Impact
民宿の部屋に置いてあったコップに日本酒を注いで、僕とトモミはお互いそれに一口口をつけた。
一口だけで、あまり上等な酒ではないということが分かる。弱った胃にずしりと堪えたが、そんな重さも、今は悪くないと思えた。
ふぅ、と、下戸の僕は一口で息を漏らしたが、そうしながら目の前のトモミの飲みっぷりを見ていた。
両手で丁寧に杯を取り、くいと小さく一杯飲むその仕草が、堂に入っており、彼女のつややかさを引き立たせた。
「そう言えば、トモミさんとこうして酒を飲むのなんて、初めてだね」
僕が出席するパーティーに、トモミがついてくることはしばしばあったけれど、こうして二人で飲みに来ることは初めてのことだった。
「トモミさんは、酒強いの?」
「どうでしょうか。一応大学にいた時に飲む機会が多かったから飲めますけど、特別好きなわけじゃないですし――社長と同じくらいじゃないですかね」
「大学か……」
僕もオックスフォードに2年通っていたが、当時は大学に講義を受けに行っては、すぐに仕事に向かう生活で、キャンパスに見知った顔などはほとんどなく、酒を誰かと飲みに行くことなど、仕事でもなければ一度もなかった。
「何か、サークルとかやってたの?」
僕は何気ない会話として訊いてみた。
「……」
だが、その質問に、トモミは言葉を澱ませた。
「――ちょっと、テニスをやっていましたよ」
「……」
その返しに僕も反応に困った。日本の大学におけるテニスサークルのイメージなんて、お世辞にもいいと言えるものではない。
「いいですよ、私も当時を自分の黒歴史だって思ってますから」
トモミは僕の顔色を見て、そう言った。
「あ、いや、そんなつもりは」
僕は小さくかぶりを振ったが、トモミは笑った。
「ふふ……」
「……」
「私のいた学校だと、自然とみんなそうなっちゃったんですよね。幼稚舎から大学まで、19年エスカレーター式のセレブ女子高だったんで、パーティーなんかもあるし、勝手に男の子はちやほやしてくれますし、欲しいものがあれば、親とかに頼めば何もしなくても手に入れられますから。結局、遊び呆けるしかすることもなくて」
「……」
確かにそうだろうな。そういうところの女性は、自らが自立する必要も、努力する必要もない。いい男を捕まえて、楽にいい暮らしを享受できれば、それに越したことはない。
僕もこの財界で数年を過ごして分かった。セレブな女性というのは、誰しもステータスの高い男を凋落する戦略を常に懐に忍ばせている。
トモミは父親がメガバンクの重役、母親は都内でレストランを数店舗経営する女社長だ。普段は庶民的だから忘れてしまうけれど、トモミも本来はそういう類の人間――僕の秘書なんて仕事をやっている女性ではない。
「私、高校に入ってから、周りの友達が急に、男、男って言いだすようになっちゃって――合コンとかにも呼ばれたりして。でも、私は何だかそういう空気にいまいち染まれなくて。親のお金でいい学校に通っているだけで、別に頭もよくなければ、取り立てた長所もない自分が、他人を選り好みしているなんて、人から見たら、軽蔑されやしないか、自分は今、他人に何もかも求められる程、何かをしているのかって、考えちゃって」
「……」
その環境で、そういうことを考えられるだけ立派じゃないか。
「そんなことを考えている時に、私、偶然社長のサッカーの試合を生で見たんです。街をふと歩いていたら、スタジアムの前で、サッカーの全国大会の試合をやっているっていうのを見て。あぁ、私と同じくらいの歳で、全国っていう広い世界で戦えるくらい努力している人がいるんだ、って、何となく思ったら、今の自分と、その人達は、どのくらい違って見えるんだろうって、興味が沸いて。対戦相手が地元だったっていうのもあるんですけどね」
「地元っていうと――僕達が準優勝した大会の一回戦の、埼玉高校と、帝徳の試合か」
「そうです。一回戦で、優勝候補だった帝徳と、まったく無名だった頃の埼玉高校の試合です」
「……」
その試合からは、既に8年が経っているが、僕もよく覚えている。あの試合から、僕やユータ、ジュンイチの人生が大きく変わってしまったから。
「その試合は、ずっと埼玉高校は帝徳に攻め立てられていましたけど、いつも最後は社長とエンドウさんの二人が攻撃を食い止めて、無失点に食い止めてましたよね。強豪に一方的に攻め立てられていても、不安や気後れなんて全くなく社長は笑ってて――すごく楽しそうにサッカーをしてました」
「……」
そう、あの大会、僕はサッカーが楽しくて仕方がなかった。
力を欲する手段の一つとして、惰性的にやっていたサッカーだったのに、救いを得て軽くなった心身の躍動と、生まれて初めてできた友と同じピッチを駆けることのできる喜びを、一つ一つ噛みしめると、とめどなく力と勇気が沸いて……
「初めはパンフレットでSランクがついていた帝徳の方を贔屓に見ていたのに、社長とエンドウさんの息の合った守備を見ているうちに、私、自然に埼玉高校を応援してて……」
「……」
「その試合のハーフタイムに、私、スタジアムで勝ったパンフレットが風で飛ばされちゃって……その時に、シオリさんに出会ったんです」
「え……」
唐突にトモミがシオリの名前を出すことは想定外で、僕は少しどきりとした。
