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「久し振りじゃなぁ、サクライくん」
帝国グループの爺さんが、僕をにこやかに、茶室に迎え入れる。
「ご無沙汰しています、ザイゼン会長」
僕はふわりと座布団の上に座った。この爺さんの屋敷の中にある茶室は、勝手知ったるというやつだ。無駄な社交辞令がなくて助かる。
炉端にかかっている茶釜がふつふつと小さく音を立て、小さく湯気を出していた。
「わざわざ御苦労じゃな。外は寒かったじゃろうから、まずは茶でも飲んでくれ」
そう言いながら、爺さんは抹茶の入った茶碗に、茶釜の中の湯を柄杓で掬い入れた。確かに外はもう12月で寒いが、僕は車で来たから、それほど体は冷えていないのだけれど。
爺さんの立てた茶が僕の前に出される。いただきます、と言って、僕は作法もそこそこに茶を受け取り、軽く一口だけ飲んだ。
「しかし、君と会うのも、もう3カ月振りだったかな」
爺さんが僕の目を覗き込んだ。
「――申し訳ありません。連絡を貰ってはいたのですが、色々と公私共に立て込んでいまして」
この爺さんと最後に会ったのは、僕が吐血して倒れ、病院に担ぎ込まれた直前のことだ。実際、僕の入院中に、爺さんは退院後に話がしたい、と連絡を入れていたが、結局後回しにしていた。
「ご注文されていた品も、随分と遅れてしまい、申し訳ありませんでした」
そう言って、僕は持ってきたケースの蓋を開け、その中に保管された小箱を取り出した。
「ダイヤの指輪、ブレスレット、ピアス、ブローチの4点セットです。お確かめください」
僕は小箱を爺さんに渡す。
「ほほぅ。最近のデザイナーの君は、ますます絶好調と聞いているが、相変わらず、見事な出来じゃ」
爺さんはかけていた眼鏡をくいと上げながら、感嘆の声を漏らした。
「で、いくらじゃ?」
「28億円です」
「そうか」
それを確認すると、爺さんは呼び鈴を鳴らして、屋敷の執事長を呼び、小切手を持ってきてくれ、と頼んだ。執事長は会釈をして、茶室の襖を閉めた。
「しかし、ようやく君のアクセサリーが手に入った。女も心待ちにしておってのぅ」
「――やはり女ですか」
僕はふっと息をついた。この爺さんの送り主は、もう孫か妾と決まっている。
「何じゃ。そんな呆れたような顔をして」
爺さんは顔をしかめる。
「やはり気になるものかね? 自分の作ったものが、俗物の手に渡れば」
「……」
僕は少々、その問いに答えるのに数秒を要した。
「私はプロです。金を貰う以上、商品を売った先のことは、干渉はしません。ですが私は職人です。丹精を込める以上、出来れば価値の分かる人に作品を持ってもらいたいと思うのは当然でしょう」
僕の宝石は価格が高騰している。故に一流のステータスになりえる。そうした一種の勲章、もしくは見せびらかしで、僕のアクセサリーを欲しがる者が、僕の客の大半を占めている。
昔はそんな人間に、細部にまで気を配り、何日も徹夜をして作り上げた僕のアクセサリーを渡すことに、酷く憤ることも多かったが、次第に慣れてくる。
「しかし、以前は女の贈り物にも、もっと張り込んでいただいたのに、今回は随分と規模を縮小しましたね。もう本気で口説く気が失せたのですか?」
この爺さんは、2年前、僕が日本に帰ってきて間もない頃に、孫娘のレナに総額500億のアクセサリー一式を注文したが、同時に妾用にも、100億を超える注文も僕にしたものだった。それに比べると、今回は注文の限度額が少なく、仕事の美味しさが随分と損なわれていた。
「――ふっ」
それを訊いて爺さんは、力なく笑い飛ばし、この話題はここまで、と言う意思表示をした。
「――失礼しました」
僕はそれを察して、頭を下げた。
「よいよい――それより先日のアメリカでの仕事ぶりも報道で見た。きっと今、君のもとへは新規の注文が殺到しているじゃろう」
「――ええ。2月になれば、アカデミー賞やグラミー賞の授賞式もありますからね。そこに向けて、箔をつけたいハリウッド女優やら、歌手やらが挙って注文を出しましたよ」
「ほほぅ」
爺さんは頷いた。
「しかし、それだけではなかろう。君のアクセサリーだけではない、君自身を手に入れたいと思う女優やモデルも、いっぱいおったじゃろうに」
