Vanity
「会ったばかりの俺が言うのもなんだが、にいちゃん、男振りがいいもんなぁ。あの姉ちゃんも、きっともう待ってるんじゃないのか?」
「……」
今夜、僕はトモミを……
――って、今更考えることでもないよな。同じ部屋に泊まる以上、そこに考えを回さなかった僕の方がどうかしている。
「それに、ひょろひょろしていると思ったが、随分いい体しているじゃないか。この体でぎゅっと抱きしめてやって、笑顔の一つも見せてやりゃ、あの姉ちゃんもとろけちまうってもんよ」
お爺さんは僕の背中越しに、風呂場に笑い声を響かせる。
そう言えば、このお爺さん、昔は浮名でこの民宿のおかみさんを泣かせてきたらしかったな――今の発言を聞いて、納得する。
しかし、まさかこれ、隣の女風呂に浸かっているトモミに聞こえてないよな。
「はは、まあそこまで俺が邪推するのも野暮か。ほろ酔いなんでつい口が滑ったみたいだ。無礼を許してくれ」
そう言うと、お爺さんはシャワーで僕の背中の泡を流し始めた。
「……」
10月30日 PM11:00
「あ、ちょっと待った」
脱衣所に用意してあった浴衣を着て、僕はお爺さんと一緒に風呂を上がると、風呂から民宿の裏口の玄関に入ったところで、お爺さんに呼び止められた。
お爺さんは僕をそこに制したまま、一人民宿の廊下をそそくさと歩いていき、1分ほどして何か抱えて戻ってきた。
「これ、俺から差し入れだ」
お爺さんが手に持っていたのは、日本酒の一升瓶だった。
「話をするにせよ、何か場をつなぐものがあるといいだろう? 酔いに任せての勢いで、どうにかなっちまう場合もある。ま、どう使うかはにいちゃん次第だが、持って行ってくれ」
「……」
非常に下品な世話も焼かれている気もしたが、このお爺さんも、おそらく僕を気に入ってくれての行動であることは、何となく僕も分かっている。
それに、場をつなぐものがあるのも、酒での勢いが状況を好転させる可能性があるのも事実だ。僕はありがたくその一升瓶を受け取ることにした。
お爺さんと別れて部屋に戻ると、リュートが炬燵に体を半分入れて、気持ちよさそうに臥せっていたが、僕の姿を見て、炬燵から出ておすわりのポーズをとった。
トモミはまだ、風呂から帰っていないようだった。女の風呂は時間がかかるものというしな。僕にとっても一人になれる時間があるのはありがたい。
僕は炬燵の上に一升瓶を置いて、部屋の奥の窓の縁に座り、窓を小さく開け、体を半分外に乗り出すようにして座った。
少し肌寒いような風が入ったが、風呂上りにこれくらいの風の冷たさなら、気持ちいいと感じる程度。窓を開けると潮騒の音が耳に届くようになる。窓の下からは、僕達が走ってきたハイウェイを挟んで、砂浜が臨める。僕達が釣りをした、岬状に突起した海岸沿いにそびえる灯台から、強い光がゆっくりと旋回して、船に合図を送っている。
窓枠に背中を預けて、もう真っ暗になってしまった海と、灯台から放たれる光を見つめながら。
僕はまた、トモミとシオリの二人を心の両天秤にかけて、今夜のこと、これからのことを考えていた。
――女を抱く、か……
あのお爺さんに言われて、今更その考えに思考を巡らせるなんてな……
元々僕は、女性を抱きたいと思うか、思わないか、そういう視点での評価を下したことは滅多にない。多分男の中では、その頓着がない方だと思う。
それは、多分シオリに出会ってしまったからかもしれない。
彼女は確かに美少女だったが、その美しさは一種の儚さ、危うさを秘めているように思えた。この娘の美しさは、彼女をいつか大きな運命の渦へと落してしまう、そんな思いを抱かせるようでもあった。
摘んでしまうのが勿体ない、と思えるような輝き――僕はシオリのそんなところが好きだった。だからこそ、抱くとか抱かないとか、そんな基準は二の次、三の次になってしまっていた。
「……」
――とは言っても、正直彼女を抱くこともないまま、道を分け隔ててしまったことには、僕は長いこと苦しんだ。
僕の知らぬところで彼女のその輝きを奪い、独占した者がいるかも知れない。僕の見たことのない彼女を見た奴がいる、そう思うだけで、嫉妬、羨望、憎悪、どれともつかぬ焦げ臭い思いに苛まれてきた。
こんなことなら、いっそシオリのその輝きを、僕の手で摘んでしまえばよかった。一人でいると、不意にそんな思いに襲われることも多かった。
それは、もしかしたら僕が深層的に、誰か――性格に言えば、シオリ本人か、その代わりに足る誰かのぬくもりに飢えていたということなのかも知れない。
今まではそんなことを思っても、シオリはもういないという現実に打ちのめされ、行き場のない虚しさを感じるだけだった。
だが、今の僕にはトモミがいて……
