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Fear

「――ぶっ、ゴホッ、ゴホッ……」

 僕はそのトモミの言葉に、思わず口に含んだ日本酒を吐き出した。

「……」

 だが、逡巡する僕を見ても、トモミの真剣な顔は変わらない。少し気恥ずかしそうに俯いて、握り拳を作っていた。

「……」

 僕は彼女にかける言葉を必死に探した。

「――その、酔ってるんじゃないよね?」

 僕はまだ半信半疑のまま、そう訊いた。

「別に答えなくてもいい。酔ってないのなら、黙っているだけでいい」

 女性がこんなことを言ったのに、男がもう一度同じことを言わせたら、トモミが恥をかくことになる。だからこういう意思確認を行った。

「……」

 そして、トモミは僕の言うとおり、沈黙を守った。

「……」

 ――今夜、私を好きにしてもいい。

 それって――やっぱり、そういうことなんだよな。

 それを意識しだすと、改めてトモミの肢体が、変に艶めかしく見えてくる……浴衣から覗く胸元の素肌が妙に生々しく見えるようになって、僕はいきなり目のやり場に困り出した。

「そ、その……」

「――今の私にできるのって、それくらいしかないから……」

 なんと声をかけていいかわからない僕に、トモミが助け舟を出すように口を開いた。

「社長は、いつも想像を絶するような痛みや苦しみの中でも、人前では絶対に八つ当たりしたり、泣いたりしないから。また元の生活に戻るのなら、きっと社長はもう、更なる苦しみの中に身を投じるんでしょうから……だから、今夜くらい、そんな社長を好きにさせてあげたい。メチャクチャになりたいなら付き合うし、泣きたいのなら、泣いていいですよ」

「……」

 それは、自分が前々から望んでいたもの。

 シオリを想い続ける虚しさ、ユータやジュンイチに対しての後ろめたさから逃れられなくて。

 僕は何度も自分をゴミにし続けてきた。他の女に溺れようともした。

「私は、構わないですよ。社長がそれで少しでも楽になれるのなら――社長の背負った業とか痛みとか――そういうのを包み込んであげたい」

 そう言ってくれるトモミの声も、表情も、とても優しくて。

「……」

 7年間我慢していた色々なものが、一気に崩れ去る音が、僕の脳裏に響いた。

 僕は炬燵から足を出し、すっくと立ち上がる。

「――社長?」

 トモミは首を傾げた。

 僕は手を伸ばして、炬燵の上――僕たちの頭上にぶら下がっている蛍光灯の紐を引いて、明かりを落とした。

「え?」

 真っ暗になる部屋。

 そして、僕はそのままトモミの前へ移動し、彼女の膝の下に手を入れて、そのまま有無を言わせず両腕で彼女の体を抱きあげた。

「え……あ……」

 突然のことに、トモミも声を漏らす。暗い中でいきなり体を持ち上げられて、怖かったのか、トモミは思わず僕の浴衣の胸元を掴んだ。

 僕はトモミを抱きかかえたまま、足で隣の部屋の襖を開ける。そしてそのままトモミを敷いてある布団の上に寝かせ、僕はトモミを下ろしながら、彼女に重なるようにして、うつぶせに寝転がった。

 部屋は真っ暗だが、窓から潮騒と共に、月明かりが差し込んでいて、表情がうかがえる程度には明るい。

 僕とトモミの顔は、もう15センチにも満たない程の距離にある。寝かせる際に、トモミが握っていた僕の浴衣は引っ張られて、僕の右上半身の浴衣がはだけてしまった。

 暗がりの中、トモミの大きな目が月明かりを反射する。僕の裸になった右半身は、もうトモミの身体と重なっていた。彼女の胸のふくらみを感じながら、僕の腕に、彼女の一気に早くなった心臓の鼓動が伝わっていた。

