Onii-chan
「……」
僕は、シズカの『おにいちゃん』という言葉の響きに、少しぼうっとなっていた。
「いつまでぼうっとしてるんだよ」
エイジがそんな普段と違う僕の様子に気付いたのか、僕を戒めた。
「そんなに『おにいちゃん』って響きが気に入ったのかよ」
「――別に、そういう意味で呆けていたんじゃないよ」
僕は慌てるでもなくそう言った。
「あの娘、色んな意味で妹系だよな。しっかり者のシオリさんとはあまり似てない。天真爛漫でよ」
ジュンイチがシズカの性格を分析した。
「いやぁ、正直あの娘、カメラマンとしては是非一度撮影を依頼したいくらいだよ。あの娘、やっぱり苦労しすぎたせいなのか、自分の魅力ってやつに全然気づいてないぜ。勿体ない」
「……」
そうだよな。シズカは本来すごい美少女になっていたはずなんだ。地味な身なりをしているが、さながら彼女はシンデレラになる器を持っているのだ。
シズカだけじゃなく母のアユミだって、50歳前後の年齢のはずだが、言われなければ30代前半でも通るような綺麗な人だ。
その二人が、今もああして……
――ふいに、社長室のドアがトントン、とノックされた。
「え?」
トモミとエイジが同時に、ホラー映画の絶叫シーンを見た時のように、体をびくりと反応させた。
「な、何で? この社長室には特定の手続きをしないとエレベーターが通らないようになっているのに……」
そう、トモミの言う通り。本来この扉は、僕達が来ると知らない来客というのは絶対に来ない。この部屋の扉がノックされること自体、既に異常。本来ならノックなんてされることのない扉がノックされたことで、二人は怯えたのだ。
「大丈夫だよ」
僕はドアの方へ歩きながら言った。
「少なくとも、幽霊なんていう類のものじゃない」
そう言って、僕は社長室のドアを自ら開けた。
ドアの外には、先程まで僕達がここに招き入れていた、四角い縁の眼鏡をかけた、神経質そうな探偵が立っていた。
「探偵さん? どうして?」
トモミが疑問を口に出した。他の皆もそのトモミの言葉に頷いた。
「それが、サクライさんにさっきこんな紙を渡されましてね」
そう言って探偵は、さっき僕が渡した紙切れを開いて、皆に見せた。
皆はそれを覗き込む。
『10分間、1階のトイレで待機。その後受付にこの紙を見せて、社長室のエレベーターを動かしてもらい、再びここへ来ること』
紙にはそう書かれ、最後に、この会社で働く人間なら誰でも知っている、僕が仕事で使う、CEO専用の認印が押してあった。この認印があれば、僕が書いたものだと受け付けも納得するというわけだ。
「どういうことだよ、ケースケ」
エイジが僕の方を見た。
「ちょっと、あの家族の耳に入れるには忍びない依頼があってな……」
そう言って、僕は応接室の入り口まで歩を進める。
僕の依頼の内容に皆も興味があるのか、今度はトモミとエイジも応接室の中に入って、探偵と向かい合った。
「単刀直入に依頼の内容を言えば、さっきの家族――マツオカ家が借金をした金融会社、並びに取り立て業者――その中でも、特にあの一家に関わった人物を一人残らず特定してもらいたいんです。恐らくヤクザが裏に絡んでいるような闇金融で、事務所もダミーの会社を多数用意していて、足がつきにくくしてあるだろうが、何としてもお願いします」
僕は向かい合って座る言った。
「金融業者を?」
マイが首を傾げた。
「どういうことだ? 金融業者が今回の件に何か関係があるのか?」
ジュンイチも首を傾げた。
「――お前達も、さっきのシズカちゃんを見ただろ……」
「ん?」
「5000万の借金――法定金利だけでも年間数百万が上乗せされる借金。そんな額の金、法定金利で借りているわけないから、金利は年間数億に上る。そんな額の借金をしているんだぞ」
「それが何なんですか?」
お嬢様育ちのトモミをはじめ、皆事態を理解できていないようだった。
「そこに、シズカちゃんみたいな、当時高校生の美少女がいて。アユミさんみたいな綺麗な女もいたら、取り立て業者はあの二人の商品価値に目をつけないわけがない――風俗や売春、アダルトビデオに出させるなんてことをさせても全然おかしくないだろう」
