Pride
そこは、小学校の学区は違えど、僕の家から5分という、目と鼻の先の場所だった。
家の前に、路地のように続く、砂利の敷かれた細長い駐車場は、彼女の家の所有だろう。その奥に、可愛らしい2階建ての家が建っている。スウェーデンあたりにありそうなログハウスだ。暗くてよく見えなかったけど、二階にテラスがあって、チェスのポーンの頭を横水平に切ったような、白いテーブルみたいなものが見えた。1階の窓から明かりがこうこうと漏れている。そろそろ晩御飯も済んで、後片付けをしている時分だろう。
「こんな近かったんだ。て言うか、僕、この家、小さな頃からよく見ていたし」
「サクライくんの家は、地元じゃ有名な名家だもんね。うちは貧乏だから、全然ちっちゃいけど――」
「……」
僕は肩に背負った彼女の荷物を、そのまま手渡した。シオリはスタジャンを脱いで、後ろ向いて、と言われたけれど、それは辞退した。彼女の手からスタジャンを受け取って、自分の手でそれを羽織った。
僕はリュートの頭を撫でると、踵を返して、じゃあ、とだけ言って、立ち去ろうとした。彼女にこれ以上、してやることが思い浮かばなかったから、僕はそこから退散しようとしたのだ。
「サクライくん」
シオリが僕を呼び止めた。振り向くと、彼女の目は、力強く僕の視線を見つめて、離さなかった。僕は彼女の目力に、体が止まった。
「今日、私が言ったことは、頼まれて言った嘘じゃないから。あなたのこと、知りたい、やりとりしたい思って参加したのも本当」
「……」
「サクライくん……あなたに私が言うこと、私が出来ることは、ほんのわずかの助けにもならないかもしれない。でも、私に合宿の先生を頼んだエンドウくん達は、こう言ってたわ。あなたのこと、大事な友達だから、そう思ってるから、俺達が本当は救ってやりたい。でも、俺達はあいつが何に苦しんでいるのかわからないんだ、って」
「……」
「あなたが二人を友達と思っていなくても、あなたに何もできずにもどかしい思いをしている人がいるの。それに気付いてあげて。力にならなくても、その思いだけは、考えてあげて」
「……」
その時僕は、その言葉の意味を深く考えずにいた。ユータ達がイイジマを通じて、何の悪巧みをしていたのか、彼女の言葉より、その事の方が気になっていたからだ。
「おやすみ」
僕はシオリにじゃれようとするリュートを呼んで、元来た道を引き返して行った。シオリは、まだ何か言いたそうな顔をしたまま、そこに立ち尽くしていた。
「――あ」
そこで足を止めた。リュートも一緒に止まり、同時に踵を返した。
「さっき、君が僕と話して、色々引き出したいとか、そんなことを言ってたけど……」
言いかけて、後頭部を掻きつつ、息を吸った。
「それくらいでいいなら、いつでも付き合うよ。その、君と久し振りに話して、面白いと思うことも、あったし」
「……」
沈黙。
「また明日」
そう言って、踵を返しつつ手を上げてみた。もう振り返らなかった。
「くそっ――地元じゃ有名な名家か」
帰り道で、僕はリュートのリードを引きながら、憂鬱を夜空へと向けた。
うちは名家か――彼女の一言が、僕の心に引っかかっていた。
お金のかかるお坊ちゃんと思われたくなくて、言われるのも嫌で、県立の埼玉高校に来たのに、私立中学にいたという過去は消せない。
結局僕は、両親に高い金を出してもらって、私立中学に通わせてもらった、すねかじりのお坊ちゃんだ。
でも、それを真っ向から否定できないことも確かだ。
そしてそれは金銭的な意味だけに留まらない。僕は結局、精神的にも甘ったれたお坊ちゃんなんだ。
本当に親が嫌なら、奨学金を得、借金をし、住み込みで朝から晩まで働いて学費を出して、勉強する――そういう高校の通い方があるのも事実だけど、疲労した心は、いくら喝を入れても、それに納得してくれない。こんな時に疲れた心は、僕に本気で力を振り絞って生きる気力さえも奪っていた。甘ったれている証拠だ。