「……」
そうだな。実際アメリカにいた際、面識のある女優やモデルからの連絡は途絶えることはなかったし、食事の誘いや、ホテルの部屋に来たいと言い出す女もいっぱいいた。
だが、肌の色、目の色、髪形や表情がそれぞれ違っていても、それらの女を見ても、まるでマネキンを見るように平坦な印象しか抱けなかった。
皆、考えていることは同じ――美しい姿形を持って生まれ、それを磨いてきたのは大変結構なことだが、自分を美しい、自分が大衆の羨望を集める存在であることを自認している分、自分の老いや劣化を恐れ、疎み、それを紛らわせるために、美の全てを手に入れなければ生きた気がしない、とてつもなく乾いた心の持ち主だ。
「……」
アメリカにいる間、そんな女達にちやほやされながら、僕の瞼の裏に、7年前のシオリの姿が思い浮かぶことが多くなった。
『うちの家族が言ってたでしょう。私はお金のかからない女だって。えへへ』
そんなことを少し自慢げに言って見せては、照れ笑いを浮かべていたシオリの笑顔を、そんな女達の姿の後ろに見ていた。
そんな時に、少しだけ穏やかな気持ちになる自分に、僕は気付いていた。彼女のその瑞々しい笑顔が、乾ききった心を持つ女と対比すると、より清涼に僕の心を満たした。
「――しかし、君も馬鹿な女に利用されそうになっておったな」
爺さんはケースを自分の座布団の横に置いた。
そら来たな、と僕は思った。
「君が倒れて病院に運ばれたという報道があったのは、女に訴えられた直後じゃったからな。君が親身になって接していた女に手を噛まれ、傷つき疲れてそうなったことくらいは、容易に想像はつく」
「……」
「これでよく分かったじゃろう。大衆なんて、君が心を尽くしても、恩など感じてはおらん人間が大多数じゃよ。君ほどの男が心身をズタボロにする価値など、ひとかけらもありはせん。それが大衆どもじゃ」
「……」
「燕雀安んぞ、鴻鵠の志を知らんや――ぬるま湯に浸かった人間は、他人の善意を平気で踏みにじり、善意以上のものを要求しおる――それをこちらが拒否すれば、次は不平不満を言い始めよる――そんな連中に、過度の施しなど与えてやることはないじゃろう。そろそろ君も、その王の力を自分のために使ったらどうかね」
「……」
――最後にこの爺さんに会った頃、爺さんの言葉――力こそ全てと語るその真理を突き付けられ、大きく心が揺れた。
シオリや、ユータ達、僕を救ってくれた仲間に報いようと必死になってみても、結局何もできないままの今の自分に、強い迷いが生じた。
あのままでいたら、今頃僕の人生は、少し変わっていたかもしれない。
でも――
「――会長の言うことは、常に正しいでしょう」
僕は口を開いた。
「人間がそんないいものじゃないことは、百も承知ですよ。残念ながら、僕の家族でさえ、どうしようもないクズでしたからね――ただ、僕の周りには、馬鹿だけど、気のいい奴もいました。ひねくれた僕にも、手を差し伸べてくれるような奴がいたんです。人間もそんな捨てたものじゃないって、思わせてくれる奴等がね」
「……」
「別に全ての人間に理解されなくてもいい。僕の想いは、そんな僅かのいい奴に届けば、それでいいですよ」
そう、今は迷いはない。
僕は7年前、シオリに誓ったんだ。僕の力を、誰かのために使うことを。
もうシオリはそんなこと、忘れてしまっているかも知れないけれど、それでもいい。
彼女を迎えに行く前に、少しでもかつての約束を果たしたい。
今の僕は、それだけでいい。
「――ふ、相変わらず折れんのぅ、君は」
爺さんが呆れるように笑みを浮かべた。
「あんな思いをしてでも、君はその結論を曲げんとは……つくづく儂の考えと交わらんな」
「会長は、随分と私の生き方を変えたがりますね」
僕は言った。
「今や飛天グループを吸収して、帝国グループに次ぐ勢力になったグランローズマリーなのに、いまだに僕の心配をするなんて――王者の余裕というやつですか?」
そう、この爺さんは、今の僕でさえ、対等な敵とは思っていないのだ。だから今でもこんなことを言う。