「……」
それを聞いて、皆の空気が凍った。
「だが、さっきまでのシズカちゃんの様子を見る限り、シズカちゃんやアユミさんが取り立て業者から、そういう強要を受けた様子は見受けられなかった。だが、どうしても不自然なんだ。そんな額の借金をして、取り立てがこんな程度で済んでいるのが」
――そう、僕が以前、親父のアパートへと行った時に見たもの。
あの赤い封筒、ドアに貼られた無数の紙、督促状の束――臓器を売ることを示唆し、多額の生命保険をかけて殺される恐怖を骨の髄まで刷り込ますような、あの人を人とも思わないような取り立て。
あれを本来マツオカ家の皆もやられているはずなのだ。
なのに――謎の振り込みがあったから、返せる目処が立ったという理由もわかるが、普通ならそれが行われる前に、シズカやアユミが無事で済むわけがない。
「――もしかして……」
ジュンイチがその答えに辿り着いたようだった。
「――ああ、マツオカ家への取り立てがあの程度で済んだ理由として、考えられることは――失踪したシオリが金融業者と何らかの取引を交わした可能性がある。業者の出した条件を飲む代わりに、家族に手荒な真似はしない――そんな条件をな」
「――シオリ……」
それを訊いて、マイは声を震わせて泣き出した。
「――僕の杞憂かも知れん。だが――可能性は決して低くはない。シオリが家族と別行動をとるために失踪した理由も、それなら辻褄が合う」
――そう、僕がシオリを探そうと思った大きな理由は。
シズカのあの曇りのない目が、歩んできた境遇を思うと、あまりに不自然だったのだ。
それがその答えへと繋がり、僕を一気に不安にさせた……
――一刻も早く、そこから助け出さないと。
彼女がどこかで幸せにしているのなら、もう彼女と会わずにいるのも、彼女を尊重することになるのでは、と思っていたが。
この状況では放っておくことなどできなかったのだ。
「皆、この可能性のことは、あの家族には誰にも言わないでくれ」
僕は周りの皆を見回した。
「どうやらあの家族は、その可能性にまだ気づいていないようだった。だから、いたずらに不安にさせることはない」
「――ああ、そうだな」
「その方がいいな」
皆も僕の言葉に頷いた。
それを確認して、僕は前にいる探偵の方を向く。
「さっき僕が言った、彼女は十中八九東京にいるというのは、可能性の方向としては間違っていないと思う。だが――確実に情報を得るとしたら、その金融業者から洗うのが一番だ、もしかしたらそいつらがいまだに金融業者と連絡を取っている可能性もある。少なくとも、彼女は離れて暮らす家族の状況を知っていた。金融業者から家族の様子を逐一うかがっていた可能性が高い。つまり、最低でも借金がなくなるまでの間の彼女と金融業者は繋がっていたと見ていいだろう。彼女の消息や住んでいる場所も、知っている可能性がある」
僕はそこまで言って、自分の拳をわなわなと握りしめた。
「だから、絶対に僕の所へそいつらを連れてきてください――僕がそいつらを尋問する。彼女に何をしたか、彼女の居場所のどこかを吐くまで、徹底的にな……」
「……」
探偵をはじめ、皆僕の垂れ流された殺気に、言葉をしばらく失った。
「――分かりました。少し手間取るかもしれませんが、ご期待に沿えるよう、全力で当たらせていただきます」
探偵はスーツのポケットからハンカチを取り出して、掻いた冷や汗をぬぐった。
「しかし――報酬はその女性を探すのよりも若干お高くなります。何せヤクザの領域に足を踏み入れねばならないことなので、危険も伴いますので……」
「構わないです。金に糸目はつけません。必ず僕の前にそいつらを連れてくると約束してくれるなら……」
再び探偵を見送ると、皆往々に、疲れきったような表情を見せた。
シオリの現状置かれた、最悪になっているかも知れない状況。
それと、あの部屋で逃げ場なく垂れ流されていた僕の殺気に、皆気圧されてしまったのだろう。
「……」
皆誰も、口を開かなかった。
「――社長」
その沈黙をおずおずとした声で払ったのは、トモミだった。
