Tourist-home
10月30日 PM10:30――
長く続いた宴会もお開きとなった海は、千鳥足を踏む漁師達を、片付けを終えた各々の家族が支えながら、皆家路へと向かっていった。
帰る間際に、僕は多くの家族に、今日の宴会を開いてくれたお礼を言われ、これからも頑張ってください、と応援の言葉を貰った。
頑張れと言われても――今の僕はこの先の自分の未来に対して、酷く自暴自棄になっているのだ。だからそんな言葉に対して、適当に愛想笑いをすることしかできないのが、妙にイライラした。
砂浜で漁師達とその家族を見送ってから、僕とリュートはナオキ達に改めて挨拶をし、それからトモミと共に、ナオキ達の海の家から程近い、老夫婦の経営する民宿へと向かった。民宿の玄関には、女将さんが待っていて、僕達の姿を見るなり一礼をした。
「そのワンちゃんも一緒にお部屋に上げていいですからね」
どうやらミチルがリュートのことを話してくれていたらしい。最悪リュートは車の中に置いていこうと思ったが、許可が下りていてホッとした。
築50年は経っているだろう民宿は、板張りの廊下が歩く度に鴬張りのように軋む音がした。古い建物独特の匂いと、板張りの廊下の匂い、LEDのライトのような眩しい光ではなく、オレンジ色がかったくすんだ光が廊下を照らしていて、それが妙に僕を懐かしいような気分にさせた。
「さあ、この部屋です。もう炬燵にもスイッチが入っていますからね」
階段を上って、二階の一番奥の部屋に通される。
扉を開けると、部屋からは畳の匂いがした。とは言っても、帝国グループの爺さんの屋敷の茶室のような、上等の畳の匂いじゃない。井草がところどころほつれた、年季の入った畳の匂いだった。
部屋は質素な作りで、模様の施された擦りガラスの埋め込まれた窓は、海からの潮風で微かにガタガタと音がしている。部屋の真ん中には炬燵があって、その上にはポットと急須、二人分の湯飲みが置かれていた。部屋に入って右側は、襖が閉まっている。
「お風呂は階段を降りてすぐ右に行くと、裏に出る扉があります。そこから一度外に出ると、目の前の小屋がお風呂になっていますので。もう沸いていますのでいつでもどうぞ。浴衣は部屋に入って左手のタンスの中にあります。お布団は隣のお部屋に敷いてありますからね。どうぞごゆっくり」
女将はそう言って、踵を返しかけた。
「え? あ、あの」
トモミがそんな老婆を声で制した。
「あ、あの、もしかして部屋って、ここだけですか?」
「あぁ、そう言えばお嬢さんにはまだ説明していませんでしたね。生憎今日はこの部屋以外は、既にお客様が使用中でして……申し訳ありません」
「……」
僕は目を閉じた。僕はミチルから、今日はトモミと一緒の部屋に泊まることを聞かされていたけれど、トモミはどうやらそれを知らなかったらしい。
しかも客がいるとか、見え透いた嘘を……夏でもないこの時期の平日に、こんなところが満室になるわけがない。
僕は重々しくなった懊悩から取りあえず目を背けて、横目で隣に立つトモミの顔を窺った。
「……」
心臓の部分を抑えるように、胸の前でぎゅっと拳を握りしめるトモミは、明らかに表情が強張り出している。
僕達は部屋で二人きりになることなんて、この一年、日常的にあったのに。今更緊張するのもおかしいとは思う。
だが――そうなんだよな。多分僕とトモミの関係性は、この短い間に少し変わったのだろう。
「じゃあ、お二人とも、ごゆっくり」
そう言って女将は再び踵を返して、階段の方へと消えてしまった。
「……」
沈黙。
とは言っても、黙っていても埒が開かないし、心の準備ができている分、僕は構わず部屋に入る。
そしてまず、僕は部屋に入って右手側にある襖を開けてみる。この襖の向こうに、何となくの悪意を感じたからだった。
「……」
そこには六畳の和室に、布団がふたつ、ぴったりとくっついて敷いてあるのだった。しかも布団だけじゃない。ふたつの枕までぴったりくっついているご丁寧さだった。
「え……」
僕が部屋に入ったのを見て、慌てて後ろをついてきたトモミも、その光景を見て、声なき声を漏らすのだった。
「……」
何てこと……その光景のあまりのわざとらしさに、僕は少し呆れかえった。
僕はふっと息をついて、トモミの横顔を窺った。
「ど、どうします?」
僕の視線に気づいて、トモミは僕のリアクションを求めた。
「……」
僕は軽く天井を見上げる。
「君がもし僕とこの部屋で一夜を共にするのに不安があったり、心の準備が必要なのであれば、今夜僕はリュートと車で寝るよ」
「え? そ、そんな、いくらなんでも車でなんて」
「別に犠牲者精神で提案しているんじゃない。旅をしていた頃は廃車の中とかで寝たりもしたし、夜風がしのげるところなら上等過ぎるくらいだから」
これは建前ではなく、本当にそう思っていた。僕自身が、野宿とかをもう苦にも感じない。トモミのリアクションを見て、僕がおかしいのか、彼女がおかしいのか、分からなくなった。
「それに――君に無理をさせる方が、僕も辛い。ただでさえ君に無理を言って、僕の気持ちの整理がつくまで待ってもらっているのに……」
「……」
その言葉を訊いて、トモミはしばらく押し黙った。
「……」
僕はトモミの答えを急かさないように努めた。
その間に、僕は考えていた。
僕自身はどうしたいのか。
少し前までは彼女の手だって握ろうと考えたことはなかった。
でも――今は?
