Shabby
――10月31日 PM21:30
もう街は、祭りの歩行者天国も解除されていたので、僕とシズカは駅前に出てタクシーを拾った。残念だが、タクシーで移動する以上、キャリーに入らないリュートは、車に置いてくるしかなかった。
車の中で、僕は今のシズカの姿を横目で窺った。
姉に勝るとも劣らない、綺麗で整った顔立ちだ。本当なら、いい男に愛されて、女としての幸せを手にすべき女の子だ。
シズカは、もうマツオカ家に借金はないと言った。
それなのに、シズカの顔には化粧っ気もお洒落っ気もない。もう自由であるはずなのに、まるで自分を未だに縛っているような不自由さを感じる。
何が今、この娘を縛り付けているのだろう。
そんな疑問を、頭の中で整理していた。
きっと家に行けば、それにも何らかの答えが出るだろう。
そして、今行く家に、彼女がおそらくいないだろうことも、もう何となくわかっていた。
タクシーから降りると、そこには築50年は経っていそうな、2階建ての古びたアパートがあった。ボロボロのドアが各階に3つずつあり、洗濯機を共同で使っているのか、雨ざらしになった洗濯機が一台、二階へ上がる階段の横に置かれている。
「……」
川越は市街地に行けば、都心とほぼ変わらない家賃を取られるが、郊外に出れば、3万円でワンルームの部屋が借りられる。
だが、この家は……
この家と似た家を、僕は最近見た記憶がある。
あれは――そうだ。ブタ箱にまで入れられて、借金まみれで肝臓を売る直前まで行っていた、あの親父の住んでいたアパートだ。
リアルに身体が震えそうだった。あの親父と同等の苦しみを、シズカ達も味わったのか――そんな気がして。
そして、一度だけ行った彼女達の家は、もうないのだという事実を、目の前のボロ家が、僕に思い知らせたからだ。あれだけ幸せそうで、仲睦まじかった家族が、家を奪われるなんて……神様がいるならば、なんて無情な仕打ちをするのだろう。
シズカに付いていき、二階に上り、左のドアの前へ。
シズカはノブを手に取り、ドアを開けると、僕に、どうぞ、と促した。
小さな部屋は、大人4人で、随分息苦しい。玄関は2人が並んで立てるほどのスペースしかない。玄関の横は、3畳程の広さの台所だ。親父の家と違い、古いけれど流しの周りは綺麗に整頓されている。
木製の外枠に、模様をあしらったガラスがはめ込まれた引き戸を開けると、6畳間に四脚の丸いちゃぶ台と、小さなテレビが置かれている。テレビは小さな棚の上に置かれ、部屋の奥の窓には、日の光を通しそうな程薄いカーテンが閉められてして、二本の蛍光灯の明かりは変にくすんで見えた。ここがリビングのようだ。
奥には襖に仕切られているが、どうやら家の外観から計算すると、隣にも部屋があると思われる。恐らく寝室だろう。家族四人で雑魚寝しているというのか。
「汚くて狭いですけど、座ってください。お茶を淹れますから」
シズカは僕を座布団へと促した。僕はそこに座る。
「まだ、誰も帰っていないみたいだね」
僕は流し台の前で薬缶をかけるシズカに、背中越しに言った。
「……」
シズカはしばし沈黙する。
「――本当は、今日サッカーのイベントに行ったのって、サクライさんを見に行くだけが目的じゃなかったんですよ」
「え?」
「お姉ちゃんが来ているかもしれない、と思って、行ったんです。サクライさんを7年振りに生で見られるチャンスだし、7年ぶりにヒラヤマさん達と集まってサッカーをするなんて。お姉ちゃんなら絶対に生で見たいと思うはずですから」
「……」
「でも、結果は空振りで――でも、来場者があれだけ多かったし、見落としているかもしれない可能性があると思って。久し振りに地元の祭りを見物しているかも知れないと思って、家族銃で祭りを歩いて、お姉ちゃんを探していたんです。私と俊は祭りの会場を歩いて、お父さんとお母さんは、お姉ちゃんが来るかもしれない駅の前でずっと……」
「……」
成程。きっとサッカースタジアムの中でも、彼女達は席にほとんど座らず、会場中を歩き回ったのだろう。
「それで、そこに僕が出くわした、か……」
「連絡を入れましたから、きっとみんなもうすぐ帰ってきますよ」
すぐにお茶が入って、僕の前に使い古された湯呑が置かれた。
一口飲んだが、酷く薄い。コーヒーばかりで、日本茶を飲むのは久し振りだったが、そんな僕でもろくな茶ではないことはすぐわかった。
「……」
お茶の味に、何となくの惨めさを感じると、玄関が開き、シズカの父のゴローと、母のアユミが揃って帰宅してきた。
「おぉ――サクライくん」
感極まったように、ゴローは僕に微笑みかけた。
「ご無沙汰しています」
僕は立ち上がり、二人に深く頭を下げた。
「すみません。いきなりこんな時間に押し掛けて、土産の一つも持たずに……」
「そんな。私が来てくれと誘ったんですから。そんなこと気にしないでください」
シズカがかぶりを振った。
「……」
僕はこの場にいる3人の顔を見回す。
借金を負い、住んでいた家も失い、絶望の底で、もっと澱んだ空気を垂れ流していても無理もないのに、なんて澄んだ目をしているのだろう。
7年前に感じたのと同じ感覚だ。この人達からは、僕が旅をしてきた頃から、今の財界で出会った人間に感じてきた瘴気を全く感じない。
こういう人達だから、悪い人間に騙されてしまったのだろうということも、納得してしまう。悲しいが、こんな人達を食い物にしている屑は、今の世にはごまんといる。
街外れに忘れられたように建つアパートは、外からの音が何も聞こえず、とても静かだ。まるでこの一家は、この静寂の中の孤独に溶け込んだように、哀しげな表情を見せる。
「……」「……」
沈黙。
お互いがお互いの不幸に対して、何かねぎらいの言葉をかけてやりたいが、それがほとんど何の意味も為さないことを、お互いがわかっているからだ。
「立派になったなぁ」
正面にいるゴローが、言葉を切り出す。
「どうも……」
僕は会釈を返す。
「……」
だが、また沈黙してしまう。お互いがお互いを気遣うあまり、本当に話したいことに触れられないんだ。
「――失礼ですが、あまりにお寒い環境だ。僕のところに来ていただければ、何か手助けが出来たかもしれないのに……」
膠着を破るために僕が切り出す。他人の過去に踏みいるのは無礼なことだが、僕達はお互いそれを乗り越えないと、話が前に進まない。そう判断する。
「お二人は、現在、どんな仕事を?」
ずけずけと無礼を承知で訊く。
「あ……私は今は警備員をやっている。昔はSEだったんだが、今は警備会社に雇われている」
「私は今はパートです。スーパーで魚を切ったり、夜にはレストランでウエイトレスをやる日もあります」
二人とも、恥じる様子もなく答えた。
「……」
それではとても家族5人で暮らしながら、借金を返すなんて無理な状況だ。恐らくシズカや、ここにいないシュンのバイト代も、生活費に充てたのだろう。
グランローズマリーは、事業で職業斡旋もしている。僕の所にもっと早く来てくれたら、もっといい仕事を紹介したのに……
そもそも、借金を返したのなら、どうやってそれを返したんだ?
