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「私達はもう、何もいらないんです。ただ、一目でもあの娘に会って、お礼を言いたいんです。シオリちゃんは私達の誇りで、大事な娘だって言ってやりたくて」
アユミが涙を目に浮かべて言う。
「そして、あの娘には誰よりも幸せになってほしいんだ。例えば恋をして、綺麗なドレスを着て、愛する人の所へと嫁いでいくとか――その時のウエディングドレスの費用や、嫁入り道具の一つも用意してあげたいと思ってね」
ゴローもシオリの手紙に目を落としつつ、泣いているのを僕に見られたくないように、顔を隠していた。
「私もウエディングドレスを着たシオリの手を引いて、バージンロードを歩くまでは、死んでも死にきれないんだ……」
「……」
もう既にこの人達は、辛い思いから解放されたのに、
シオリへの償いの思いに縛られている。
こんな寂しい家で、肩を寄せ合って暮らして……
そして、ここにいないシオリもきっとそうだ。
手紙の向こうに感じるシオリは、いつもひとりぼっちだった。
四季折々の挨拶も、どこか文面を滑り落ちていて。
無味無臭――酷い味気なさ、虚無感。
そんなものに満ち満ちていて。
「……」
ただこの人達は、心が綺麗過ぎただけだ。
誰かのために自分を犠牲にできる、甘ちゃんだったってだけだ。
何も悪くないのに。
何故この人達がこんな目にあわなくちゃならない?
何故この人達を、世界は幸せにしてくれない?
「そんなのってねぇよ……」
「――サクライさん?」
シズカが心配そうに声をかけたが、僕はもう、ゴローやアユミよりも先に、大粒の涙を目からこぼしていた。視界が涙で滲み、その視線の先には、シオリからの手紙があった。
それを見ながら、7年前に、シオリの笑顔を守ってやれなかったことの無力感に苛まれていた。
「――よかった。ここに連れてきて」
シズカの安心したような声に、僕は涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。
「最初、サクライさんに会った時、私、お姉ちゃんの言葉が頭をよぎっていたんです。だから、最初はサクライさんに見つかった時、お姉ちゃんの願いを尊重するために、そのまま走って逃げることも考えたんです」
シズカは家族を一瞥する。
「だけど、サクライさん、私の顔を見て、元気にしていてよかった、って言ってくれて……その時のサクライさんが、本当に優しい目をしていたから……それで気が変わったんです」
そう言って、シズカは僕の前に一歩出て、僕の目を覗き込んだ。
「サクライさん、この数年ですごい勢いで、世界の頂点に上り詰めていって――フランスやイギリスで、にこりともしないで、淡々と英語やフランス語で会見していたサクライさんを、もう自分の知っているサクライさんとは全く別の人で、私達のことなんて、全部忘れてしまっているんじゃないかと思って、少し怖かったんですけど……」
「……」
僕が怖い――か。
確かに、海外で僕がもてはやされていた頃は、一刻も早く力が欲しくて、その力で自分の人生を滅茶苦茶にした人間に復讐することで頭がいっぱいだったからな……
「もしかしたら、お姉ちゃんもそんなサクライさんを見て、自分のことをもうサクライさんは忘れちゃったんじゃないかって。私達よりずっと怖かったと思うんです。だから、私達にもサクライさんを頼ったりしてほしくなかったんだと思うんです。サクライさんが、お姉ちゃんや私達のことを忘れてしまったってこと――その現実が、お姉ちゃん、きっと心が壊れちゃうんじゃないかってくらい、怖かったんだと思います」
「……」
「でも、私を見て微笑んでくれたサクライさんを見て、思ったんです。この人なら大丈夫。この人なら、お姉ちゃんを助けてくれるって」
