Cafe
彼女と会ったのは、7年前の一度きり。それでも、すぐにはっきりと分かった。
7年前よりもずっと大人びて、顔立ちも変わっていたけれど。その目は全然変わっていない。
だが、こんな所で彼女と再会するとは――全く想定していなかったから、さすがに僕も動揺した。
だが、それは相手も同じ――まさかいきなり僕が現れるなんて思うわけがない。目には興奮と驚嘆が色濃く出ていた。
「ワン!」
だが、立ちつくす僕達の間の張りつめた空気を、リュートの一声が払い、僕達は強張った糸が少し緩んだ。
「リュート――まだ君の匂い、覚えていたんだな」
「あ、あぁ――そうみたいですね……」
リュートは7年前、彼女の家に何度か預けている。僕の家族にはまるで懐かない犬なのに、彼女達にはよく懐いていた。
「――元気だったんだね。よかった……」
僕は彼女に微笑みかけた。社交辞令ではなく、本当にほっとした。
あの家がなくなっていたのを見て、あの娘だけでなく、他の家族達も息災なのかはずっと気にかかっていた。
そんな僕の顔を見て、さっきまで彼女は顔を強張らせていたのに、顔を僅かに緩ませると、安心したように泣き出した。
「――サクライさぁぁん……」
彼女は僕の胸の中に飛び込んで、泣き顔を、甚平を着た僕の胸に押し当てた。
「久し振り――シズカちゃん」
「――あぁ。すまない。少し別行動をとるが、僕はひとりで東京に帰るよ――あぁ。分かっている。ユータの泊まっているホテルのスイートルームだろ。またいつでも連絡してくれ」
僕は携帯をしまう。
ラウンジに戻ると、僕達のテーブルには、コーヒーが二つと、ケーキが一つ置かれていた。
「悪いね。ちょっと連絡を入れてきたから」
僕とマツオカ・シズカは今、川越のシティホテルのカフェラウンジにいた。生憎今日は祭り――落ち着いて話そうにも、外の飲食店や喫茶店はどこも祭りの後の若者達でいっぱいだろうし、喫茶店はもう時間的に閉まっている。いきなりの再会でホテルに誘うのも気が引けたが、こんな日に静かで空いている場所なんて、ここくらいのものだ。シズカもどうやらその点は納得しているらしい。
「ヒラヤマさん達ですよね。いいんですか? ニュースで見ましたけど、一昨日7年ぶりに再会したって。つもる話もいっぱいあるんじゃ……」
「一通りはもうしたし、大丈夫だよ」
僕は手で目の前のケーキをシズカに勧めた。
「もしかして、夜店でもうおなか一杯にしちゃってたかな」
「い、いえ、そうじゃないんです。ケーキなんて、随分久しぶりに食べるから……何か、大事にとっとこうと思って」
「……」
そう、彼女――シズカと初めて会った時、彼女はまだ中学生だった。その頃の彼女は、けばけばしいわけではないが、薄く化粧を施し、恋の話が好きな、ちょっとおませで天真爛漫な女の子だった。
それが今はどうだ。僕の4つ年下のはずだから、今はもう21か22のはずだが、そんな年頃の娘にしては、まるで化粧っ気がない。というか、完全にすっぴんだ。おしゃれをしたい年頃の娘が、服も随分と着古したものを着ている。
そして――彼女の笑顔が、どことなく影を帯びていることに、僕はずっと気づいていて。
それを見ると、自分の過去の無力さに腹が立って仕方がなかった。
僕は彼女達に、何もしてやれなかったのだ。
「さっきはごめんなさい。私――子供みたいに泣いちゃって」
自分の無力さを噛みしめている時に、シズカが僕に頭を下げた。
「サクライさんが私のこと覚えていてくれて――笑ってくれたら安心しちゃって。子供みたいですけど」
「覚えてるさ。忘れるわけがない」
それだけ彼女が、今まで心休まらない日々を過ごしてきたということか。僕は軽くかぶりを振った。
「それより、君がその腕に巻いているバンド――昼のサッカーも見に来てくれていたんだね」
「はい。サクライさんが7年振りに日本で表舞台に出る日ですから。すごくカッコよかったです」
「そうかな……」
僕はコーヒーに口をつけた。
「シズカちゃんひとりで見に来たの?」
「いえ、家族と……」
「家族? 君だけじゃなく、他の家族もこの街に戻ってきたっていうのか?」
僕はその知らせを聞いて、少し声をまくし立てた。
「――その言い方。どうやらサクライさんも、うちがどうなったのか、ご存じだったんですね」
聡明なシズカはそれだけで察したようだ。
「……」
二の句に詰まる。
「すまない。ユータやジュンイチから、事情はある程度聞いている。君達の家が――あった、ところにも行ったんだけど……」
過去形を使うのを一瞬ためらう。
「そうですか。あのお二人も、よくお姉ちゃんのお見舞いに来てくれていましたから」
「……」
沈黙。
「でも、何だか嬉しいな」
シズカは僕に、本当に嬉しそうに微笑みかける。
「この4、5年、サクライさんが世界を相手に、すごい早さで駆け上がっていたのは、私達も知っていました。何だか遠い人のように感じてしまっていたサクライさんが、私達のことを覚えていてくれたなんて……」
「……」
「お姉ちゃんが知ったら、きっと喜ぶだろうなぁ……」
シズカは自分が頼んだカプチーノのカップを静かに置く。
「……」
引っ掛かる言い方だ。まるで聞かせることが出来ない、シオリが側にいないかのように――
「サクライさんの仰る通りです。私達家族は今、この街に住んでるんです」
「……」
「――と言っても、戻ってきたのはつい最近ですが」
ということは、つい最近までは、違う場所に住んでいたというわけだ。
「シズカちゃんは確かあの時中3だったから――今は21か22か。今は何をしてるの?」
「あ、今は大学に通ってます」
「大学?」
その選択肢は、可能性の一つではあったが、非常に可能性が低いものだと判断していたから、油断していた。
「失礼だけど、君のお父さんは、かなりの借金をしていたと聞いていたから……よく債権者が、大学に行くことを許してくれたね」
「あ……借金はもう、返済を終えたんです。去年に……」
「え?」
もう、返し終わっている?
