Drug
グランローズマリーも、企業である以上、当然クレームは起こるし、商品の不良による返金などの民事裁判は頻繫に起こっている。ただ、他の企業と違い、労働条件関係の訴訟がほぼないのが自慢だが。
当然その中には、僕を訴える者もいる。僕は訴えられた側――被告になったことは何度もある。
だが、僕自身はそれでも裁判に出頭したことというのは一度もない。グランローズマリーにも、専属の顧問弁護士がおり、クレーム担当の部署もある。それらに全て任せているからである。
なので、僕が今日東京地裁に来たのも、別に僕が裁判沙汰の事件を起こしたわけでも、巻き込まれているわけでもない。
今日のここでの目的は、ある裁判を傍聴するためであった。
僕はサングラスをかけたまま、裁判所の中へと入っていく。
さすがに1000万人を超える東京の司法を管理するだけあって、人は多い。大学病院と違い、スーツ姿の人間がほとんどなのが特徴。
広い建物だが、まず入り口入ってすぐのところに、今日行われる裁判の予定が目録になって、各階の裁判室毎にまとめてある。僕はそれをめくりながら、コートのポケットの中から紙切れを取り出し、その内容と目録の内容を確認する。
確認したら、僕は携帯の電源を切り、裁判所の階段を登り、裁判室前の長椅子に座った。
既に裁判室の前には、10人ほどの人がいた。その半数、グループになって固まっている、僕よりも若い20歳くらいの集団は、おそらく都内の大学の法学部の学生だろう。実際に裁判を傍聴してレポートを書け、という課題でも出されたようだ。固まってお喋りをしつつ、手にはルーズリーフと筆記用具を持っている(裁判は録音は不可)。他の2名程は、どちらも私服の中年男性――おそらく傍聴マニアか、野次馬のようなものだろう。無料で人間ドラマが見られる、ということで、休日に暇潰し感覚に傍聴に行く人間も多少いる。
そして――明らかに僕の姿を見て、僕の素性に唯一気付いただろう2人……
「……」
――まあいい。想定の範囲内だ。
「間もなく裁判が改定します。傍聴希望の方は、携帯電話の電源を切り、裁判室に入場してください」
裁判所の人間がそう促す。僕は一番最後に室内に入り、後ろの席――隅の椅子に座った。僕の横には、明らかに僕の素性に気付いていた二人が座った。
裁判所内には、既に裁判官、検察官、弁護士、記録員がそれぞれの席に座っていた。検察官、弁護士は双方二名――どちらも一名は40代くらい、もう一人は僕と同学年くらいの新人で、おそらく先輩につかされているのだろう。
この裁判は刑事事件だが、裁判員はいない。裁判員制度が適用されるのは、殺人、強姦、放火などの重犯罪のみだ。つまり、今被告席に立っている人間――そいつが犯した罪は、死刑や無期懲役が言い渡されるような内容ではないこと。
あの被告席の人間――あの女が犯した罪は。
――そう、麻薬だ。
「これより、裁判を開廷します」
裁判官が槌を叩き、開廷を告げると、傍聴席にいる僕以外の人間はメモを取り出した。
「被告。あなたのお名前は」
裁判官は、被告席の女に問う。
「……」
だが、女は答えない。
「どうしました? 緊張しているのですか?」
裁判官が怪訝な表情で再度訊く。
「……」
いや、緊張なんかじゃないな。
あの小刻みな体の震え、イライラを誤魔化すように髪を触って……
――禁断症状が出ている。
「――サクライ」
ようやく女はそれだけ口にした。
「サクライ――そうですね。サクライ・マユさんですね」
裁判官は、日程の都合もある。それを訊いて、早々に待つのをやめた。
――そう、今僕の目の前で、被告席に立っている女は。
かつて僕の妹――だった女だ。
先日、トモミが探偵から預かって、僕に渡した封筒には、妹が今日、裁判にかけられる、という内容の書類が入っていたのだった。
あの女は、7年前の僕の事件から、自分もプロサッカークラブから贈賄を受け取っていたことが明るみになったことで高校を中退し、両親が逮捕されたことで、人生が破滅した。そして5年前に麻薬に手を出し、その時は初犯ということで執行猶予が付いたが、その期間内にまた麻薬に手を出して、今度は実刑判決を食らい、2年の懲役となった。
そして、つい1月ほど前に出所したらしいが、出所早々、舌の根の乾かぬうちに、また麻薬を所持してしまい、警察の職務質問の際に現行犯逮捕され、今回の3度目の裁判に至っている。
しかし――何だあの姿は。
ちらりと顔が見えるが、もう顔には深い皺が刻まれており、髪はもつれて、所々に白髪が浮かんでいる。下半身を中心にたるんだ肉がついて、7年前よりも太っている。身なりもスウェットのようなだらしのない格好で、とても反省しているような格好には見えない。