シズカは、家族にここに僕を連れてきた理由を説明するようにそう言って、再び家族を一瞥した。
「みんなも、このままじゃいけないって思っているんでしょ? でも、私達じゃ力が足りないの。サクライさんじゃなきゃダメなの。サクライさんは、お姉ちゃんにとって、辛い時にいつでも助けに来てくれる、一番頼りになる人なんだから」
「――そうね」
「――そうだな。その通りだ」
「……」
シュンは黙り込んで目を閉じていた。
「サクライさん。サクライさんにとって――お姉ちゃんは今、どんな存在ですか?」
シズカは強い視線で僕の目を捉える。
「まだお姉ちゃんのこと――好きですか?」
「……」
――11月1日 AM0:00
「お! ケースケくんじゃないですか。お帰り」
「――お前ら、相当出来上がってるな……」
東京にとんぼ返りし、ユータの滞在しているホテルのスイートルームに上ると、既に酒が入って絶好調になっているユータ、ジュンイチ、エイジが僕を出迎えてくれた。
上等な調度品のテーブルには、一昨日ここでユータとジュンイチが僕との再会を肴に朝まで飲み明かしていた時と全く同じような光景が広がっていた。ビールやチューハイの缶や、コンビニで買ったようなつまみ類が雑然と拡げられている。
「皆さん、マイちゃんの妊娠を聞いて、朝まで飲み明かすつもりらしくて――社長のこと、ずっと待ってたんです」
トモミが僕に駆け寄り、スーツの上着を受け取りに来た。どうやら素面のマイに付き合っていたせいか、3人よりは酒が入っていないようだ。
「私はお酒を飲んでないから、運転して帰ってきたんだけど、車の中でもみんなで歌を歌ったり、大変だったわ」
マイが肩をすくめた。
「――みんな」
僕はスイートルームの入り口に立ったまま、そこにいる全員を一瞥した。
「楽しいひと時にすまん。酔っているかも知れないが、聞いて欲しいことがあるんだ」
「……」
僕のその真剣な面持ちを見て、馬鹿騒ぎしていたユータ達も、ぴたりと笑顔を止めた。
「どうしたよ、随分と真面目な話そうじゃないか」
ユータが酒に酔った頭をクールダウンさせるように、長く息を吐いた。
「僕――シオリを探すことにしたよ」
「え……」
トモミの表情が凍った。
「……」
他の皆も沈黙。
「ほぉ……」
ジュンイチがようやく面食らったように、声を上げた。
「さっき偶然、シオリの家族に会えたんだ」
「マジで?」
エイジが目を丸くした。
「あぁ……」
――それから僕は、シオリの家族から聞いたことを皆に話した。
「――そう。シオリが、そんなに……」
マイがシオリの境遇を嘆くように、声を震わせた。
「――で? それで何故お前がシオリさんを探す決心になったんだ?」
ユータが僕の目を射抜く。
「同情か?
「……」
僕は言葉を咀嚼した。
ユータの目線は、生半可な思いでシオリを探しても、きっとシオリを更に傷つけるだけだぞ、と僕に警告していたのだ。それくらいは僕にも分かった。
「――酷く抽象的になってしまうけど」
「いいよ。長い付き合いだ。お前が感情の言語化が苦手なことは承知している」
「……」
僕は唾を飲み込んだ。
「僕が倒れて、病院に運ばれてから数日――皆とも会って、自分のことや皆のこと、シオリのこと――色々考えていたんだ」
「……」
「お前達を残して日本を出てから、たった数年で一生分を生きたように、戦い抜いてきた――その挙句、倒れた僕は今ではしなびた風船みたいに弾力を失っちまった。酷く体中の力が抜けてしまって……そんな僕が、これからどう生きればいいのか、ずっと考えていた」
そう言って、僕はトモミの方を見る。
「そんな僕は今、トモミさんにすごく惹かれはじめていると思う」
「……」
皆はトモミの方を向く。トモミは顔を硬直させてしまう。