よくわからない。
この7年、女性の好意をすべて振り払って、一心不乱に生きてきた僕は、どうやらまだそういう思考に脳がシフトしていないらしい。長年の無理がたたった後遺症の一つに、男性機能の低下も含まれていたせいもあるだろう。
だから、むしろ今の僕は、酷く落ち着いている。トモミみたいな美人と一夜を共にできるのであれば、きっと男なら歓喜に心が躍るだろうに……
「あ、あの」
トモミが顔を上げる。
「こ、今夜は、私――社長と、一緒にいたいです……」
「……」
僕の顔を見上げ、恥ずかしさに耐え、精いっぱいの勇気を振り絞った彼女の決意を孕んだ眼。泣きそうな程に感情の溢れたその目に、心をわしづかみにされる。
「私――分かったんです。海の家から出てきた社長が目を腫らしてたの。シオリさんのことで泣いたんだって、あの時……」
「……」
そうか――ミチルが気付いたんだ。シオリのことを知るトモミが気付かないわけがない。
トモミの想いへの答えを保留にしてもらって、今日の今日だ。そんなものを見て、トモミが不安にならないわけがない。
「それを見て、私――今日はずっと楽しかったけれど、怖くなって……ようやく私のことを見てくれるようになった社長が、シオリさんのことを想っているんだって思ったら……」
「……」
「だから――今夜だけでいいんです。今夜だけは私が、社長のことを独り占めしてるって、思わせてほしい……そしたらもう、わがままは言いませんから……」
「……」
その言葉を訊いて、思った。
彼女は実感が欲しいのだ。
自分はシオリが現れたら、間違いなく負ける。彼女の言動を訊いていると、その思いが見え隠れしている。
そう思っているからこそ、シオリの陰に怯えてしまう。
僕がいくら揺れていると言っても、その不安を拭い去るには足りない。
「……」
それが女の子ってものなのかもな……ハーレム漫画みたいに、男が別の女の子と仲良くしていて、別の女の子が何の不安もなくその男を想い続けるわけがない。自分に脈があると、強く思わせる実感もないのに、いつまでも待てるほど、皆寛大じゃない。
ただ想い続けることをいつまでも続けられるほど、皆強くない。
現に僕だって、シオリを想い続ける虚しさに、今は……
「――そう」
僕はそのトモミの言葉に、承諾も出来ずに、そう答えるしかなかった。
だが、責任は感じる。
彼女を不安にさせているのは、間違いなく僕で。
そうである以上、彼女の今抱える不安を取り払ってやりたい、と思う。
だが――どうしてやればいいのだろう。
「……」
沈黙。
「――取りあえず、風呂に入っちゃわないか? あまり遅いと、あの老夫婦にも迷惑だろうし」
僕はそう提案した。勿論それは、今夜トモミに僕が何をしてやれるのか、それを考える時間稼ぎだった。
風呂は民宿の裏口から外に出て、少し進むと、小さな建物があって、二つの擦りガラスの扉が二つ並んでいて、男湯、女湯と書かれた白い板が取り付けられていた。
僕とトモミは、リュートを部屋に残して二人、浴衣とタオルを持ってここへ降りてきて、入り口の前で別れた。
トモミが女湯に入っていくのを見送って、僕はつい数ヵ月前、親父達に会った後で、僕は旅館からトモミを置いて逃げ出したことを思い出した。
あの時は、トモミにすがってしまいそうだった。彼女の優しさに甘える自分を律する自信がなくて、逃げ出した。
だが――今は?
僕も扉を開けると、そこには4畳ほどの小さな脱衣所があり、銭湯のように服を入れる籠が十ほど棚に入っている。
部屋に用意してあった手拭いを持って、風呂の扉を開けると、黒い石造りの、十人は入れそうな浴槽に、シャワーが四つ。
そして、浴槽には先客がいた。
「おう、にいちゃん」
中に人がいる気配がして、まさかトモミが中にいるんじゃないかと思ったが、それは民宿の主人のお爺さんだ。
「どうも」
僕は一つ礼をして、先にシャワーを浴びる。
「こんなでかい風呂、一人で贅沢ですね」
「いいや、客が来た時だけさ。勿体ないだろ」
「すいません、たった二人のために、こんなでかい風呂まで沸かしてもらっちゃって」
「いやいや、にいちゃんのおかげで久々に楽しい夕食が食べられたし、気にするな」
そう言われた頃には、僕はシャンプーを指で髪に揉みこみはじめていた。
「ナオキや漁師達から聞いたが――にいちゃん、随分すごい奴だったらしいな」
僕は目をつぶって、頭を洗っていたが、後ろからお爺さんの声がした。
「昼に俺や婆さんが話していた社長って、にいちゃんだったんだな。なのに全然誰かを見下した素振りがなくて……すぐにみんなと打ち解けちまったな。みんなにいちゃんのおかげで、今日は楽しい一日だった」
「……」「さて、じゃあ今日はこの海の感謝も込めて、俺も恩人の背中を流させてもらうか……」
そう言って、お爺さんは浴槽から立ち上がった。
「え? い、いいですよ。むしろ僕がお爺さんの背中を流さなくちゃ。年長者にそんなことは」
「俺はまだそんなに老けてない。心配するな」
「……」
この民宿、創業50年だろ? じゃあ二人とも70前後じゃないか。
しかし、気が付くと僕はお爺さんに背中を流されていた。誰かに背中を洗ってもらうなんて、生まれて初めてだ。
「で? 今夜決めるか?」
僕の背中をこすりながら、お爺さんが言った。
「何がです?」
僕は首だけ後ろに向ける。
「あの可愛い姉ちゃんを、今夜キメるのか?」
「……」
「にいちゃん、男のアレは使えるうちに使った方がいいぜ」
そう言われて、僕は自分の下半身に目を落とした。
今夜――僕が、トモミを抱く?