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「……」
沈黙――というか、爺さんの答えに、僕は絶句した。
「それは……」
ようやく場を取り繕うために、僕の口から出た言葉が、それだった。
「可笑しいかね」
爺さんは既に自嘲を浮かべていた。
「――いえ」
「ふふふ、よいよい。普段の儂を知る君からすれば、実に滑稽じゃろうて」
爺さんは僕の社交辞令を笑った。
「……」
「サクライくん、君のような男から見れば、儂は相当な好色――ヒヒジジイに映ることじゃろう。儂もそれは否定せん。儂はこの歳になっても、女遊びをやめられんからの」
爺さんが実に下卑た笑いを浮かべた。
「儂は君のように端正な顔立ちではないし、スポーツができるわけでもない。じゃが、人一倍女が好きじゃった。そして、儂が力を蓄える度に、今まで儂を相手にしなかった女どもが儂に群がるようになっていった……それこそが、儂の力が今でも強大であることを感じる一番の方法となっていったのじゃ」
「……」
爺さんの言いたいことは、分かる気がする。
自分の成長を切に望む人間というのは、常にその成長を実感できる具体的な指標を欲するものだ。すぐにその力を試し、実感したがる。
爺さんにとって、そんな『試し斬り』として一番適当だった相手が、自分の力に媚を売るような女だった、ということ。
「じゃが、女というのはこの歳になっても、分からんものじゃな」
「え?」
「ごくたまに、力や金では決して屈しない女がおる――」
「はぁ。ですが、男にもそういう人種はいるのでは?」
「そう、君もその一人じゃな」
爺さんは僕の顔を見て、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「じゃが、君ほどの力があるのなら話は別じゃが、力や権力に屈するよりも、滅びることを選ぶ男は、自己陶酔、自己満足に浸っているだけのただの馬鹿じゃ。力なき男の負け犬の遠吠え程、みっともないものはない。そんな連中、惨たらしく潰して、似合いの末路を見れれば、それで儂の気は収まるのじゃ。明日になれば、そんな男のことは忘れておる」
「それには僕も概ね同意ですね」
「ほう? 意外じゃな。君はそういう弱者を庇うかと思っていたが」
「力を持たず、力に屈せず滅びる男は、自分の無力の正当化、美談化をしているだけですよ。ですが勝者を追いつめるだけの最低限の力があって、初めて敗者が美談に成り得る――安易な滅びを選ぶ弱者は、その前提を知らない奴があまりに多い。結局、力がなければ美しい死に場所もない――男というのはそういう風にできているものです」
「ほほう、お優しい君がそんなことを言うとはのぉ」
「……」
――僕は元々優しくなどない。
幼い頃から、憎むべき相手に蹂躙され続け、憎しみと共に生きた男だ。
そして、無駄に小賢しかった。だから、幼くても自分がそいつらに蹂躙されて、死んだらどうなるかが、何となく想像がついてしまった。
自分の命が、憎むべき相手に一矢を報いる力もない程軽いと知っていた。
そのおかげで、このろくでもない男が、あれだけ痛めつけられてもまだ生きられていて。
そして、憎んでいた家族を殺したのだ。
「じゃが――それが女にやられると、儂はひどく打ちのめされたような気分になるのじゃよ。儂に屈さない男はただの馬鹿じゃと思えるのじゃが、それが女になったというだけで、儂に徹底的な敗北感を与えて去りおる……女というのは、そういう女に限って、気高く聡く、儂が手放すのが本気で惜しいと思わせるような魅力を持っておる――そこが厄介での」
「……」
――それは、単純に自分の思い通りにならないことへの不満、というだけのことではないのか?
