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Trace

 肌を刺すような冷たい水で手をすすぎ、食堂に向かう。席に着いている者は、誰もいない。カウンター奥で、一年生数人が、後片付けをしているだけだ。

 カウンター近くのテーブルに、僕の分のハンバーグ定食が置かれていた。今まで合宿があると毎日のように食べてきた、レトルト風のクズ肉の寄せ集めだ。

 この学校は、偏差値と学食の不味さだけは全国レベルだろう。この合宿次第でそれにサッカーが付くのかも知れないけれど、全然実感がない。

 きっとそれは、僕の心にサッカーの居場所がないからだ。

 僕はサッカーをやっているけど、別にサッカーはそれほど好きではない。

 ただ、勉強だけしている奴、特に僕のようなチビはとかくナメられるし、言葉も机上の空論に見なされやすい。理論だけを並べ、実行を伴わない青書生というのは駄目なものだ。小学校の時の経験で、それを学んだ。

 だからと言って、生徒会とか役員とか、人に頭を下げる仕事は大嫌いなので、適当に体力、行動力を示せる部活――運動部を選んだ。

 別にやるものは、野球でもバスケでも卓球でも、何でも良かった。有象無象の中で、サッカーを選んだのは、将来に向けて体力をつけるためと、用具に大したお金をかけなくてもいいから――

 僕がサッカーをしている理由は、それだけなのだ。

 そんな僕が全国大会に行くのだ。県内にごまんといるだろう、プロ志望のスペシャリスト達を押し退けて。こういうことを許せない人間も多いのだろう。イイジマはその典型だ。

 この合宿の前、協力者が見つからなくて、イラついたのも、何でたかがサッカーのためにこんな苦労をしなくてはいけないのか、という思いがあった。僕にとっては全国大会などどうでもいい。サッカー自体にも、ほとんど情熱を失っている。

 こんな思いでサッカーをやっているから、イイジマにも注意されてしまうのだろう。要は僕からは、何においてもやる気が感じられないのだろう。

 でも『やる気』って何だろう。やる気があるとかないとか、そんなこと、問題なんだろうか。社会に出れば、やる気があっても結果が出なければ、首を切られてしまう。違うだろうか?

 僕は結果にしか執着できるものがなかった。事実、それで結果を出してきた。『結果』が、世の中で一番シンプルな概念だからだ。これ以上ないほど具体的で、勝ち、と、負け、しか表さない。

 ずっとその二元論の中で生きてきた。子供だった僕は、それに疑いも持たなかった。

 だけど――今は勝ち続けているはずの僕は、現実ではまったく満たされない。

いくつもの抽象的概念が、一気に僕に降り積もって、一つの二元論の中で処理しきれていない。大量の情報が流れ込んで、フリーズしてしまったパソコンのように、僕の脳は停滞している。もはやパンク寸前といったくらいに。

 ジュンイチは急いで僕を追いかけて、ジーパンで手を拭きながら、僕に駆け寄ってくる。隣に座って、ハンバーグを割り箸で細かく切る僕の顔を覗き込んだ。

「お前、わかんないかよ? あの娘、お前に憧れとか、そういうの通り越して、もはや恋する瞳になってるじゃねえか」

 手振り付きで語るジュンイチとは対照的に、僕は冷静にハンバーグを一切れ口に含んだ。

「あの娘はちょっと一緒にいたくらいで、僕を好きとか勘違いするほど単純じゃないよ」

 それが僕の率直なところだった。彼女も彼女なりの悩みがあって、その疑念はすぐには解決しそうにないと感じた。僕にはそれがわかった。彼女の深淵はもっと深く、僕はまだそれに触れてもいない。

 彼女は、無理をしている。人の期待に応えたがっているのか、必要以上に自分を型にはめようとしている。そんな自分に、自分の意志を求めている。

「……」

 その姿が、ガキの頃に親の機嫌をよくするために、自分の意志を殺してでも、いい子を演じていた自分とダブっていた。僕のガキの頃の感情は、彼女のそれと同じだろうか。

 ジュンイチは僕の向いの席の椅子を引いて、腰を下ろし、僕の目を覗き込む。

「お前って、人の気持ちを知るために、誰かに一から教えてもらえないとダメなの?」

「僕は勝つとわかっている戦いしか、基本やりたくないだけ」

 味噌汁に口をつける。

「孔明も上杉謙信も、無敗の奥義はそれだって言っている」

「……」

 ジュンイチは、何か伝えたそうだったけど、上手い言葉が見つからないようで、席を立ってしまった。

 食堂には、カウンターの外には誰もいなくなり、広々とした部屋の静寂が、僕を包み込んだ。

 粘土細工のように不味いハンバーグが、鉛のように僕の心に沈殿した。

「不味……」

 彼女の微笑と、自分の甘い考えが溶け合って、心に今まで感じたことのない痛みを与えるんだ。このような気持ちを『煩悩』と呼ぶのなら、何故僕がそんな気持ちにならなくてはいけないのか。

