Chase
狼狽しながら、困ったようにミチルに目を向ける少年を、僕は一瞥する。
――これがあのタケルか? 7年前はちっちゃくて可愛かったが、顔立ちもきりっとして、背なんて高校生の頃の僕くらいある。中学1年でこれじゃ、まだまだ体は成長するだろう。ユータと同等、またはそれ以上に恵まれた、スポーツマン向けの身体だ。
「あはは! 予想以上にいい顔で驚いてくれたわね」
ミチルはそんなタケルの表情を見て、おかしそうに言った。
「ほら、呆けてないで、ケースケくんに挨拶しなさい」
「か、母さん、今のサクライさんにそんな呼び方をしたら失礼だって」
タケルは困ったような表情で、ミチルに詰め寄った。
「いいんだよ、タケルくん」
僕はそんな彼を制する。
「最近は僕を名前で呼ぶ人も少なくなって、寂しくてね」
そう言って、僕はタケルに歩み寄って、左手を差し伸べた。
「大きくなったなぁ、タケルくん」
「……」
僕はタケルよりも12歳も上だ。なるべく話しやすい空気を作ってやろうと考えて、にこやかに話そうとしたのだが、まだタケルは僕に言う言葉が見つかっていないらしい。緊張した面持ちで、僕の手をぎこちなく握った。
「ケースケくん、折角だし、タケルと少し話してやってくれない?」
ミチルは僕に微笑みかける。
「いや、でも……」
タケルは僕を目の前にして、本気で緊張しているみたいだ。子猿のようにキョロキョロしている。
「……」
でも、この歳で母親に促されるのも、恥ずかしいものだろう。何となくその気持ちは分かる。
「僕もタケルくんと話したいな。ついでに食事、付き合うから」
それを推し量って、僕はそう言っていた。
僕とリュート、タケルは、さっきトモミと釣りをしていた灯台の前のテトラポット群に来ていた。並んで座り、背中にある灯台から、海の向こうへ伸びる光と、空に浮かぶ下弦の月を見ていた。
ここからでもナオキ達の宴会の様子がよく見える。僕はギターをナオキに貸して、今ではナオキの演奏で、漁師達のフォークソングの大合唱がここまで聞こえる。
「君も食べなよ。育ち盛りに食べないと、大きくなれない。高校時代の僕が実証済みだ」
僕の器に入る、大振りの魚の身にかぶりつきながら、ジョークを飛ばすと、タケルも少し笑って、箸を進めはじめた。
「僕がここにいた時のこと、覚えてるの?」
僕は聞く。
「はい。俺――あ、いや、僕は……」
「喋り方も普通でいいよ」
僕は笑う。
「あ……はい。えっと、俺は小さい頃から父さんがいなくて、爺ちゃんが父親代わりだったんで、サクライさんが来た時は、兄弟ができたみたいで、嬉しかったから、よく覚えてます」
「……」
タケルの言葉を聞いて、不意に僕の心に湧きおこる、父親のいないタケルを気遣う感情に、少し戸惑った。自分は家族には何の思い入れも持ってはいないのに、他人の家族のことが気にかかるのが不思議だったのだ。
「あなたが去った後、うちの海の家には、あなたを求めてたくさんの野次馬が来ました。あなたがあと数日、日本を出るのをためらっていたら、きっとあなたは大変なことになっていたでしょう」
「そうか……」
確かに目撃情報が漏れていたから、あの時ここに警察が来たんだ。野次馬だってネットがあればすぐに嗅ぎつけるか。
「――すまなかったね。君達一家にも迷惑をかけた」
「いえ」
そこでお互い一呼吸。
「しかし君、今はサッカーをしているんだってね。その体じゃ、結構いい線行っているんじゃないのか?」
僕は料理を口に運ぶ。
「――今、柏にあるプロサッカークラブのサテライトから勧誘を受けてます」
「へえ、すごいじゃないか。それじゃ県内じゃ相当有望な選手ってことだね」
「――そのことで、今は色々と、母さんや爺ちゃんと話し合っているんです」
タケルは一度器に口をつけて料理をかっこみ、それを飲み込んでから、また口を開く。
「あなたが日本を――この海を出てから、俺は母さんに手伝ってもらって、あなたの足跡を追いました。あなたがしていたサッカーや、学業のこと――色々。正直俺は、一緒に住んでいた時は、サクライさんがこんなにすごい人だって知らなくて……ガキすぎて、かなり失礼なこともしちゃって……今じゃ、過去の自分を殴りたいくらいです」
「――なるほど。君の緊張の原因はそれか」
僕はぷっと吹き出した。確かに、鼻の穴に指を突っ込まれて起こされたりしたこととか、仕事の後に動けなくなるまで遊んでとねだられたこととか――色々とあの頃のことを思いだす。
「でも――僕も楽しかったよ。僕も家族があんなだったから、何だか本当の家族ができたみたいで……って迷惑掛けた僕が言うのも変か」
何とも変なフォローを入れる僕。喋りが下手だと年下相手にリードするトークもできやしない。
「……」
沈黙。
「俺――サクライさんのことを、心の師と思って、目標にしてきました」
タケルが口を開いた。
「初めて言われたな……そんなこと」
今度は僕が少し面食らった。
「あなたがここを出ていってから、爺ちゃんに言われました。彼のことをいつまでも心に留めておけ。彼は本当に辛い選択をした。だが、彼は辛い時でも他人の痛みを考えられる人だった。それが人にとって、何よりも大切なことだから――爺ちゃんが僕にそう言ったんです」
「……」
どうやらこの一家にとって、たった一週間の来客は随分大きな足跡として残っていたらしい。