「しゃ、社長……」

 とろんとした、トモミの声。切迫した息遣いをした。

 僕はそのまま、裸の右腕を伸ばして、彼女の髪に触れながら、彼女の体を僕に引き寄せた。

「……」

 トモミの顔がまた近くなる。暗がりの中でトモミの目は、大きく開いていたけれど、どこかとろんとして、覚束ない視線を向けていた。

「……」

 やがてトモミは、僕の目をじっと見つめながら、静かに目を閉じた。

「……」

 電気を消してから、ほんの20秒も経っていなかったが。

 この時僕の胸には、とめどなく目の前の女性の一挙動にまで、愛しさを感じていた。

 彼女を強く抱きしめ、その心まで深く慈しみたい。

 そんな思いに溢れた。

 あぁ――やはり僕は、トモミとなら上手くやっていけるだろう。

 これで――シオリのことを想い続ける、あのどうしようもない虚しさと、ひとりぼっち戦う日々が終わる……

 僕はそのまま、吸い寄せられるように、トモミの唇にキスをしようとした……

 だが……

 そう思った時、一瞬だけ僕の胸に、シオリのことが去来した。


「あなたはそんな人じゃない」

「今のあなたは、狭い植木鉢に入らないで、自分のために、輝いた今を生きてほしい」

「どんなに時間がかかってもいい、あなたは私の好きになった、あなたのままでいてください」


 その一瞬で生まれた穴から、そんな言葉が脳裏を駆け巡っていく……

 僕の唇が、トモミの唇と重なるか、重ならないかのところで、僕の身体は止まってしまう。

 そして……

「――社長?」

 目を閉じたまま、僕が何もしないことを不審に思って、トモミが目を開けたのとほぼ同時に。

 僕の身体は震えてしまった。必死に止めようと脳が時勢をかけても、止まってはくれない小刻みな痙攣。

 僕は肘をついて、四つん這いになるようにトモミの身体の上で自分の上半身を支えた。

「――すまない」

 あぁ、やっぱり駄目なのか。またいつもの発作が……

 ――いや、そうじゃないな。この震えは、7年間、他の女に溺れようと願うと怒ってきた、あの発作的な痙攣とは違う。

「どうしたんですか?」

 トモミが心配そうに僕に訊く。

「君が嫌いだとか、そういうことじゃないんだ。僕だって君のことを抱きたい。君のぬくもりが欲しい。ただ……」

 僕の声が詰まった。

「今ここで君を抱いたら――僕は一時の安らぎの代わりに、もっと沢山、色んなものを失ってしまいそうな気がする……いずれ君のことも」

 そう言ったら、僕の目からは大粒の涙がこぼれた。

「僕は――もう何も失いたくないんだ。君やシオリ、どっちがというわけじゃない。自分の大切な人を、失うのが怖いんだ! う、うぅ……」

 そう、僕は恐怖で体が震えたのだ。

 今の僕を、信じてくれた人がいる。その人達に報いる道を、僕は何も見いだせていない。

 そんな僕が、何の答えを見出せないまま、目の前の安らぎ欲しさに、こんなことをして――

 そんな安らぎを覚えてしまったら、心地よいかもしれない。

 だが、その楽さを覚えてしまったら、もう僕は二度とシオリやユータ、ジュンイチ、そして僕を信じてくれたトモミに対しての想いがへし折れて、二度と皆と同じ場所に立つことができなくなる……

 そんな気がした。

 また皆から置いていかれるような恐怖を覚えて、僕は泣いた。人前で涙を流したのは、日本を出て以来、初めてのことだった。

「そうですか……」

 トモミはふっと力なく声を漏らした。

「ごめん。君は僕を心配してくれたのに……恥をかかせてしまった」

 僕は急いで涙をぬぐって、彼女に謝った。思わず彼女の優しさに、堪えきれなくなってしまい、つい先走りそうになってしまった。今では彼女への申し訳なさでいっぱいだった。

「いいえ、許しません」

 だが、暗がりの中で、トモミはそう言った。

「女に恥をかかせたんですから、何かして、償ってもらわないと」

「え……」

 僕は息を呑んだ。

「罰として、今日は、私の言うこと一つだけ訊いてもらいます」

「……」

 何を頼まれるか不安だが、でも、女性に恥をかかせたのは、全部僕の自業自得だ。観念するしかない。

「――いいですよ、何でもいうこと訊きます。僕は何をすればいいですか?」

「じゃあ、私の横の布団に寝てください」

「……」

 僕は言われたとおり、トモミの横に敷かれている布団に横になった。

 すると、そのままトモミが僕の方へ擦り寄ってきて、僕のはだけた浴衣の胸元に、自分の顔を押し当てた。

「そのまま、ギュッてして……」

「え……」

「……」

 沈黙。

「それくらいなら、大丈夫でしょう?」

 トモミが言った。

「いつか社長は、シオリさんを選んじゃうかもしれないけれど――でも、せめて今日一日は、私が社長を独り占めしてたって思いながら、眠りたいんです……だから、私が眠るまで、ずっと社長が私の側にいるって、実感させてください」

「……」

 そうか――そうだよな。

 結局僕はトモミのことも、自分の都合ひとつで振り回すんだ。

 そんな彼女は、待たされ続けるのに、まだ僕が自分のことを好きだって実感を得られないままなんだ。理由はどうあれ、僕が彼女を抱くのを拒んだのは事実だ。

 だったら――そんな彼女の言うことを、何か訊いてやらなくてはな……

 僕はトモミの身体の下に腕をすべり込ませて、彼女の体をそっと抱きしめた。

「あぁ――君が眠るまで、ずっとこうしてるよ」

 僕はそう言った。

「……」

 トモミはもうそれ以上、何も言わなかった。ただ、体が少しの間、小刻みに緊張しているのが分かった。もしかしたら、僕の胸の中で、泣いていたかもしれない。

 泣いているのだとしたら、きっと彼女は僕の分も泣いてくれたのかもしれない。そう思った。

 やがて彼女が僕の胸の中で小さな寝息を立て始めたが、僕はなかなか寝付くことができなかった。

 彼女の愛を拒んで、また闘いの日々に身を落とそうとしている自分の決断を、正直後悔していた。

 僕は今日、どれだけ正しく、どれだけ間違ったのだろう。

 そんなことをずっと考えていた。

 そして――そんなことを考えると、いつも浮かんでくるのは、マツオカ・シオリの顔だった。

 君の目に、今の僕はどう映るのだろう。

 そんなことを、無性に気にする自分がいた。そんな自分にイライラしながら、寝返りを打つと、空が徐々に白み始めていた。


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