Accident
『最愛なる私の家族へ。お元気ですか?
突然家を出て、心配をかけてしまったと思います。でも、私は今、一人で元気にやっています。私はもう成人しているので、一人で自立した方が、みんなの負担にならないと考えました。勿論仕送りもわずかですが送ります。だから心配しないでください。
正直これを書きながら、他に何を書けばいいか、ちょっと迷っています。こうしてみんなに手紙を書くのは初めてですよね……
とりあえず、私はみんなに、これだけを伝えておきます。
どうか、どんな辛い状況にいても、絶対に諦めないでください。家族みんな、力を合わせて頑張って。辛くても、生きていればきっといいことがあるから。
……って、出ていった私が言っても説得力ないか……
でも、私はみんなと離れていても、みんなのことが大好きです。だから、みんなの幸せをいつも祈っています。どうかどうか、それを覚えていてください。
私も今は一人になって、厳しい環境で自分を鍛えていこうと思っています。
最近、2年前に日本を出たケースケくんのことを、よく考えるんです。
あの人も自分の気持ちを抱えるので精一杯で――だけど何とか前を向けるようになれる何かを探して、ひとりになる道を選んだ。そんな気持ちが、今になって少しわかるような気がするんです。
みんなの大好きだったケースケくんも、きっと今、世界のどこかで辛くても頑張っているのだと思います。だから、私達も頑張ってみましょう。
お父さん、お母さん。娘からのお願いです。どうか辛くても、二人は別れないで。私達の親は二人だけしかいません。二人にはいつまでも、私達の親でいてほしいんです。
シーちゃん、シュン。二人はお父さん、お母さんを支えてあげてね。まだ誰かに甘えたい気持ちは分かるけれど、これからは二人も助け合って、仲良くしてね。これはお姉ちゃんからの、最後の頼みです。
また度々、手紙を出します。それまで、お元気で』
「……」
懐かしい。これは彼女の言葉だ。優しく、包み込むような温かさを感じる。
そして、僕のことも……
何となく分かる。この家族はシオリからのこの手紙で、辛くても団結できたのだと。彼女の願いはいつだって一生懸命な思いに溢れていて、誰でも彼女の言うことを聞かなくちゃいけないような気にさせてしまうんだ。
「この手紙」
シズカが僕に別の封筒を差し出す。
「サクライさんに特に見せたいのが、この手紙です」
そう言われて、僕は手紙を受け取る。
手紙はこの中で3番目に古いもの……消印は5年前の冬になっている。
「この手紙は、サクライさんがフランスのプロサッカーチームに入団したってニュースが、日本を驚かせていた頃に来た手紙です」
シズカが説明した。確かに丁度時期が一致する。ユータ達は、彼女がユータ達の前から姿を消してから、2か月も経たないうちに僕がフランスで復活したというニュースが日本に流れたと言っていた。
便箋を開く。
彼女らしい、丁寧な挨拶の後の一文が、目を引いた。
『今日は、一つお話があります。
ケースケくんのことです。
ケースケくんがフランスのプロサッカーチームに入団したというニュースは、みんなも知っていると思います。
きっと、ケースケくんは今でも自分の家族に復讐をしようと考えていると思います。だから必ず、ここから大成功を収めて日本に帰ってくると思います。そして、きっと龍のように、誰よりも上に昇っていくと思います。
でも、もしケースケくんが日本に帰ってきても、ケースケくんに助けを求めたりしないでください。
きっとケースケくんは、今私達が助けを求めれば、すぐに飛んできて、全力で私達を助けてくれるでしょう。そして、5000万円の借金なんて、あの人が本気を出せば、2年――いや、1年で返してしまうでしょう。そんなことは分かっているんです。
でも、あの人は今、命を賭けての戦いに挑んでいるのだと思います。日本を出て、2年間、誰も自分のことを知らない世界で、自分の傷つけた人への罪の意識を抱えながら、その罪を清算しようと、あの人の、今の精いっぱいの思いを生き方に込めて、必死で戦っているんです。
そんなあの人に、今私達が助けを求めたら、あの人は今掴みかけている成功も、栄光も、全部捨ててしまう――そうしてしまうに違いないんです。
私は――あの人が今行く道を見届けたいんです。
みんなが辛いのも分かっています。ワラにもすがりたい思いで、今頑張っていることも。みんなを救うには、ケースケくんに助けを求めるのが一番だということも、分かっています。
