Midnight
「ユータ」
僕は首だけを、暗闇の先にあるのだろうユータの方へ向ける。
「ジュンイチと一緒に、僕のこと、マツオカに頼んだ、って、本当か?」
それを訊いて、ユータは一瞬沈黙したが、失笑しながら、あっけらかんと答えた。
「シオリさんに聞いたのか? 意外とお喋りなんだな――あの娘」
やっぱり本当だったんだ。勿論、彼女が嘘をついたなんてことは考えてはいなかったが、あの子は嫌とは言えないタイプだ。二人に口裏を合わせただけという可能性もあったから確かめた。
「でも、相手がお前だったから、彼女は話しちゃったのかな」
「――どういう意味だ?」
「本当に好きな人の前だと、嘘がつけなくなるものじゃないか?」
「……」
何でそこに帰着するんだ。何で皆、僕と彼女をくっつけようとするんだ。
でも、あまりに彼女のことが話題に上るので、僕は不覚にも、彼女の微笑を、また脳裏に蘇らせてしまった。
顔は陽炎がかかったようでうまくイメージできなかったけれど、彼女の微笑が蘇ると、不思議な気持ちが湧きあがってきた。胸の中で、綿菓子ができていくように、もやもやしたものが、胸を満たしてくる。僕は思わず溜息をついた。
「お前、気になってたんだろ?」
急に横からユータの声がした。
「え?」
「シオリさんのことさ。恐らく何らかの心の変化があったと俺は見るね。だからクソ真面目なケースケが勉強を早く切り上げようと言った。違うか?」
「……」
もうここまで読まれていたら、白状するしかなかった。相手がユータであれば、まあいいような気がした。僕にとっては恥部をさらけ出すような話でも。
「なあ――マツオカって、いい娘だよな。可愛いって意味じゃなくて――すごくいい娘だよな」
「今頃?」
ユータの笑い交じりの声が、暗闇の先でした。
「そんなこと、学校中のみんなが知ってるぜ」
「……」
「で、どうなんだよ。のろけ話でもあるのか?」
「そうじゃなくて」
僕は、ユータに今の気持ちを、的確に伝えられる言葉を模索した。
改めて言うことじゃないが、僕は話をするのが苦手だ。自分の中途半端な言葉で、混沌とした自分の気持ちを言い表すことが出来ないことを知って、いつしかそれを他人に伝えることを諦めた。
今回も、言葉を捜しても上手く言えそうにない。だから僕はユータに、率直に要点だけを述べることに切り替えた。
「調子が狂うんだよ。あの娘といると……」
ジュンイチではなくユータに話したのは、ユータの方が考えが思想的にシビアな面があることを、僕は知っていたからだ。
ジュンイチはきっと僕を慰めるだろうが、僕は今、それを望んでいない。シビアな意見の方が望ましい。女の酸いも甘いも噛み分けたユータだ。この質問をするのは、彼の方が適している、と思ったから、さっきジュンイチに訊こうと思って、考え直してやめたのだった。
「……」
布団ががさがさとこすれる音がした。ユータが寝返りを打ったのだろう、
「お前、一度ジュンに殴られた時があっただろ。覚えてるか?」
「……」
ジュンイチのパンチ――親父のパンチ程じゃないけど、あれは効いた。
「あぁ――」
僕は暗闇の中で頬をさする。
「あいつ、本気で殴りやがって……殴られてなくても、あの時既に怪我人だったのに」
「でも、シオリさんがこの合宿に協力してくれるって言った時、あの娘、あの時のジュンと同じ目をしてたなぁ」
「ん?」
「何て言うの? 辛そうなお前を見ているのが、辛くて、苦しくて――って感じ?」
「……」
またか、また誰かに心配される。
だけど……彼女に対しては、心配させるようなことばかりしてるのも確かだな。じゃあ、僕はユータ達に対しても、心配されるようなことをしていたのか?