きっと、もう心はとっくの昔に死んでいるのだろう。
夢もない、目標もない。将来のためでもなく、まして愛する人のためでもない。ただ、つまらないプライドを抱えて、そこから抜け出したい、ということしか考えられていない、一歩も前に進むことの出来ない、僕の心のせい――何に向かって走っているのかもわからない、僕の疲弊し、萎えきった心のせい。
暗い夜道を、僕とリュートは、黙って歩く。
僕は、リュートのリードを、離さないようにしっかりと右手に絡めていた。僕は、リードをしっかりと握っている自分の右手を、ずっと凝視していた。
「なあ、リュート――」
僕は独り言のようにつぶやいた。
「もし僕が、この手を離したら――お前はどうやって生きていくんだ?」
僕が、リードを握る、この手を離しただけで――ただそれだけで、こいつは明日の飯の保障もなくし、地獄を見ることになる――そんなことを考えていた。それを自分の姿とダブらせていた。
僕が犬だったら、飼い主に捨てられて、食べるものがなくなっても、他の野良犬やカラスと争いながら、ゴミ漁りをし続ける生活も、保健所に捕らえられて、握りつぶされるように、命を刈られる運命も、それなりに享受して、生きていけてしまうのだろうか……
「いや!」
思いをかき消すように、一人かぶりを振った。
「獣のように生きる必要はない。僕は人間だ。誇りを持つべき人間じゃないか」
学校に戻ると、寒い中を歩いて体が冷え、尿意を催し、僕は食堂のドアを開けると、トイレへ向かった。もう食堂には、片付けをしている数人の部員しかいなかった。男性用トイレの前でチャックを下ろす。
「おう、ケースケ、お帰り」
トイレに入ってきて声をかけてきたのは、僕の姿を見て追いかけてきたジュンイチだった。僕の隣に一つ隔てて立って、ズボンのチャックを外した。
「ジュンイチ――」
「ん?」
ジュンイチは振り向いた。だけどすぐに興味は、僕の下半身に移ったようだ。
「いや、なんでもない」
考え直して、訊くのをやめた。
ダメだ……こいつはユータと比べると冗談を好む。機転もある。問い詰めたところで大した成果はない。
ジュンイチは、僕達といつも一緒にいるが、実際は社交術に長けていて、クラスの連中誰とでも仲がよくなれる。ユータと比べると本質的に楽天家で、悪く言えばいい加減。冗談で相手のガードを緩めて、話術を自分に有利に持っていくことに長けている。こうして赤点を取りまくってはいるが、苦手科目がずば抜けて悪いだけで、本質的に文系科目の成績はいい。人の考えを読み、気を利かせる程度の頭がある、腹に一物あるタイプだ。
そんなクラスの人気者タイプが、何でいつも僕達3人という殻に閉じこもっているのかは、ユータが何故こんなガリ勉高校に入学したかというのと同じくらい、僕の中で謎だったけど、とにかく現状で問い詰めるには、相手が悪い。
横を見ると、ジュンイチは、ふふふ、と、気味が悪いほどニコニコしていた。
そこで僕は終わって、ジュンイチに見せないように、チャックを上げて、流すと、入り口手前の手洗い場の蛇口をひねって、蛇口にかかっている石鹸を泡立てた。ジュンイチは、あまり出なかったようだ、すぐに手を洗いに僕の横にやってくると、僕に話しかけてきた。
「どうだったよ? 麗しき姫のエスコートは」
「は?」
ジュンイチは、石鹸を泡立てながら、低い天井を見上げて、ニコニコ顔をしていた。
「女の子が苦手なケースケでも、送るとなれば、何か話したんだろ?」
「――別に」
ネタがわかって、改めて態度が臭い事に気付く。
しかし、放っておくことにした。奴等がどんな悪巧みをしたか、しばらく様子を見ることにした。こんな時、笑いをこらえたりしないでいい仏頂面は便利だ。