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Ship

 もう時計は、22時を回っていた。

 埼玉にある実母の生家から、東京に戻った俺は、東京湾沿いの埠頭にある倉庫街に来ていた。

 倉庫街は、今日来航する船の積み荷の積み下ろしも終わり、人っ子一人いない状態だ。船に積むコンテナが雑然と打ち捨てられており、街灯も少なく、死んだ街のようだった。

 そんな倉庫街の一角に僕は車を止め、リュートと共に車を降りた。俺は車のトランクを開け、そこからジュラルミンケースを出し、それを右手に持った。

 海とは言え、東京の海は、重油の臭いの混ざった生臭い臭いが潮風と混ざって漂っている。

「クゥン……」

 この臭いがお気に召さないらしいリュートは、不快そうに呻いた。

「……」

 埠頭の向こうに、一艘の古い中型船が停泊していた。そして、その船の前には、10人ほどの人間がいて、舟を見上げていた。

「ん?」

 そのうちの一人が、俺のローファーの音に気付き、後ろを向いた。

「おう、何の用じゃ、にいちゃん」

 男は俺に詰め寄った。黒服の強面。エイジより背は低いが、がっしりとした体形の男だった。

「――三下に用はない。引っ込んでろ」

「何やとコラ!」

「やめな」

 いきり立った男を、女の凛とした声が制した。

「あ、姉さん……」

「その男、あんたの手におえる男じゃない。よく顔を見てみな」

 後ろにいた女にそう言われ、黒いスーツを着た男達は、皆俺の顔を覗き込んだ。

「さ……」

 どうやら一瞬で俺の正体に気付いたらしい。サングラスをかけていたが、後ろの女だけは一瞬で僕の正体に気付いたらしい。

 その女は、つかつかとお高く止まった歩き方で、俺の前に詰め寄った。強面の男達は、その女のために一歩退いた。どうやらこの女がこいつらのリーダーらしい。

「今をときめく天才さんが、こんな所に何の御用?」

 女は俺にそう言った。高いヒールに、カシミアのコートを羽織り、長い煙草をくわえ、ばっちり化粧を施した、高慢そうだが、美しい女だった。歳は俺より2,3年上だろうか。

「まさかお父様をいじめる私達をやっつけに来たのかしら? 正義の味方さん?」

 そう言って、女は黒服に囲ませていた一人の男に目を向けた。

「……」

 俺はさっきから、その男のことだけを睨んでいた。

 そう、あの背中を丸め、そう白髪、頭のてっぺんが禿げ上がり、大柄な体をげっそりとやせ細らせた男は。

 そう、俺の父親――だった男だ。

「――別に。お前達のやることに、俺は一切口を挟む気はない。俺はその男のラストシーンの傍観希望者だ」

「あらそう」

 女はふっと笑みを見せた。

「そこの豚をどうするつもりだ?」

「見ての通り、船に乗せるのよ」

 女は煙草で、目の前の船を示した。

「――意外だな。今時遠洋漁業なんて、東南アジア当たりの安い労働者が沢山いるんだ。大して儲からないだろう。保険金を多重にかけて殺すくらいするのかと思っていたが」

「この程度のヤマで殺しをやるのはリスクが大きすぎるんでね。まあ、あなたのお父様くらいの客なら、それで十分元は取れるわ」

「――そうか」

 少し残念だ、そこの男が本当に『死ぬ』瞬間を拝めると思ったのだが……

「そのオッサン、調べたけど、相当ヘビースモーカーだったようね。もう内臓も売り物にならないわ。だから殺しても、旨味が少なくてね」

 そう言いながら、女は煙草の煙を夜空へ吹かし上げた。

「……」

 男はもう、俺がここに来ても一度も目を合わせようとはしなかった。

 3カ月程前に会った頃には、まだ少し目に生気があったが――

 今はもう、完全に夢遊病者のようだ。感情のスイッチが入っていない。感情のスイッチが完全に壊れている。

「……」

 俺は男に詰め寄った。黒服二人は、女の命令でその男の後ろに立ったまま、俺の前に男を突き出した。

「……」

「……」

 男は、ただ俺に虚ろな目を向けるだけだった。

 その眼はもう、閻魔によってくり抜かれ、何の光も放っていない。

「――俺が日本を出て7年、無駄な足掻き、ご苦労さん」