でも――どうか、お願いします。ケースケくんに助けを求めることは、しないでください。
これは私の、最初で最後のわがままです。そして、ただ一つのお願いです。
だから、どうか、お願いします。ケースケくんには絶対に、会いに行ったり、連絡を取ったりしないでください』
「……」
彼女は、4年前の時点で、全てわかっていた。僕が将来巨大な力、金、権力を手にすることも、言ってくれれば、この貧困にあえぐ家族を、何を捨てても救ってくれると。
既に僕と別れて2年の時を経ていても、彼女は僕を絶対的に信頼している。それだけは分かる。
そして、この時僕はわかったんだ。
出会った時からの、シズカの迷いを帯びた表情や、両親のどこか引っ掛かる物言い、そして、シュンがさっき言い掛けた言葉……
「もしかして、皆さんは……この時のシオリさんの言葉を守って……」
言い掛けて、全員こくりと頷く。
「既にこの時、匿名の振込みのおかげで、取り立て業者も私達を信用して、無茶な取り立てはしなくなっていましたから」
まずアユミが口火を切る。
「でも、その匿名の振込みは、お姉ちゃんがしているに決まっているんです。だから、お姉ちゃんが私達のために頑張っているの、わかっちゃって。でも、私達は何も出来なくて……」
シズカがそれに続く。
「……」
匿名の振込みとやらが、彼女がしているというのは、僕も同感だ。正確に言えば、彼女、または彼女の後ろ盾になった人物だが。それ以外に説明がつかない。彼女以外にこんなことをするメリットは何もない。
「だから、俺達はせめてシオリ姉の意思を尊重することにしたというわけです。勿論サクライさんの成功は、俺達も喜んでいました。だけど、シオリ姉にもう負担はかけられなくて……シオリ姉が嫌がるならと思って、あなたに便りも出さなかったというわけです」
シュンが僕の顔を覗き込んだ。
「……」
そうか。今日僕がシズカを見つけたことは、僕以上にこの家族にとっては想定外。人間の視覚なら見落としもするからいくらでも隠れられるが、犬の嗅覚となるとそうはいかない。
僕だって、まさかリュートがシズカの匂いをまだ覚えているなんて思っていなかった。今日僕がユータ達とサッカーをすることが、シオリを探すこの家族をあの場所に呼び寄せた。色々な偶然が重なっての事故が起きてしまった。
僕と出会って、シズカは姉に造反することを決めた。だが、彼女の意思を貫くと決めていたシュンは戸惑い、シズカに問い詰めた……
さっきからの疑問が、一本の線につながる。
「すみません、大変失礼ですが、この家の口座の通帳履歴を見せてもらえませんか?」
僕は目の前の父に言う。
普通ならとんでもない頼みだが、父はこの話を信じてもらうのに必要なことと判断したからか、隣の部屋に行き、3つの通帳を持ってきた。
失礼しますと断って、僕は通帳を開ける。
口座履歴では、5年前の秋――700万ほど積み立ててあった貯金が、一気にごっそり引き出されている。借金が出来たためだ。
それから先は、おそらく家族4人の口座を統一したためか、10万、20万程の金が細かく入っては、どんどん引き出されている。あまりに金の出入りが激しくて、通帳一冊では済まなくなってしまったようだ。
そして、この口座のお金が一気に引き出された2ヶ月後、確かにこの口座に、振込先不明の200万の入金がある。
そしてその下にも、他の振込みは、会社やバイト先の名前があるのに、それがない振込みで、7万円が振込まれていた。
「……」
これもシオリだろう。振込んだ日付は変えてあるが、こっちの小さい額が私で、巨額の振込みと私は関係ない、存在も知らないというカモフラージュ。
だが、こんなことしてもバレバレだ。あの娘は僕の知っているままであれば、誰かを欺くことに絶望的に向いていない。彼女らしい嘘のつき方だ。
テーブルに置かれた通帳の中に、一つだけ真新しく、銀行のブランドも違う通帳の存在に僕は気付き、僕はそちらを手に取る。
名義は『マツオカ・シオリ』になっていて、通帳の一行目には、500万の入金が記されていた。
「これは?」
僕は聞く。
すると、少し離れた場所にいたシュンが体を乗り出して、まだテーブルに置かれている封筒の山から、一つを見つけだし、それを差し出した。3年前の消印になっている。
僕はそれを受け取り、便箋を取り出した。
『今日はこの手紙の他に、通帳とカードが入っていたと思います。ちゃんと届いていますか?