「……」
今夜、トモミを抱いたら、どうなってしまうのだろう。
まず最初に、トモミに惚れているエイジのことを思った。それからユータ、ジュンイチ――
そして最後に、シオリとトモミの顔が脳裏に浮かぶ。
エイジは、僕がトモミを抱いたと知ったら、僕が今までシオリに抱いていたのと同じ思いを感じてしまうだろうか。
ユータとジュンイチも、シオリのことが好きだったはずだ。そんな彼女を等閑にして、トモミと結ばれたら、祝福するだろうか。不義者と思うだろうか。
何より、トモミ自身はどうだろう。
彼女は不安を抱えている。シオリのことで揺れている僕に対して。
自分のことを僕がちゃんと見ているか、実感となるものを欲していた。
僕が彼女を抱いたら、彼女は少しは安心できるだろうか。
――いや、そんなのは男の都合のいい考え方だな……
「……」
昨日ユータやジュンイチと再会し、色々な話を聞いて。
そして今日、この海に来たことで、多分僕の全てを賭けてやってきた7年間で培われた何かが死んでしまったと思う。
自分が大切なものを守るためにとやってきたことは、見当違いの方向へと走っていただけで。僕の大切な人達は、誰もが僕を信じていてくれて。
それに気付かされてしまった。
気付いてしまった今、僕の心は、あの病院で目覚めた時よりも酷く、7年間の反動が蝕んでいる。自分の7年間を全否定されてしまったような、深い喪失感。
「……」
――もう、僕自身の答えはわかっているのだ。
目の前、手を伸ばせば届くトモミのぬくもりに溺れ、楽になってしまえばいい。
今の僕は、もう戦うことに奮い立つことも出来ないどころか、誰かの支えがなければ、立ち上がることさえできそうになくて……
トモミは、そんな僕を一生懸命支えてくれるだろう。
迷うことなんてない。トモミを抱いて、そのままシオリのことを忘れるほど、彼女に溺れてしまえば、楽になれる……
自分が7年間、シオリを思い続けたことで抱えた虚しさを、トモミは埋めてくれる。
自分がそれを狂いそうなほどに欲していることを、僕はもう知っている。
――それでいいのだ。
それでいい……
僕が今欲しているのは、確かなものなのだ。今ここにないものを追いかける力は、もう僕にはない。
迷うことなどないのだ。
そんなことを思った時、かちゃ、と、部屋の入口の戸が静かに開いて、トモミがゆっくりと入ってきた。
「あ、社長、やっぱり先に上がっていらしたんですね」
「……」
だが、僕は湯上りの浴衣に着替えたトモミの姿に、一瞬ぼうっとなった。
「――へ、変ですか?」
僕が浴衣姿の自分を見ていることに照れたのか、トモミは視線を下に落とした。
「――いや、トモミさんって、こんなに色っぽかったんだ、と思って」
「え……」
トモミが不安がると思って、率直に正直な意見を述べたが、それはトモミをいっぱいいっぱいにしてしまったようだ。
そんなトモミを見て、僕は言葉の選択を誤ったか、と思ったが、すぐにその興味から離脱した。疲れているのだ。そんなことを思って、誰かを気遣うことにも疲れていることを実感する。
「ん?」
ふと僕は、トモミの手に握られているものに気が付いた。オレンジ色のネットの中に、蜜柑が5、6個入っている。
「その蜜柑、どうしたの?」
僕はトモミの持っているネットを指差した。
「え? あぁ、これ。私お風呂でここの女将さんとご一緒しちゃって。女将さんが差し入れだって持たせてくれたんです。炬燵で蜜柑でも食べて、少しまったりしてみたら、って」
「……」
どうやらガールズの方も、僕達とほとんど同じ流れが起こっていたらしい。まあ、僕達は酒に酔わせて、という追加効果を含んでいる分、女性陣よりは若干汚い手ではあるかもしれないけれど。
「――僕もご主人に酒を貰ったよ」
僕は炬燵の上に乗っている一升瓶を指差す。
「――日本酒に蜜柑ですか――おつまみには――なりませんね」
トモミが少し困惑した苦笑いを浮かべる。
「――でも、折角貰ったんだし――飲みますか?」
僕はまず提案してみた。
「――そうですね。貰っちゃおうかな……社長も炬燵に入ったらどうですか? リュートくんも」
そう言って、トモミは先に炬燵の脇に屈んだ。
作者自身でも不自然かも知れないとは思うのですが、ケースケはここまで女性に対して性欲を抱かないのは、読者様から見たら不自然でしょうか。一応今の作中のケースケは、倒れた時から勢力や体の機能が低下してはいるのですが。
作者自身は、抱くとか抱かないとかが些末な問題に思えるくらい好きだと思える女性に出会えたらなぁ、っていう思いがあって、出来ればシオリをそんな風に書きたいなぁ、と思っていたんですが、男でそういうことを思う奴は少数派なんでしょうね…自覚してます。