 とりあえず俺が口を開いてみる。

「さっき、お前の他の家族のの様子も見てきた――お前の元女房は自殺した。お前の娘は、クスリでラリって、長期刑が今日、確定したよ」

「……」

 だが、俺の言葉に目の前の男は、まるで反応しなかった。もう耳も聞こえていない――そんな具合だ。

「――っ」

 ジュラルミンケースを持っていない俺の右手が、勝手に握り拳になって、目の前の男の顔に飛んで行った。男は何の手ごたえもなく、そのまま後ろに吹っ飛び、尻もちをついた。

「――ふ……ふざけんなよぉっ!」

 俺は倒れている男に向かって、怒鳴り声をあげた。

「散々人の人生弄んで、罪に問われりゃそうしてわからない振りで誤魔化そうってのかよ! ――まだ何も終わってねぇ……お前は何か言うことがあるだろうが!」

 この豚の態度の全てが許せなかった。

 この男が、この土壇場でも、詫びの言葉など言うことはないことは、先刻の妹と、母の親族の様子を見て、もう分かっていた。

 だから――せめてこの男の最後は、屈辱と苦痛に満ちていなければならなかった。謝罪をする気がないなら、そうして償ってもらうしかない。

 それなのに……この男は心を自ら殺して、屈辱と苦痛から逃げた。罪を詫びず、償うことも放棄し、自分の罪を、自分だけのルールで、なかったことにした。

 俺はずっとこの7年、日本に帰ってからも『犯罪者の息子』と馬鹿にされ続けてきた。その罵声から、いまだに逃れられていないというのに……

「はいはい」

 女の声と同時に、俺の身体は黒服達に抑え込まれた。俺と男の間に、さっきの女が割って入る。

「あなたがこのオッサンに言いたいことがある気持ちもわかるけど、こちらとしては、こんなのでも商品なのよね。傷つけるのはいいけど、働ける程度にしてよね」

「……」

 ――まさか、ヤクザに暴力を止められるとはな……その事実が、途端に俺をしらけさせた。

「もたもたして警察に見つかったら面倒ね。さっさとそのオッサンを船に詰め込みな!」

 女の凛とした声で、黒服達は男を引きずるように舟に運んで行った。



 俺はリュートと共に、桟橋の上から、親父の乗せられた船が出港し、海の闇に消えるのを、しばらく見つめていた。

 灯台の光も出ていない海に、明かりもほとんどつけず、東京の舗装された海の波にさえ煽られるような船で、遠洋へと出される。

 もうあの男は、一生船の上で奴隷になって働くのだ。

「……」

 俺の中で、まだ怒りが収まっていなかった。

「大丈夫よ」

 女の声に、俺は振り向く。

 さっきのヤクザの頭をやっていた女が、桟橋の袂に自分の部下の黒服二人を残し、向こうから一人でこちらへやってくる。

「一応あのオッサン、歯を全部抜いて、舌を噛んでの自殺はできないようにはしたけどね。あなたの母親みたいに死ぬことを選ばなかったのは、生に執着があるからね。そういう奴は、いつまでもあの態度を貫けないわよ。そのうち逃れられなくなって、現実に戻らざるを得ないわよ。あのオッサン、死ねない分、人生はまだまだ長いからね」

「――それは、慰めか?」

 俺は隣に立った女を一瞥した。

「お気に召さない?」

「――さあな。俺もあの親父のことをとやかく言えた義理じゃないんだ。今は――割と何もかもどうでもいい」

「そう……」

 女は僕の横顔を見上げた。

「お久しぶりね、天才さん」

「――ああ」

「2年ぶり――かしら」

「ああ。俺が日本に帰国してすぐの頃だったからな」

 そう。実は俺は、この女と面識がある。

「2年前、あなたの家族に貸し付けやっていた私達を炙り出して、ひとり私達の所に来たわね」

「……」

「あなたは私達のやってきた取り立てのやり方を教えてくれ、と言った。それを訊いて、あなたは、その調子であの男を追いつめてくれ、と言ったわね」

「あいつらを追い込む奴等がどんな奴等か、面を拝みたくてな」

 餅は餅屋――その場にいない俺が中途半端な人間を使うよりも、こういう手合いの方がずっと、家族を精神的に追い込んでくれるだろう。そう判断した俺は、親父達に金を貸している人間を突き止め、コンタクトを取っていたのだ。