「そして、ついこの間も、儂はそんな女の一人を必死に追い求めたのじゃ。実に美しい娘で、頭もよかった。儂も年甲斐もなく、そんな若い女を本気で追いかけた。儂の力の全てをつぎ込んででも、儂の生涯最後の女になってほしいと思った」
「……」
「じゃが――儂は見事なまでに振られたよ」
爺さんは、手を上げて自嘲を浮かべた。
「会長は素晴らしい力をお持ちです。頭もよくて、人生の選択を間違えることもない――そんな会長についていけば、私の人生も恐らく大した浮き沈みもなく、ずっと豊かなまま終わるでしょう。そんな会長に従わない私は馬鹿でしょう。でも、私は、花に例えるなら、既に満開の花を維持するよりも、咲きかけの蕾が開く様を、一番近くで見たいのです、と言っての」
「……」
その言葉を聞いただけで、その女性の気高さや賢さがうかがえるようだった。この爺さんを立て、自分をやんわりと卑下しつつも、実に誇りに満ち溢れ、爺さんに対する不平不満は一語一句ない。
この爺さんの好意をいなすには、100点満点に近い回答だろう。
だが――酔狂な女がいるものだな。ここまでこの爺さんが入れ込んでいるのであれば、少しくらい小ずるく私財のおこぼれを貰っておけばいいのに。
「儂のことを振る女は、みんな同じようなことを言うのじゃ。儂の威を借って、欲しいものは何でも手に入れられる――そんな自分の未来を否定する――儂が財界で成功を掴みとった、金と権力――それを封じてしまうのじゃ。そんな女を見ておると、儂が金と権力を失えば、女一人の心も動かせんのかと思えてきての。酷く自分自身のつまらなさ、無力さを思い知らされるのじゃ」
珍しくこの爺さんがしおらしいことを口にしたことも、僕を少し動揺させた。
「そんな女を追いかけていた頃に、儂の耳に君の噂が届いての」
「え?」
いきなり爺さんの話に僕が登場し、僕は顔を上げる。
「高校時代は、時代の寵児と呼ばれる程の男じゃったが、家族のために全てを失い、日本から去った男――そんな男が、ヨーロッパで名声を手にして日本に戻り、正義の味方と呼ばれて急成長を遂げている若造がいる、とな」
「……」
「よく見ると、儂の入れ込んだ女達も、孫娘のレナでさえ、君の名声に心を惹かれておった。女達が皆、君を褒めそやした。それを訊いていて、儂も君に興味を持っての。レナの成人パーティーを機に、君のアクセサリーを依頼し、君の力量を試し、君を見極めようとしたのじゃ」
「それはレナお嬢様からうかがっております」
「ふむ――覚えておるかね? 君は当時、23歳の若造じゃったが、儂の前に出てに媚もせず、虚勢も張らず、実に威風堂々としておった。それどころか、儂をその目が捉えて離さず、儂の一挙手一投足を常に監視しておるようであった。実に涼やかな男振りじゃった」
「……」
「そして、そんな君が大衆から英雄ともてはやされ、弱き者の味方をし、それでいてどんどん力と名声をつけていった――そんな君を見ていて、儂は思ったのじゃ。儂の金や権力に屈せずに、凛としたまま儂の許を去った女達は、恐らく君のような男を待っていたのじゃろう。君のような、惚れた者のためにいつでも自分の全てを投げ打てる、そんな男に愛されたいと願ったのじゃろう――とな。それを思った時、儂は初めて、自分よりも力のない男に、敗北感を味あわされた……儂の知らない力を持つ君に打ちのめされたのじゃ」
「……」
「サクライくん、話は変わるが、君は今では名実ともに、帝国グループに次ぐ力と富を手にした男じゃ。その勢いを駆って、これから帝国グループも、飛天グループのように呑み込んでしまおうと思うか?」
「いえ」
「ほう」
「グランローズマリーは烏合の衆――そんな僕達が、帝国グループの潤沢な資金力と、優秀な人材に喧嘩を売っても、時間と金の浪費、こちらの勢力の衰退を招くでしょう。少なくとも、グランローズマリーが帝国グループと本気で張り合えるようになるまで、あと20年はかかるでしょうね」