――ダメだ。こういう考え方をする自体、性に合ってない。調子が狂う。
「でもよ」
ユータの声がした。
「お前、ジュンがあの時殴ってなかったら、今頃もう学校辞めてたかもしれないよな。何だかんだ言って、あの頃のケースケ、おかしかったもんな」
「おかしい?」
「ま、今のお前はあの時よりも、ずっとおかしいけどな」
「……」
沈黙。
「僕って今、そんなにおかしいかな」
その僕の問いに、ユータが一度噴出した。
「あぁ、おかしいね」
即答。
「お前って、無口で無愛想だけど、長く付き合ってると、案外わかりやすいんだよな」
「……」
本当にばれている。だけど、バスケの試合の後に、心の中を見抜かれて、マツオカ・シオリに激昂した時の感覚とは違う。ため息を付きたくなるような、心の脱力感が、今の僕を支配していた。
もう怒る気力もない――というよりは、自分でも、今の自分をおかしいと思っていることの裏返しだと、僕は思う。
「……」
「俺の読みだけど、今のお前って、あの時ジュンに殴られて立ち直ったみたいな、荒療治が必要だと思うし、お前も心のどこかで、それを求め出してる気がするんだよな」
「――それで、彼女を僕にあてがったって訳か?」
「そうだよ」
自らの企てたシナリオを、あっけらかんとユータは暴露した。
「だって、俺達は馬鹿だから、お前の悩みなんて、身をもった助けなんて出来そうにないしさ……結構、複雑なんだろ? 何があるかは、無理には聞かないけどさ……」
「……」
「はじめは、単に頭のいい彼女なら、俺達の知らないお前の考えを聞き出せるかも、程度の気持ちだったんだ。だけど、話しているうちに、あの娘もあの娘なりに悩みがあったんだなって。それに悩む姿が、お前にダブったんだよ。だから、お前の気持ち、わかってくれそうな気がしてさ……無理言って頼んだんだ。どうやらあの娘もケースケも、お互いまんざらじゃないみたいだしな」
「……」
「どうだ? 心が弱ってる時に、あの娘の笑顔は、結構効くだろ?」
僕は彼女に近付かないように、彼女のファンと盟約を交わした。だけど、そんなものはもうどうでも良くなりはじめていた。ユータの思惑通り、僕は同じ痛みを抱える彼女に惹かれだしたって訳だ。
こんなにも、彼女の笑顔を思い出すのも、あの笑顔を見ていると、汚く汚れた僕の心が洗われるような、救われるような――無意識にそう考えていたのかも。
だけど……
「僕と彼女は、付き合うとか、そういう関係じゃないよ」
そう、人の気持ちもわからない僕、彼女もある意味虚構の自分に疲れを見せている。そんな二人が、明日から手をつないで、愛だ恋だと語り合うなんて、想像もできない。
そんな僕達が一緒にいるのは、傷を舐めあうだけの、ただの堕落だろうか。
そんな悩みを、ユータがまるで鍛え抜かれた日本刀の、青く光る一閃のように切り裂いた。
「これから変わっていけばいいんだよ。お前も、シオリさんも。勿論、俺達もな。付き合うなんて限定をするから、先がないのさ」
「……」
「ケースケは、いつも目標を持って何かをやってるみたいだけどさ。先の見えないゴールに向かって走ることを無駄だって考えるなよ。なかなかひとつの道を真っ直ぐには進めないさ。時には回り道もして、何かを学ぶものだろ。人間なんて」
「――随分詩的な表現だな」
「はは。まあ、ここまでは建前だ。実際お前とシオリさんがくっつかれちゃ俺が困るぜ。俺だってあんな可愛い娘、お前でもすんなり譲るなんて出来ないからな」
「はは」
よく言うよ。実際はそんなこと、もうどうだっていいんだろ。
「はぁ……何か話に頭使ってたら、眠くなってきちゃったよ。おやすみ」
そう言うと、ユータが布団をかぶり直す音がした。その後、一切の音が聞こえなくなった。
「……」
最後、不覚にも僕はこうして笑ってしまって。小学校の頃、笑顔を忘れた、もう二度と笑えないと思っていた僕が、ほんの僅かだけど、ユータの前で笑えた。
こうやって、変われるんだろうか。僕も。彼女も。
一人じゃ出来ないことも、二人でだったら頑張れる。それは決して負けじゃない。
なかなかそれを全て受け入れることは、まだ出来そうにないけれど……
とにかく、頑張ってみよう。頑張ってみたい。
それだけは、素直に思えた夜だった。