「今思えば、私、シオリさんのことも、すごく印象に残ってたんですよね」
「……」
「その試合、帝徳は全国常連校だから、全校生徒や関係者が総出で応援してて――多分2000人くらい応援団がいたのかな? それに比べて埼玉高校は、少しの応援団と吹奏楽部がいる以外は、ほとんど応援がいなくて――」
「埼玉高校は進学校だからね。全校生徒がセンター試験を受けるし、年末年始にやっているサッカーなんて、生徒は見に来ないよ」
「パンフレットを拾ってくれたシオリさんも、同じことを言ってました」
トモミは頷きながら言った。
「でも、シオリさんはその時言ってたんです。この試合は、このまま一方的に攻められるばかりで終わらない――私はそう信じている、って」
「……」
「その時のシオリさんの目が、その試合の社長やエンドウさん、ヒラヤマさんと同じ――全然迷いとか不安とかがなかったんですよね。前半だけで20本くらいシュートを打ちこまれて、一方的に埼玉高校が攻め立てられていて――普通、もう駄目だって思ってしまうだろうに、シオリさんは全然そんな不安を感じていなかった――それがすごく印象的だったんです。私の周りには、そんな目をして何かを信じられるって言える人、いなかったし」
「……」
トモミの口にした『信じる』という言葉が、今の僕の胸に残響した
付き合いだしたその時から――シオリはいつだって僕を信じてくれていた。
それに僕が気付いたのは、8年後の今――今日、ついさっきだ。
「シオリさんはその時、私に言ったんです。後半は、うちの10番、11番、6番に注目してください、って」
それは僕、ユータ、ジュンイチのつけていた背番号だった。
「そんなシオリさんの予言通り、その試合は社長が後半の残り10分でフリーキックを決めた後、ヒラヤマさんと二人で点を取りまくって勝っちゃいました。その時の社長の、今までの戦闘モードだった顔が、ぱっと笑顔になって、ヒラヤマさん達ともみくちゃになって喜び合う姿を見て、私、思ったんです。私もこの人達みたいになりたい、って――あんな風に真っ直ぐな目をして、一緒に喜びを分かち合えるような、そんな人になりたいし、そんな人に出会いたい、って」
「……」
「それから私、ずっと社長のこと見てました。そうしているうちに、私の世界が、社長を追うことの先にあるもので満たされてしまって――社長やシオリさんみたいになりたいっていうのは、私の人生で、初めてできた目標だったんです。それが出来て、私の生活が大きく変わったんです」
「……」
「社長が全国模試で東大文Ⅰを志望しているって聞いて、私は付属の女子大に進まずに、東大を目指したりしました。友達からは、そんなに頑張っても、今やサクライくんは日本中の女の子の憧れだから、お近づきになれっこない、って、何度も言われちゃったんですけど――社長とお近づきになれるとか、なれないとかじゃなくて、とにかく何かに打ち込みたかったんです。自分の力で高い山を登って、自分の中で、これだ、っていうものを築き上げたくて。その先へ行けたら、今社長が、その真っ直ぐな目で見えている者が、私にも見えるんじゃないかって、そう思えて」
「……」
「でも――そんな生活をしている時に、社長にあんなことが起こって、日本を出てしまって……」
僕を気遣ってか、そこに触れないようなトモミの言い方。
「社長が日本を出て、消息が分からなくなってから、私のその半年の充実した生活は、一気に張りを失っちゃって……私はしばらく前を向くことが出来なくて、そのまま付属の女子大に上がって。そこからはもう流されるまま、抜け殻みたいになっちゃって……」
「……」
その頃のトモミは、きっと今の僕と同じ。
信じているもの、力の源を失って、足元から一気に崩れ落ち、立ち上がることも出来ない反動に苦しんで。
そこから抜け出そうと思っても、力になる推進力がない。それを求めては、見つからないことを繰り返すうちに、半ば自暴自棄になって……
「あ」
トモミはふと顔を上げた。
「ご、ごめんなさい、私、一人でペラペラ喋っちゃって」
「いや、いいよ。そういう話を聞いたのも初めてだし」
僕はニコリと、今できる精いっぱいの笑顔を向けた。
「そうか――トモミさんは、そんな昔から、僕達のことを知ってたのか」
僕の思考は、トモミの話を聞きながら、過去にユータ達とサッカーをしていた頃へと遡る。
「私にとっては、社長や皆さんに出会えたことは、すごく衝撃的だったんですよ。皆さんすごく綺麗な目をしてて、本当に心から笑っていて――私の人生を一瞬で変えちゃうくらい」
「……」
「社長がヨーロッパで復活して、またサッカーもはじめて、それを見て、私もまた頑張ろうって思えました。そんな私が、まさか社長の秘書なんてやらせてもらえるなんて、ずっと夢みたいでした」
「……」
そう嬉々と語るトモミの目が、本当に嬉しそうで。
僕はもう一度、酒に口をつけた。
「……」
「社長?」
「今の僕が、こんなことを言って、説得力があるかどうかわからないけど」
僕はトモミの目を覗き込む。
「今のトモミさんは、十分輝いた眼をしているよ。昨日会ったユータやジュンイチと同じくらい」
「そ、そうですか?」
不意に僕に褒められて、トモミは気色ばむような照れ笑いを浮かべた。