客観的に判断すれば、今の僕とこの爺さんでは、まだまだ大きな差が開いているのは事実だ。それを僕も自覚しているから、それを侮辱とは思っていないけれど。
「ふぅむ」
爺さんはそれを訊いて、少しだけ表情を強張らせた。
「ひとつ訊くが、君は儂を、敵と味方、どちらだと思っておる?」
鋭い眼光を僕に向ける。
「……」
その意味を察し、僕は数秒考えを纏める時間を要した。
「――少なくとも、味方ではないでしょうね」
僕は取りあえずそう答えた。
「じゃあ、敵か?」
「……」
僕は口元に手を当てる。
「その二択なら、そっちの方が近い気もするけれど――厳密に言えば違う気がしますね」
「ほう」
爺さんは頷いた。
「じゃあ、儂は君にとっての何だと思う?」
「……」
僕はまた、言葉を咀嚼する。
「上手く言えませんが――互いの会社とは無関係の、私闘や野試合と言った類の喧嘩相手――そんなところですかね」
「ほう。では、儂は君の、何を賭けて喧嘩しておると思う?」
「――矜持」
「ふむ」
爺さんは、僕の答えに、不敵に笑った。
この爺さんが、ことあるごとに僕を気にかけているのは、別にグランローズマリーなどどうでもいいのだ。自分にとっては取るに足らない勢力。
それは間違いのないことだ。飛天グループを吸収して、日本第2位の企業となったグランローズマリーも、創業してから日が浅い上に、人材も特別優秀ではない、僕の采配のみで成長した企業。おまけに今回の件で、多くの外様の社員達を迎え入れることとなったグランローズマリーは、綺羅星の如く優秀な人材を揃え、長年の信頼を持つ帝国グループに比べれば、烏合の衆だ。僕の見立てでも、おそらくこの爺さんの存命中に、帝国グループの牙城を崩すことは、まず無理だ。
となれば、この爺さんが僕を気にする理由とは、僕個人に対する私的感情。
爺さんの、僕に対する行動理念には、常に僕の生き方の否定に根幹がある。
つまり、生き方――矜持がこの爺さんを突き動かしている。
「やはり君は優秀じゃな。しっかりと儂という人間を見抜いておる」
「会長にとって、私の生き方は、どこか癇に障る――と?」
この際だからはっきりさせてやろう、と、半ば捨て鉢な思いで僕は訊いた。
――そう、ここらで全て曝け出すのもいい。
「その通りじゃ。はっきり言えば、儂は君という人間が気に入らん」
爺さんは冷たく言い捨てた。
「……」
「だが、別に君に恨みや憎しみという感情を持っているわけではない。君の能力や考え方は、儂に非常に近しいと感じておるし、儂はその点では、君を気に入っておる――じゃが、どうしても、君のその、弱き者のために生きるという生き方が、気に入らなくての」
「――そうですか」
僕は頷いた。
そう言われても、別に恐れていたり、身の危険を感じることはなかった。
これはあくまで、矜持を賭けた私闘だ。相手の生命や社会的地位を奪うようなものではない。
「サクライくん。儂はこれまで、帝国グループの長として、長年勝ち続けてきた男じゃ。儂は生涯、誰にも負けたことがないのじゃ。帝国グループが常に一位であるために、儂は勝ち続けなければならなかったからじゃ」
「存じています」
「戦いこそが儂の人生――そして、儂は勝ち残り、帝国グループは常に覇権を握った。現在日本で、儂よりも力を持つ者は存在せん」
「その力こそが、会長の誇りであり、矜持なのですね」
「そうじゃ。儂はこの力で、自分の欲しいものは全て手に入れ、全ての白を黒に変えてきた男じゃ。事実それで手に入れられなかったものはない。人でも、物でも、全てそれで征服してきたのじゃ」
「……」
そう、それこそが力だ。
極め抜いた力とは、世界の法則を乱すこと――非常識を常識として罷り通すことだ。
そんな極めた力を持てば、犯罪まがいのことをしても、白として罷り通せる。
昔の僕も、そんな力を欲しがった。親と子、大人と子供などというつまらないものを捻じ曲げることが罷り通るだけの力を。
「じゃが、儂がその力で、唯一手中に収められなかったものがあるのじゃ」
「む」
僕はぴくりと反応する。
「それは何でしょう」
僕は訊いた。社交辞令としてではなく、爺さんが何と答えるかに興味を抱いて訊いた。
「――笑ってくれるなよ」
爺さんは照れくさそうに前置きした。
「それはな――惚れた女の愛じゃ」