Trush
トモミのその言葉を聞いて、僕は半分ほど開けている窓の外の景色を眺めながら、聞こえてくる潮騒に耳を傾ける。
そうして、軽く目を閉じて、僕は想像する。
――あぁ、そうできたなら、どんなにいいだろう、と。
「――ふ」
僕は思わず笑みを漏らした。
「どうしたんですか? 私――何かおかしなこと、言いましたかね……」
「いや、嬉しかったんだよ」
僕はトモミの方を向く。
「今まで僕と会う人間は、僕にもっと頑張れ、ってことしか言ってくれなくて。今のトモミさんみたいに、辛いならやめてもいい、って言ってくれた人、いなかったから」
そう、昨日も夢に見た。
手を血に染めた僕に、トモミとシオリが、僕に闘いの日々から降りてもいいと言ってくれる夢を。
そしてそれが現実のものになって、柄でもなく、少し感動したのだ。現実にそんな言葉を言ってくれる人が目の前に現れたことに。
「……」
懐かしい感覚だった。
7年前は、シオリがいつも僕に、僕が欲しがる言葉を言ってくれた。
その時の感覚……
「あ、あの、社長……」
ふと、語尾がトーンダウン気味のトモミの声に、少し浮遊感を味わっていた僕の脳がまた地に足をついた。
トモミの方を見ると、顔を赤らめて、額に少し汗を掻いている。木枯らしの走りが半開きの窓から入って、炬燵がついていても、汗をかくほど暑くはないのに。
「あ、あの――こ、これは可能性の一つとして、訊いて欲しいんですけど……」
「ん?」
「あ、あの、社長がもしよかったらなんですけど……」
トモミはその言葉を言い渋っているのか、唇が蝶々と虚空を彷徨っていた。
「しゃ、社長。わ、私と――結婚しませんか?」
「……」
沈黙。
「あ、あの、何か言ってほしいんですけど……」
5秒ほど黙ってしまい、トモミは半分泣きそうな顔で僕に助け舟を求めた。
「あ、あぁ。ごめん」
僕は何とか生返事を返す。
「い、いきなりだったからさ」
「すみません……」
トモミもそのことは自覚しているようで、頭を下げる。
「上手く言えないんですけど――もし社長が今の生活を捨ててしまうなら――私、社長のこと、側で支えたいんです。私じゃ、シオリさんみたいに上手くできないかも知れないけれど……」
「……」
「だから――もう辛い思いを一人で抱えないでください……」
そう声を絞りだすと、トモミの目から、涙がこぼれた。
「……」
このタイミングで――7年前のシオリと同じことを言う、か……
だから――心が揺らぐ。
トモミとなら――きっと上手くやれるだろう。こんなにも、僕を愛してくれる。あの頃シオリとは出来なかった二人きりの幸せを、トモミとならば作れるだろう。
だが……
「トモミさん、それは……」
「嘘。冗談です」
言い掛けた言葉を、潤んだ目のトモミの言葉が止めた。
「グランローズマリーは、社長のデザイナーとしての収入が運営資金で、命綱ですから。だから社長以外じゃ運営できない。存続もできない。社長がグランローズマリーを捨てたら、社長の代わりに沢山の人が職を失って、路頭に迷う。エイジだって……」
「……」
「社長は、自分の幸せのために、誰かを不幸には出来ない……だから自分の運命から、逃げることも出来ない。それもわかってます」
「うん。そうだね」
死ねば文句も出まいが、今の僕は勝手な理由で、今いる場所から逃れることは出来ない。
理由は違えど、僕は7年前と同じ――僕を愛してくれた女性の申し出を、受け入れることは出来ない。
シオリとトモミの願ってくれた、僕のささやかな幸せは、ちっぽけに見えて、もう二度と手の届かないものになったのかもしれない。
きっと――出来の悪いラブコメなら、世界中を敵に回しても、一人の女性のために人生を捨てるのだろう。
それは子供のやり方だ。恋愛は自己責任でやるものだ。それを知らない奴に誰かを好きになる資格はない。
「ありがとう。トモミさん」
「え?」
「君の申し出は受けられないけれど……君の言葉は一人の人間として受け取っておくよ」
「……」
お互いがこの先に進めなくて――明日が見えなくて、沈黙が続く。
沈黙が続くと、変な考えが浮かんでくる。
「そりゃ、そうできたら僕だってすごく嬉しいさ。でも……」
トモミは僕の声に、俯いていた顔を上げる。
「でも――ごめん。今の僕じゃ、いい返事はしてやれない……心が揺れたのは、事実だけれど……」
あぁ、女性が男の前で、こんなに勇気を振り絞ったのに、また僕はトモミに不義理なことをしている。
僕は大馬鹿野郎だろうか。言ってしまえばいいじゃないか。「結婚しようか」の一言でも言って、グランローズマリーはもう自分とは関係のないものだと。
その一言さえ言ってしまえば、楽になれるのに……
「――また戻るんですね。今までの生活に」
トモミが僕に強い瞳を向けて、それを確認した。
「うん。今グランローズマリーは、飛天グループを吸収したことで、大混乱している。エイジひとりじゃその処理は無理だ。自分がやったことである以上、その処理をしないといけない。今はグランローズマリーを出るなんて決断ができる時じゃない。せめてそれが終わってから、自分の身の振り方を考えるよ」
僕はふっと息をつく。
「トモミさんへの返事も、出来ればその頃までには答えを出したいと思う。こんな返事で、申し訳ないけど……」
「いえ。私こそ、いきなり色んなこと、ずけずけ言っちゃってますから」
「……」
「――ひとつ、質問したいです」
「え?」
「シオリさんって、社長がああいう家庭環境にいたこと、知ってたんですよね。じゃあ――やっぱり社長、シオリさんから、結婚しない? って、言われたこと、あったんじゃないですか?」
「……」
僕は一瞬、口ごもった。
「――うん、あるよ。別れる直前に一度だけ……」
「やっぱり。そうだと思った」
「え?」
「私が見た、私がイメージするシオリさんだと、社長の辛い過去を知ったら、きっとそう言うだろうな、って」
「……」
「悔しいな。いつもシオリさんは、私がやること、言うこと、全部7年前に、社長にやっちゃってるんだもん。私、いつも周回遅れって感じで……」
「……」
それは、自分がシオリよりも不利な状況にいるということを、僕に分かってほしかったのかもしれない。
それが分かっていて、それでも真剣で、リアルで、一生懸命なのだと。
シオリのことを忘れられなくてもいいから、ちょっとでも僕に、そんな不利な状況で戦っている自分の辛さを分かってほしいと、思わず出てしまった愚痴なのかもしれない。
そんな彼女に、僕が何をしてやれるのか……
そればかりを考えていた。
だけど、上手い考えが思いつかなくて。
半ば自棄になるように、僕は日本酒の入ったコップに手を伸ばし、一口口に含んだ。
「あ、あの……」
僕が酒を口に含んだとほぼ同時に、トモミの声が発せられた。
「今日だけでも、色んな辛いこと、忘れさせてあげましょうか……」
「?」
酒を含んだまま、僕はその言葉の意味を捉えきれず、怪訝な表情でトモミを見た。
「あ、あの――好きにしていいですよ。今夜、私のこと」