には、他の連中への脅しと、僕についた旧飛天グループの人間の心をつかむためにも、より凄惨な報いを受けてもらう予定だった。
その方法も、あの葬儀の場で、僕は目に見えていたのに。
「気が変わった――のかもしれません」
『何?』
「奴らを嫌いなのは変わりありませんよ。ですが――どうにも今の僕は、気持ちが穏やかになっていましてね……自分でも、不思議なくらいに」
そう、僕の心は今、妙に穏やかだった。
その瞼の裏には、凄惨な光景が見えているのに。
その脳裏に、人を壊す光景を描いているのに。
それなのに、烈火のような激情はない。まるで水面のように、心は静かなのだ。
静か過ぎて、僕でさえ不気味になるほどに。
『わけのわからん事を言うな』
「自分でもそう思いますよ」
僕は受話器越しに失笑を漏らした。そうしながら、そう言った僕の表情を、少し不思議そうに見ているトモミとジュンイチの方を窺った。
「――すみません、友人を待たせているので、これで……」
そう言って、二言三言の挨拶を交わして、僕は電話を切り、携帯をポケットにしまった。
「すまなかったな」
僕は座敷にかけ直し、割り箸を取って、自分の皿の上に残っていたお好み焼きを食べ始めた。
「心が穏やか、ですか」
そんな僕を窺いながら、トモミがそう呟いた。
「それは俺も感じていた。やっぱりお前、少し雰囲気が変わったな」
ジュンイチもビールで喉を濡らしながら破顔した。
「シオリさんのおかげ、かな」
トモミが力ない声で言った。
「え?」
「わかりますよ。社長、シオリさんを探すって決めた頃から、随分と余裕がありますもん。お仕事も、前にも増して絶好調ですし……」
「……」
「もう私のことなんて、目に入ってないって感じ……」
トモミは苦笑を浮かべながら、その言葉を呟いた。
「そんなことはないよ」
「いいですよ、変に慰めてくれなくても……」
「慰めじゃないさ」
僕は言った。
考えたさ、もう十分。
人生で一番と思うほどに、頭を使い、悩んだ。
そしてもう、答えも出たんだ。
それは……
「ま、いずれにせよ、俺はいい変化だと思うがね」
ジュンイチが言った。
「ケースケよ、お前、家族を持てよ」
「え?」
「その相手が、トモミさんになるかシオリさんになるかは、俺はとやかくは言わないがね……今日のお前の、あの子供を思う心と、その穏やかになった顔を見て、そう思ったんだ」
「……」
「家族ってのは、お前からすりゃ気持ちの悪いものかもしれんがね、俺は今、嫁の腹が日に日に大きくなっているのを見て、改めて家族ってのはいいもんだと思えてるんだ。俺に帰る場所、守るものがあるんだって思ってな」
「……」
「ケースケ、大サービスだ。俺達に子供が生まれたら、いの一番にお前に知らせてやる。そして、俺の次に、その子を抱かせてやるよ」
「――何だよ、それ」
「いいんだよ、うちの嫁の安産を祈願しろって意味さ」
「……」
二人の子供、か……
「ああ、楽しみにしている」
僕はビールをくいと飲んだ。
「いずれにせよ、もうすぐユータが帰国する。そしたら、今度はみんなで鍋だな」
「楽しみですね、それ」
トモミがにっこりと笑った。
「そうか、もう今年も終わり――クリスマスなんだな……」
鉄板の上で、次のお好み焼きが香ばしい匂いを立て始めていた。
「それまでにシオリさんが見つかるといいがな……今のお前、シオリさんを探すと決めてから、なんだかいい感じだしな」
「……」
ジュンイチも、トモミも誤解をしている。
別にシオリに会うために、今は危険なことから身を引いているわけでも、仕事を頑張っているわけでもないんだ。
この心が穏やかな理由。
きっと、それは……