「トモミさんとなら、きっとうまくやっていけるだろう、と思った。彼女の側にずっといることが出来たら、と、本気で思った。でも――トモミさん一人を見ることは、今の僕には出来ないんだ。どうしても、シオリのことが気になってしまって――優柔不断で不誠実なことだと、自分でも思う。だけど今の僕は、シオリを選ぶとか、トモミさんを選ぶとか、そういうことは、まだ僕の中で全く答えが出ていないんだよ」
「……」
「だけど――今の僕にはっきりとわかっていることが、ひとつだけ出来たんだ」
「ほう?」
「今シオリは――何処かでひとりぼっちで泣いているかもしれないんだ。悪い夢にうなされているかも知れないんだ。あの優しくて、頑張り屋のシオリが、誰にも言えない苦痛を抱えているかも知れないんだ」
「……」
「僕はそんなの許せない。あの娘が幸せになれない世界なんて許せない――そんな世界にシオリを一人残したきり、僕はトモミさんを選んでひとりだけ幸せになるなんて――それじゃ意味がないんだよ」
僕の声が次第に激する。
「今の自分が、シオリのことを本当に分かっているかは分からない。僕がすることは、シオリにとっては余計なことなのかも知れない。でも、それでも、シオリが今も泣いているなら、僕はそんな世界を全力で認めない。全力で壊してやりたい――あの娘が幸せになれない世界なんて、ありえねぇだろ……」
僕の言葉は、感情の濁流にせき止められ、そこで止まる。
――そう。僕は馬鹿で、人の気持ちが分からない。暴走、逆走だらけの大馬鹿野郎だ。
今までは心のどこかで、シオリの今の生活を壊してしまうようなことをしていいのか、ためらっていたけれど……
「結局僕は、シオリが幸せになっているのを確認しなきゃ、何も終わらないし、僕自身も何も始まらないんだよ。だから僕は、僕の全てを賭けて、彼女を幸せにしてあげたいんだ」
僕は皆を一瞥する。
「……」
皆、僕の言葉をシズカに噛み締めた。
「――ふ、少しは7年前のお前に戻ってきたじゃないか」
ユータが立ち上がり、僕の肩に手を置いた。
「合格だ。なかなかいい覇気だった。今日サッカーしていた時とは比べ物にならん覇気を、今のお前から感じたぜ」
「確かにな」
ジュンイチもビール瓶を置いて頷いた。
「俺もお前に協力するぜ。さすがにシオリさんが今も家族に会えてないなんて、それを聞いて見捨てるようじゃ、明日飲む酒も美味くないってもんだ」
「――俺も協力させてもらうか」
「私もサクライくんを助けるよ」
エイジとマイが揃って頷いた。
「……」
僕はトモミの方を見る。
「――トモミさん。ごめん」
僕はトモミに頭を下げた。
「今の君に、僕は更に不誠実に映っているかも知れない――だけど」
「いいですよ、私に謝らなくて」
僕の言葉を、笑顔のトモミの声が止めた。
「え……」
「今の言葉、社長らしいって納得しちゃいましたから。大切な人を見捨てて自分が幸せになっても意味がない――社長がそういう人だって、私、だんだんわかってきましたから」
「……」
「私は――そんな社長を好きになったんです。だから――社長がシオリさんを助けたいって気持ちは、否定しません」
「……」
僕も人のことは言えないが――トモミは皆の前で、はっきり僕に告白した。
まあ、皆トモミの思いを気付いていたみたいで、驚いたような顔は全くしていなかったけど……
「私は、そんな社長が、好き――大好きなんです。シオリさんが社長を想っている、その気持ちに負けないくらい」
「――ありがとう」
僕はいい加減で女心なんてわからないが、そう言ってくれたトモミのためにも、改めて気合が入る思いだった。
シオリ――君はもしかしたら怒るかもしれない。本当は、君を殴ってしまった僕なんかに、会いたくないのかもしれない。
でも――君だけは。
今度こそ君だけは、幸せにしてみせるよ。