「ちょ、ちょっと待ってくれ……」
普通に考えて、家を売る程の債務を抱えたのなら、債務の額も推して量れる。そんな簡単に返せる額なら、あの律儀なシオリが誰にも何も言わずに姿を消すなんて、考えにくい。折角東大に入ったのなら、退学するはずがないんだ。
「返し終わっている?」
僕は怪訝な顔をシズカに向ける。
予想の斜め上だ。今まで心配していたのは、取り越し苦労?
「……」
「あ、いや、ごめん。こんな驚くことでもないよな」
一度仕切り直そうと思って、僕は椅子に腰掛け直した。
「……」
沈黙。
「サクライさんも、大変でしたね」
シズカの声に顔を上げる。
「ご家族のことは、雑誌なんかで知った程度ですが、当時うちの両親は、サクライさんの家族に本気で怒ってましたから。なのに海外で大成功して……私達家族も、陰ながら喜んでいました」
「……」
シズカの笑顔が、胸に痛かった。自分達が本当に辛い思いをしていたのに、本気で僕の成功を喜んでくれる目だったからだ。
「――恨まれているのかと思っていたよ」
「え?」
「僕は、君のお姉さんを傷つけたから……僕が消えて、しばらく彼女は外にも出られなくなったと聞いているから」
「そんな……恨むなんて……」
「……」
馬鹿野郎。僕が彼女に気を遣わせてどうするんだ。7年振りに会って、人付き合いの下手な僕は、上手く話を軌道に乗せられない。
でも、僕だってこうしてシズカと会えて――今はとても安堵している。
無事でよかった。本当に――彼女の無事はまだ分からないが、この幸せそうな家族に間違いが起こらなくて、本当によかった。
「僕も嬉しいよ。君の――君達のことはいつも気掛かりで……今日君にこうして会えて、君がこうして元気でいてくれて……嬉しいよ。とても――」
何か言おうとすると、失敗しそうだから、今の僕が一番伝えたい言葉を述べた。
だけど、シズカはそれを聞いて、苦笑いを浮かべた。
「どうしたの?」
「あ、いや……サクライさんの目、真っすぐ過ぎて、見てるとなんか、照れちゃって……」
「……」
僕は頭を掻く。そう言われると僕も照れてくる。
そうだよな……あんまりクソ真面目に反応したら、相手だって照れ臭いよな。僕は女性の扱いが下手だから、つい女性に対して大袈裟な反応をとってしまうんだ。それがいつだって女性を困らせてしまうんだ。
「でも、お姉ちゃん、サクライさんのそういうところが好きだったんだろうなぁ……サクライさんのそういう、不器用だけど一生懸命なところが」
「……」
さっきからシズカの言い方は変だ。実の姉のことを話すのに、過去形なんだ。現在のことを話したがらない。
「彼女は――シオリさんは元気にしてる?」
僕は意を決して聞いてみる。
「……」
だが、それを聞くと、シズカは表情を曇らせた。
答えることをためらっている。僕の聞き方が悪かったのか、それはわからないけれど……
シズカの目には、明らかに迷いの光が浮かびはじめていた。僕に何か伝えることをためらっているのだろうか。
だが、数秒かけて迷った結果、シズカは意を決したような、開いてはいけない箱を開けるような、ためらいを含ませながらも、それを振り払おうとするような表情を見せた。
「やっぱり――彼女は君達と一緒にいないんだね」
僕は自分の推測をぶつけてみる。
「……」
シズカはもう、隠しきれないと思ったのだろう。一度大きく溜め息をついた。
「サクライさん、少しだけ時間ありますか?」
シズカはカプチーノを少しカップに残していたが、僕の払いで残すのは失礼と思ったのか、残りを一気に飲み干すと、席から立ち上がった。
「もしよろしければ、私達の家に来てください。そこで見せたいものもあるんです」