 さっきから、彼女のことばかり頭に浮かぶ。

 過去の僕と同じ感情を抱いている、そんな気がして、僕は過去の自分の思いを正確に思い出そうとしている。

 彼女の力になりたいかとか、そういうことはよくわからない。ただ、当時の僕を再現して、彼女の今の葛藤を出来る限り自分にトレースしようとしていた。その所作が、意志に関係なく、頭に浮かんでくる。

 合点の行かない感情――思い通りに安定しない自分に、僕は少し苛立った。


 僕はハンバーグを無理矢理詰め込んで、リュートを柵に入れて、餌と水をあげ、部屋の引き戸を開けると、皆に各自用意した四脚テーブルに、全員が突っ伏していた。

「起きろ!」

 僕はユータの脇から手を入れて、机から引き剥がそうと、無理に体を起こそうとすると、明らかに寝ているには不自然な力がかかっている。ユータは机にかじりついて、離れようとしない。

「起きろ! 狸寝入りなのはわかってるんだよ」

 ジュンイチ手伝ってくれよ、と思って、ジュンイチの方を見ると、ジュンイチも皆に乗って、同じポーズを決め込んでいた。さながら保護色を纏ったカメレオンだ。ジュンイチはどんな場所にも順応出来てしまう。ちょっとそれがうらやましい。

「ジュンイチ、くだらないことはいいから起きろ!」

 僕は皆を引っ張り起こした。そしてまた勉強に向かわせた。

「……」

 だけど、漂っているのは、彼女の残した甘酸っぱい雰囲気だけだ。皆の心の中は、それに冬の冷気と、男だらけのシチュエーションも手伝って、満目蕭条としている。

 彼女は、散り行く桜の花のように、去った後に一抹の郷愁、移ろいを残す女性なんだということを、僕は初めて知った。

 僕もそうだった。彼女の色々な表情が、陽炎のように頭の中でもやもやしながら、離れなかった。頭の中のビジョンが、酷く馬鹿馬鹿しかったけど、全然気が振るい立たなくなっているのも事実だった。彼女の存在をこれだけ強く感じたのも、これが初めてだった。

「初日だし、もう終わりにしようか」

 皆が上の空で、成果も上がらなかったので、消灯の一時間前に僕が口にした。皆はその場に倒れこんだ。机を片付け、共同で布団を敷き、二年と一年で部屋を分けて、その場で就寝した。格技棟の鍵を預かる僕が戸締りチェックをし、こうして、成果の曖昧なまま、合宿初日が終わった。

 布団を敷いて、電気を消すと、すぐに暗闇と静寂が走った。皆はすぐ、泥のように眠ったが、僕は勉強を教えているだけで、まったく疲れていないし、元々、吸血鬼並に夜型人間だ。だからと言って、他の部員が外出禁止なのに、外に出てコンビニにでも、ってわけにもいかない。

 大体こんな沢山の人間と雑魚寝なんて経験は、人嫌いの僕にとってはまったく特別だ。そのうち複数のいびきが響いてきた。僕はそのいびきが、親父のそれと重なって、布団に潜り込み耳を塞いだ。

 1時間くらい目を閉じて、眠くなるのを布団の中でもぞもぞしながら待った。

「……」

 こういう時間が一番嫌いだ。暗い中、眠れず、動き出すことも出来ない。

 することとなると、『考える』ことしかない。

 だけど、僕は考え出すと、頭の中がぐるぐるしてくるんだ。経験からそのぐるぐるが起こると、長い間気持ちを支配してしまって、気持ちが酷く陰になる。

 僕は、ぐるぐるしたくないから――こういう時間を極力作らないようにしたいから、スケジュールに縛られる団体生活が嫌いだ。他人にペースを乱される――僕が対人関係を拒む理由の一つ。

「ケースケ」

 いびきの中で、僕の名を呼ぶ声がした。

 僕の右隣で横になっているユータだった。僕は目を開けたが、カーテンを閉めた部屋の暗闇の中で、表情はまったく窺えない。

「ん? お前起きてたのか――一番最初にくたばると思ったけど」

「いや、毎日日課のメール返信をやらないと落ち着かなくて――あー……」

「貴重な経験だな。さっさと寝て忘れるんだな」

「冗談じゃねえよ。ケータイ一週間使えないのが、こんなきついと思ってなかった」

 二人同時に深い溜息をついた。ユータは欲求不満、僕は眠れない気の重さからの。


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