「社長――もしシオリさんにお金を貸した人達が、シオリさんに酷いことをしていたら――尋問した後、どうするんですか?」
「……」
僕はしばらく押し黙る。
「勿論ぶっ潰すさ」
「……」
「――と言いたいところだけど、シオリはそういう争いごとを好むような女じゃなかった。自分を酷い目にあわせた人にも、慈悲の心を持つ女だった。だから、シオリが望むようにしてやるさ。もしシオリが恨みをぶつけたいのであればそうしてやるし、許すのなら許す……そんな感じかな」
僕はそう答えた。
「――よかった」
トモミは微笑んだ。
「社長、さっき探偵さんにシオリさんのことを話している時の表情、ものすごかったから、完全に怒りで我を忘れているのか心配だったんです。でも――社長はやっぱり冷静なんですね」
「……」
僕は皆の顔を一瞥した。
「――すまない。辛いのは皆も同じなんだよな。なのに僕は少し自分の怒りを表に出し過ぎたかもしれない」
皆に気を遣わせたことを、ここで謝る。
「でも」
トモミが強い口調で言った言葉に、僕は振り向いた。
「今の回答、私的には70点ですよ、社長」
「え……」
「怒りで我を忘れていない……それはいいことですけど、シオリさんのことを気遣い過ぎです。そんな相手ありきで動いていると、自分の気持ちって、相手に伝わってくれませんから。それに――辛いことがあった人に過保護に接するのは、同情されていると思ってその人を余計に傷つけることもありますから。そういう人に優しくし過ぎない方がいいです」
「……」
「これからは、シオリさんが望むか望まないかよりも、社長がどうしたいか、って考えを中心に動いた方がいいと思いますよ。そういうのって何故か、相手のことを気遣うよりも、自分の気持ちに正直に動いている方が伝わるものなんですよ」
「……」
意外だった。トモミがまさかシオリのことで、そんなアドバイスを僕に言うなんて……
「トモちゃんの言うこと、分かるかも」
マイも同意した。
「ピンチの時に、いつも王子様が駆けつける――そういう展開、女は憧れるんだから。駆けつけた王子様が、自分のことを気遣う過保護過ぎなのも、しまらないわよ?」
「……」
「冷静さを失わず、それでも一生懸命に、自分の気持ちに正直に――私も、みんなも、シオリさんも――みんな社長のそんなところに惹かれてるんですから。シオリさんが可哀想な目にあっているかもしれないからこそ、社長のそういうまっすぐな思いに、シオリさんの心の氷も、溶けてくれるかもしれませんから」
「……」
そういうものかな。
でも――そうかも知れないな。
変に同情めいていたり、過保護過ぎる行為は、相手に伝わってくれない。
現に7年前、シオリを置いてユータ達とオランダに行くことを決意した時がそうだった気がする。
あの時の僕は、理屈や外聞も捨てて、サッカーを一心不乱にやることで、自分の今までの自信のなさを捨て、皆都心の仲間になれる道を模索した。その結果、その前に悩んでいた数か月間よりも、ずっと前に進めた気がする……
「トモミさん――ありがとう。その忠告、肝に銘じるよ」
僕はトモミに微笑みかけた。
「……」
それを聞いてトモミは、顔を強張らせる。
「トモミさん?」
「あー、気にしなくて大丈夫よ? トモちゃん、サクライくんにありがとうなんて言ってもらえて、ちょっと緊張しちゃっただけだから……」
「?」
「そ、そうだ!」
マイがトモミの方へと歩み寄ったが、その前にトモミはすごい勢いで自分の鞄の中を漁り始め、一通の封筒を取り出して僕の前に出した。
「こ、これ、探偵さんが社長に見せてくれ、って」
口調が若干おかしくなりながら、トモミは言った。
「あ、ああ、どうも……」
僕はそのトモミの変なテンションにどう合わせていいかわからず、生返事をして、その封筒を受け取った。
封を破って、中に入っている用紙に目を落とす。
「……」
その内容を一通り確認すると、僕は自分のデスクにがくりと寄りかかり、封筒を持つ手の力をだらりと消失させた。
「おにいちゃん、か……」
「はぁ? まだ言ってるのかよお前」
ジュンイチが僕の呟きに、ぷっと噴出した。