「しかし、よくシズカのことがわかりましたね」
アユミがかすかに笑う。
「サクライさんが今日この街に帰っているのは知っていましたが、7年も経っているのに……」
「リュートのおかげです。7年前、僕がこいつの世話を皆さんに頼んだことが、何度かありましたから。恐らくその時の皆さんの匂いを覚えていたのでしょう」
本当に出来た犬だ。僕がユータ達の話を聞いて、帰ってきた昨日の朝からずっと、僕がこの家族の安否を心配していたことに、こいつはずっと気付いていたのだろう。
「そうか……こんな形で君に再会してしまったのも、また運命なのかもしれないな」
ゴローがそう言った。
「……」
まただ。また何か引っ掛かる言い方。まるで出会ったことがまずいことのような言い方だ。
その時、静かだった家に、カンカンカンと、金属音が響く。外の金属製の階段を駆け上がる音だ。
バン、と、玄関の扉が勢い良く開いた音がして、ほとんどタイムラグなく、僕の後ろにある引き戸が開いた。
振り向くと、息を切らして、僕を見下ろす、女性的な雰囲気を醸し出す美少年が立っていた。マツオカ家の人間特有の、柔和な雰囲気と澄んだ瞳を持った少年だ。
「サクライさん……」
息を切らしながら、僕の名前を呼ぶ。
「――久し振りだね。シュンくん」
僕は軽く会釈する。
「……」
荒い息のまま、しばらくシュンは僕を見ていたが、やがてその目は姉のシズカの方へ向く。
「シズカ姉、どうしてサクライさんを連れてきたんだよ? シオリ姉は……」
「シュン」
息まくシュンの言葉を、主人である父の言葉が制した。
「――取りあえず、シュンも座ったら?」
落ち着くようになだめる母の言葉に、シュンはシズカの隣に胡坐を掻いて座った。
「……」
シュンのさっきの言葉は何だ? まるで自分達は、僕と会ってはいけないとでもいうような剣幕だ。
「すまん。君を責めているわけじゃないんだ。こうして君とこんな形でまた会えたのも、きっと何かの縁なのだろうからな」
代表してゴローが頭を下げる。
「いえ……」
僕は顔を上げる。
「シュンくん、今さっき君は、シオリさんの名前を出したけど……」
僕はシュンの方を向く。
「君達のお姉さんは――シオリさんは今、どこにいるんだ?」
ようやく一番聞きたかった問題に到達する。
「それに、さっきから皆さんの様子がおかしい――僕はここに来ちゃ、まずかったのかな」
「……」
しかし、それを聞くと、目の前にいる家族4人、全員俯いて、沈黙してしまう。
何だ? この反応は。一体彼女の身に何が?
「――やっぱりこのまま黙ってちゃダメだよ」
そう口を開いたのは、シズカだった。
「いくらお姉ちゃんが言っても、このままじゃお姉ちゃんが一人だけ……お姉ちゃんを救うのは、やっぱりサクライさんじゃなきゃダメなんだよ! だから私は、サクライさんをここに連れてきたの」
「……」「……」「……」
「もう、サクライさんに話すしかないよ!」
真剣な口調で、他の3人に訴えるシズカ。その剣幕に、他の3人は唇を噛んで、胸の内の迷いに苦しむ素振りを見せた。
「――そうね」
「それしかないな」
両親はしばらくして、そう頷く。
「シュン、あんたもそれでいいでしょ??」
シズカは首を隣のシュンへ向ける。
「……あぁ」
シュンも迷いながらも、最後はそう頷いた。
シズカはそれを見て、家族に自分の意見をわかってもらえたと、ホッとした表情を見せて、また僕の方を振り返った。
「サクライさん。まず単刀直入に言いますが、お姉ちゃんは今、この家にはいません」
シズカが代表して、そう言った。
「……」
予想は出来ていたけれど、改めてそれを聞かされると、この先の話を聞く前に、胸騒ぎを感じずにはいられなかった。
「サクライさんが日本を出てから、私達家族に何があったか、全てお話します」