「どうやら少しお気に召さない結果のようだけど?」

「いや、あれでいい。少なくともあいつの人生は、確実に終わった。あんた達のおかげだ。」

 そう言って、俺は自分の持っていたジュラルミンケースを、女の前に突き出した。

「これは礼と、俺の血族の不義の償いだ」

「へえ」

 女は持っていた煙草を咥え、ケースを受け取った。女の細腕には重かったらしく、桟橋の袂にいた子分を呼び、ケースを持たせ、再び下がらせた。

「今や好感度抜群のあなたが、私達に金を渡すなんて、きっと大スキャンダルね」

「……」

 俺は自分の背中の視線を再度確認する。

「――俺は俺の作りだした不幸の落とし前をつけただけだ。俺に流れる血が生み出した問題に、ヤクザだろうが暴力団だろうが、巻き込んだままケジメをつけなかったら、俺もあのゴミと同じになっちまうからな」

 そう、別に親父の最後なんてどうでもいい。

 親父の残した借金――これを全て根絶すれば、俺と同じ血が流れていない者――つまり、俺の血族以外で、俺の一族の問題に巻き込まれる他人はいなくなる。

 俺は、サクライという家の全てを終わらせに、ここに来たのだった。

「俺にとってお前達の利用価値もなくなった――もう会うこともないだろう……」

 そう言って、俺は踵を返して、女の横を去ろうとした……

「ちょっと待ってよ」

 俺の背中に女の声と、ガチッ、という音が聞こえた。

 この音――俺と、横をついてきたリュートが同時に立ち止まる。

 そう、さっきの音は、撃鉄を起こす音だ。俺の身体は今、拳銃を向けられている。

「ヤクザを利用しておいて、これだけで帰せないわね。私達との縁は、一度結ぶと簡単に切れないものよ」

「クゥン……」

 リュートは僕の足許に小さく蹲った。

「――殺しはしないんじゃないのか?」

 俺は後ろを向いたまま、両手を上げて見せた。

「あなたなら、多少強引な手を使う価値があるわ――あなたは、これからも表の舞台での仕上がり、莫大な財産を築くでしょうからね」

「……」

「これからは、私達があなたを利用させてもらうわ。この世は、持ちつ持たれつ――でしょう?」

「――もし、嫌だと言ったら?」

「あなたのお父様と同じよ。そう言えば分かるでしょう?」

「……」

 俺の身体に、激しい怒気が再び宿った――俺は上げていた両手を下ろす。

「――やってみろ――ただし、それは龍の逆鱗に触れることと同じだということを、覚悟の上でな」

 そう冷たく言い放った瞬間。

 俺の傍らで小さく蹲っていたリュートが、脱兎のごとく俺の背中方向の女に突進した。リュートはシェットランドシープドッグ。元々羊を追う役割を担った犬だ。老犬だが、機敏さでは群を抜く。

「うっ」

「ガァウッ!」

 女が銃の照準をリュートに向け直す前に、蛇行して照準を絞らせなかったリュートは女に飛び掛かっていた。勿論リュートは10キロ前後と、3歳児並みの体重しかないから、体当たりをして人間を倒せるほどの力はない。女を少しびっくりさせ、腰を引かせただけだ。