このお金は私が働いて、何とか貯めました。これを私の大切な妹弟のために送ります。
シーちゃん、シュン。このお金で二人は大学に行ってください。
二人とも高校を卒業していませんが、大検を受けて、大学に行ってください。
二人分の4年分の費用には、ちょっと足りませんが……うちの経済状況なら、返済なしの奨学金がきっと借りられるから、それと合わせれば、何とかなると思います
二人にはずっと、色んなことに我慢することを強要してしまいました。満足に友達とも遊べなくて、きっと周りを羨ましく思ったことは、何度もあったでしょう。
だからせめて二人とも大学に行って、諦めた学生生活を、もう一度やり直してください。
これから二人が、よく笑い、よく涙ぐみ、もしかしたら恋をして、生き生きと生きていけますように――』
この手紙の便箋だけは、他のものに比べてくしゃくしゃで、所々にインクが染みになって滲んでいた。恐らく二人とも、姉のこの思いを何度も読み返し、涙したのだろう。
「だから君達二人は、大学に……」
僕は二人の方を見る。
「はい。私は高校二年の途中まで高校にいたので、高卒認定は割とすぐ取れて……今は大学二年です」
「俺は今年高卒資格を取って……今はセンター試験まであと2月半……最後の追い込みです。今年受かれば、同級生は同い年ですから」
「……」
二人は姉の心意気を踏み躙れないと、大学へ行った。ここでも彼女の意志を汲んだんだ。
僕は手に持つ彼女名義の通帳を、心の中で手を合わせながら置くと、もう一度家族名義の通帳を見た。
匿名の振込みは、はじめの方こそ額にバラつきがあったが、後半には月毎の振込みが300万を切ることはなくなっていた。多い時には1000万を越える額が月に振込まれていた。それも一度や二度ではない。
しかし2年前を境に、匿名の振込みの額は、月100万を割る月が多くなった。それでも去年の秋口になると、振込まれては引き出され、空になる口座からは、引き出し履歴が目に見えて少なくなっていた。借金を完済したのだ。
「借金が終わると、私達は急に、長年住んだこの街に帰りたくなってね……去年ここに引っ越したというわけだ」
ゴローが言った。
「その際、大家さんに我々の今の家の連絡先を渡しておいたんだ。シオリがいつか大家さんに、我々の消息を聞きに来ると期待して……手紙が一方的に来る状況より、少しでも手掛かりが欲しかったんだ」
「……」
「だが、越してからシオリが昔の大家を訪ねるという連絡はない……間違えて昔の住所に、シオリの手紙を来ることもないそうだ」
「……」
引っ越せば当然、今シオリと家族をつなぐ唯一の手掛かりを捨てることになる。
だが、この手紙では、探すにはあまりに情報が少な過ぎる。より大きな手掛かりを知るために、引っ越しは一か八かの方法だが、シオリをおびき出す方法としては、決して悪くない手だ。大家を訪ねにここの住所をシオリが突き止めれば、シオリは前からずっと近くで、この家族を見守っていた証拠にもなる。
それが、大家も訪ねず、今もそこに家族が住んでいると思って手紙が来るわけでもない……
「……」
一つの仮説が浮かぶ。
シオリは――家族を捨てた?
だが、最新の履歴を見て、僕はまた首を傾げた。
匿名の振込みは少額ではあるが、現在も続いていて、4人が働いた分の金も合わせ、この家には今、500万以上の預金額が記載されていたからだ。
「何故この預金で、もっと豊かな生活をしないんです?」
それを見て、僕は正直な感想を述べた。
「この貯金があれば、もっといいところに住んで、美味しいものだって、今よりもっと食べられるのに……」
そんな僕の疑問に、目の前の4人は、曇りのない目で僕を見据え、声を揃えて言った。
「何の足しにもならんだろうが、この5年、ひとりで苦労してきたシオリに何かしてやるためにね……」