「やはり賢いな、君は。勝ち戦を続けて、常人なら気が大きくなって、無謀な戦をしたがるものじゃが、状況がよく見えておる」
爺さんは僕に笑みを浮かべた。
「儂もグランローズマリーを潰そうという気など、さらさらない」
「……」
「サクライくん。君は確かに天才じゃが、力では儂に勝つことは出来ん。儂ももう70近いが、儂の目の黒いうちに、君が帝国グループを超えることは、まず無理じゃろう。そもそも年季が違う――もう儂の勝ち逃げは確定しておるのじゃ」
「そうですね」
「そして、儂が死んだ後、帝国グループがどうなろうとも、儂はあまり興味がない。戦国時代、最強と言われた武田家も、信玄の次代で滅び、織田も豊臣も、天下を手中にしながら、絶対的な権力者の死の後は、あっという間に滅んだ。今の最強が、半世紀後に滅んでいることもあり得る――それが世の常じゃ。帝国グループも、未来永劫の繁栄などせんでもよい。儂の目の黒いうちだけ繁栄しておればよい――そう考える儂にとっては、君を潰すことなど、儂の平穏を自ら壊す行為でしかない。君は確かに儂に力は劣るが、儂が喧嘩を売れば、君は死人となって儂に立ち向かうじゃろう。天才が死人となって立ち向かってくれば、こちらの被害も必至――君を潰すメリットは、儂には何もない」
「……」
「じゃが、儂は死ぬ前に、どうしても君のその澄んだ眼の色を変えてみたいのじゃよ。君はまだまだ小粒ながら、儂に敗北感を味あわせた男じゃ。じゃが、死ぬ前に儂の信じた者こそが正しかったと思いたい。君の信じる正義を、儂の信じる力に屈させて、儂はやはり間違っていなかったのだ、と思いたくての」
「……」
成程。ようやく合点が行った。この爺さんが、自分よりはるかに力のない僕に、こうも固執するのが。
僕の生き方を否定することで、自分の正当性を示したかったのか。
だけど……
そんな考えを巡らせた時、僕のスーツのポケットに入っていた携帯電話が震え出した。
「む、儂の方も電話じゃな」
それとほぼ同じタイミングで、僕達は同時に携帯電話を取り出した。
「失礼」
爺さんに断りを入れて、携帯の液晶画面を見た。エイジからの電話だった。
「もしもし、どうした?」
僕は爺さんから目を背けた。爺さんも通話をはじめる。
「――そうか。用件はそれだけか? ――ああ、分かった。わざわざすまない」
一分も話さないまま僕は通話終了ボタンを押した。それとほぼ同じタイミングで、爺さんも電話を切る。
「どうやら、お互い同じ用件での電話だったようじゃな」
「えぇ――帝国グループの会長と、その息子二人が、首を吊って死んだと……」
「ふむ」
爺さんも頷いた。別に飛天グループの連中が死んだところで、自分には何の関係もない、そんな穏やかな顔で。
「……」
沈黙。
だが、爺さんが次に言いたいことは分かっている。
君が連中を殺した、と。
「会長」
だから僕は、その言葉を爺さんが言う前に、口を開いた。
「会長から見て、僕の今の目がどう映っているかはわかりませんけど――恐らく僕はもう、会長に屈しているのかも知れません――多分僕は今、連中の死に対して、会長と同じ思いを抱いているでしょう」
「ほう」
「――悲しいですね。力がない奴っていうのは。最期の最期まで、惨めに死んでいく」
僕は若干投げやりに笑って見せた。
「はっはっは!」
爺さんが笑った。僕がこんなことを言うとは思わなかったのだろう。爺さんにとっては、喝采に等しい笑いだった。
「……」
そう、初めからわかっていたさ。
僕はこれからも、逆らった者全てに血の雨を降らせる。
7年前――日本を出た時から、そんなこと、知っていたさ。
僕の手は、とっくにこの爺さんよりも汚れているんだ。