 その間に俺は女との距離を詰めながら、助走の勢いをつけたまま飛び上がって、左足の蹴りで女の右手に握られた自動拳銃を弾き飛ばすと、左手で女の頬骨をぐっと掴んだ。

「姉さん!」

 桟橋の袂にいる黒服達も、袖口から拳銃を取り出し、俺に向けたが、俺の身体の前には女の身体が立ち塞がっている。撃つことはできない。

「……」

 俺に顔を握られている女は、俺の手の指の間から、恐怖を感じている視線を俺に向けていた。震えるような吐息を、掌に感じる。

 ――もう確信しているのだ。俺は拳銃もナイフも持っていない、完全な丸腰だが、一瞬にして、自分の頭蓋骨を握り潰すだけの握力を持っている、と。

 女は感じたのだ。俺の掌から、絶対的な死を。

この体勢から自力で逃れられないことを悟り、僅かな抵抗も諦めた。

「――俺の大切な人間に少しでも近づいてみろ。いかなる手段を用いても――たとえ刺し違えてでも、お前を殺すぞ」

 俺は女に、静かな口調でそう言った。

「ふ、ふふふふふ……」

 それを訊いて、女は俺に顔を掴まれたまま、小さく笑い出した。

「降参降参。約束するわ。もうあなたを追いかけるのはやめにするわ」

「あ、姉さん!」

「あんた達も、その銃を下ろしな」

 女は声だけで、子分達にそう命令した。黒服達は慌てて拳銃を袖口にしまった。

「……」

 それを確認して、俺は女の顔から、自分の右手を外した。

「――どうやら、あなたのことを見誤っていたようね」

 女は自嘲気味にそう言った。

「あなたの目――世間じゃ『正義の味方』なんて言われているけれど――もうカタギの目じゃないわね。既に死人の目だわ。人を殺すことも、自分が死ぬことも、何も恐れていない……そこらの権力者の、富にすがりきった眼とは全然違うわ。下手な脅しは、逆に私達の命が危なくなるだけ――それもよく分かった」

「……」

 女は俺の顔を覗き込みながら、にこっと笑った。

「あなたのその目――好きよ。大切なもののために、いつでも死を隣り合わせにしているその強い目――長生きは出来そうにないけど」

「お互いにね」

 俺も自嘲した。

「もう一度言う。俺とお前達が会うことは、今夜限り、二度とない」

「――ちょっと惜しいけど、そうみたいね」

 女も力なく微笑んだ。

「――さようなら。天才さん」

「……」

 俺は挨拶もせずに、桟橋をリュートと共に渡っていく。袂にいた黒服達も、俺の視線による圧力で、どうすることも出来ずにその場で狼狽え、立ちつくして、俺に道を空けた。

 桟橋を渡りきった後、俺は一度だけ海を振り返った。

 親父を乗せた船は、もう暗闇の海に消え、見えなくなっていた。



 ――そのまま倉庫街まで歩く。車を止めた場所までは、倉庫が等間隔に立ち並ぶ十字路が、碁盤の目のようにずっと続いていた。

 俺はその一角で歩を止める。

「さっきから俺をつけている奴、出てこい」

 俺は誰もいない倉庫街で、声を上げた。

「裁判所から俺をつけてきていた奴だよ。ここに来る間もつけてきていたのは確認しているんだ。顔も覚えているぞ……」

 今度はやや怒気を孕んだ声で言った。これは俺の最後の譲歩――最後の警告だった。

 それを訊いて、諦めたのか、おどおどと倉庫の陰から、二人の人間がいぶり出されたように出てきた。

 この二人――裁判所で俺の隣の傍聴席に座り、俺をずっと観察していた。

 探偵が妹の裁判があった日を知っていたのだ。俺が来ることを見越して、マスコミが網を張っていたことは想定の範囲内だった。

「出せ」

 俺は左手を差し出した。

「え……」

 二人は怯えきった眼で、お互いの顔を窺った。

「今日一日撮りためたフィルムと音声データ、メモの類全てだ。そしてお前達の身分証明となるもの、所属している組織が明らかになっているものもだ。ついでに電話番号も控えさせてもらおう」

 俺はそう言いながら、自分の携帯で二人の顔を撮影した。

「早くしろ」

「は、はい……」

 完全に怯えきった表情で、二人はテープとフィルム、メモと、免許証と名刺を出した。俺は免許証に記載してある二人の名前と住所、会社名、電話番号を完全に暗記した。

「言っておくが、勝手な憶測で今日の出来事を記事にするような真似はするなよ。もし今日の出来事を記事にするようなことがあれば……」

「わ、分かりました。分かりましたから、許してください……」

 先日、俺の醜聞を書き立ててしまったマスコミが、俺の報復を予告するような殺気を浴びて、まだ日が浅い。どうやら俺に下手に逆らわない方がいいという釘は、こんな末端の記者にも浸透しているようで、慌てて二人はその場に土下座し、泣きそうな顔で俺に平謝りした。

「別に怯えなくていい。俺はお前達が俺の言うことを訊いてくれれば、何もする気はないんだよ」

「ぜ、絶対に記事にはしません。ち、誓います……」

「――お利口さん。じゃあ、もう行っていいぞ」

 俺は今できる一番の笑顔を作って、二人を見送った。

 記者の二人は俺に会釈をして、慌てて倉庫街を走り去っていった。

 何か恐ろしいものを見たように、一心不乱に。

「……」

 ――今俺は、そんなに恐ろしい顔をしているのだろうか……


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