年齢的には、マツオカ・シズカよりも、1~2歳年上くらいだったはずだが、どう見ても同世代には見えない。40代と言われても疑わないだろう。
「……」
本来なら、あれに僕が「おにいちゃん」と言われる立場だったんだよな。
先日シズカにそう呼ばれた時は、妙にむずがゆいような気分になったが……
あれに「おにいちゃん」って呼ばれるか……
――ただ気持ち悪いだけだな。
僕は早々にその想像から離れた。
――まあ、当然か。もう年月にすれば20年以上、あの女と兄弟だなんて実感を持って生活したことなんてないからな。僕があの女を、もう妹と呼ぶ気がないのと同じだ。
あいつと僕は、もう兄弟なんかじゃないんだ。
――こんな裁判というのは、おそらく予定調和的に進むものなのだろう。警察の職質当時の状況。女が麻薬と注射器を所持しており、直後の尿検査で陽性反応が出たこと。その女が服役中に知り合った男と同棲しており、その男も尿検査で陽性反応が出たこと、二人が住んでいたアパートで、大麻が栽培されていたことなど、物的証拠が次々に列挙される。
麻薬の場合は結局、持っているか持っていないか、陰性か陽性か、の、極めて二元論色が強い、白か黒かの裁きになる。だからどこか検察官も機械的な手続きをしているように見える。
そして、それを訊いている弁護士も――恐らく国選弁護士だろう。こんなやる前から敗訴が確定しているような裁判に駆り出されて、顔には出さないが、さぞかし迷惑なことだろう。
「以上のことから、被告は出所からまだ間もないのに麻薬を再び使用してしまったことから、反省の意志がないのは確かです。3年6か月の懲役刑が妥当かと」
検察官の弁が締めくくられる。
「いえ、被告は十分反省をしております。同棲していた男性とも縁を切ることで、これからは大麻と縁を切る生活を送ることができるでしょう。1年2か月の懲役を主張します」
弁護側の主張。
「ふむ――では被告。これからあなたは麻薬とは完全に縁を切り、社会復帰に向けて努力することを誓えますか?」
裁判官がこの裁判で、初めて女にそう質問した。
だけど。
「――やめなぁーい……」
そんな女のしゃがれた声が、法廷に力弱く響いた。
「――は?」
裁判官と弁護士が目を丸くしたと同時に。
「オトコと別れる上に、クスリまでなくなったら、ワタシ生きてけねぇよー!」
そう言って、被告席の女は火の点いた赤ん坊のようにその場で泣き出し、体をじたばたとさせ、法廷に寝転んで駄々をこね始めた。
「さ、裁判長! ひ、被告は法廷に緊張して……」
弁護士が慌てて弁護をはじめる。
「はははは……」
その女のみっともない姿を見て、学生達が声を殺して笑い始めた。
だが……
「――っ……」
別に俺は、この女が法に裁かれるのを見物しに来たわけじゃない。
法の裁きの無力さを確認に来たのだ。
麻薬の所持、及び使用は、日本の刑法では懲役5年以下の実刑と決まっている。
逆に、最長でも5年で罪を償ったことになる。
――たった5年だ。
この女の長期懲役は、この一言で確定しただろう。
だが――こんな法の裁きなんかで、誰が救われる?
こんな奴等のために、滅茶苦茶になった俺の人生は、もう戻らない。
人を愛し、友と夢を語り、明日を夢見るはずだった時間も。
――シオリの、笑顔だって……
こんな奴を刑務所の中で、税金で生かしている間にも、シオリはどこかで救われずに泣いているかも知れないのに……
それなのに――何だこれは?
こいつは7年前と何も変わっていない。俺の名を使って金品を詐取して、私腹を肥やして笑っていた頃と、何も……
こんなゴミ、殺して臓器や目玉を全部抜き取って売り払い、その金でシオリを救ってやればいいんだ。
――ちくしょう……ちくしょう……
歯を食いしばらせるほどの激情が、やがて涙となって、俺の頬を零れ落ちた。
同時に、目の前の女をこの手で八つ裂きにしてやる衝動に駆られた。
――だが、俺はそれに、かろうじて残っている最後の理性で耐えた。
俺には、まだやるべきことがある。
シオリを、何としても救い出す。
それまでは、死ぬわけにはいかない……
「……」
俺は女が泣き叫ぶ声が響く中、独り席を立ち、法廷を出た。
東京地裁を出、僕は車に戻る。
「クゥン……」
車に残っていたリュートが、俺の涙の跡を見て、悲しそうな声を上げた気がした。犬の視力でそこまで分かるのか、俺には分からないけれど、そんな気がした。
「――リュート。次に向かうぞ」
俺はそれだけ言うと、車を発進させる。
大通りに出、今度は高速道路に乗る。
「……」
ステアリングを握り、アクセルをかなり強く踏みながら、俺はシオリの顔を思い浮かべていた。
――もし俺が、シオリを探すことを決意していなかったら、あの場で俺は法廷で妹を殺していただろうか。
そんなことを少し考えた。
ほんの、少しだけ。