「そう爺ちゃんに言われてから、あなたがここに来る前のことを調べて――あなたに強く憧れて。まだモノマネの域を出ませんが、俺もサクライさんみたいになりたくて、今は頑張ってます」
「――そうか」
僕はいつしか空になっていた器をテトラポットの横に置いた。
「君は7年前、ママを守るのが将来の夢だと言っていた――覚えてる?」
「……」
タケルは器に視線を落とし、沈黙する。
「母さんは……」
話しにくいことなのか、タケルは一度口ごもる。
「母さんは、結婚前の同棲中に、俺を妊娠して、それを言ったら相手の男は出ていったそうです」
「……」
それは――ミチルがどうしてシングルマザーなのか、理由を聞くのは初めてだけど、13歳のタケルにはかなりヘビーな話だ。
「おろすこともできただろうし、父親への恨みもなかったわけじゃなかっただろうに……俺を産んで、辛くても1人で育ててくれた母さんには、今も感謝しています。その時サクライさんに言った、母さんを守るっていうのとは、違うかも知れませんが……母さんが俺を産んで、後悔をさせないようになりたいとは思います」
しっかりした受け答えだった。サッカーを随分頑張っているようだが、おそらくタケルは学業もなかなかに優秀だろう。
「小さい頃、俺がサクライさんに憧れたのも、母さんを守る道を探して、凄まじい力を持つあなたを追うことにその答えを見たのかも知れません」
「……」
僕はそんなタケルの言葉を聞いて。
タケルの、若く、ひたむきな故の危うさの存在に気付いた。
そして、ミチルが僕とタケルを二人にした理由も。
僕はテトラポットに倒れこむ。ごろごろしていて寝心地は悪い。星空を見上げると、もう見えるようになったオリオン座が、冬の訪れを教えていた。
「君が思う程、僕は大した男じゃない。実際の僕は7年前にここにいた時から、一歩も前に進めていない……何が大切かを見失ったまま、迷ってばかりなんだ。ここに来たのも、自分を見つめ直すために来たんだ」
「……」
「タケルくん、君がこの先何を大切と思うのもいい。ミチルさん以外のものでも構わない。だけど――君はそれを間違うな。見失うなよ」
僕は言った。
「確かに今、実の親が一番大切なんて言うのは照れ臭いかもしれない。大人になると、きっと変にカッコつけて、そういうことが下手くそになっていくんだ。だけど――それで大切なものを見失っちゃ駄目なんだ。だってさ、人が限界以上の力を出せるのは、自分より大切だと思える人がいることなんだからさ」
「……」
「僕は力を得たが、大切なものを見失った。今はそれを後悔してる――君がこの先、何を望んでもいいけれど、僕と同じ間違いをしないでくれ」
そう。きっと――ミチルはタケルに、僕の口からそれを伝えてほしかったのだろう。
タケルもミチルを守るくらいの力を求めている。だが、力があれば幸せになれるなんて、そういうものじゃないってことを、僕の口からタケルに伝えてほしかったんだ。
そして、それは……
「今はそれだけわかっていれば、きっと大丈夫さ」
言いながら、ふと思う。
いつの間にか僕も、誰かにものを教える歳になって――
今、僕が言ったこと。
それは本当は、タケルにではなく、7年前の僕に送りたい言葉だ。
ミチルも、ナオキも、きっと同じことを、7年前の僕に伝えたかったのだろうな。
砂浜に戻ると、タケルはおかわりをもらったが、さすがに僕はもう食べられない。まだ体の内部が回復していないから。
鍋は今はご飯を入れて、雑炊になって、全員に配られている。味噌味に何種類もの魚貝の出汁が出た雑炊だ。さぞ美味だろう。
砂浜にリュートと並んで座ると、トモミが紙コップに湯気の立つ紅茶を持って、僕の前にやってきた。
「ありがとう」
僕は紅茶に手を伸ばす。トモミに紅茶を入れてもらうのは初めてだ。さっきまで喋っていたから、少し喉が渇いていた。
「ん?」
少し近づくと、トモミの頬がほんのり赤く染まっているのが分かった。これはチークによる染まり方じゃない。
「お酒、飲んだんだね」
「あ、はい、ちょっとミチルさん達に勧められちゃって」
「……」
どうやら、トモミはミチルやあの民宿のお婆さんと仲良くなってしまったようだ。
「あのタケルくんって、昔の社長にそっくりですね」
「え?」
「髪型までそっくり……よっぽど社長に憧れてるんですね」
「……」
僕は鍋の前でナオキと何か話しこんでいるタケルを見る。確かに髪型とかは昔の僕と似ているが……学生時代の僕はあんな感じか?
「ケースケくん」
そんなタケルの様子を窺っている僕に、ミチルが近づいてきた。
「ありがとう、タケルも君と話せて、きっと喜んでいるだろう」
「いえ、そんな」
「サクライさん!」
するとまた声をかけられる。既に酒が入って陽気になっている漁師達が揃って僕の所へやってきたのだった。
「サクライさんのおかげで、今日は予期せぬ楽しい宴会を堪能できました。ありがとうございます」
「大した酒じゃないですが、どうかサクライさんも、一杯やってください」
そう言って、漁師の一人がコップに一升瓶の日本酒を注いで、僕に差し出した。
「あ、いや、僕達は東京から車で来ているので、帰りがありますし……」
僕はやんわりとそれを断ったが。
「何だ、それならさっき民宿のお爺ちゃんお婆ちゃんに話をしておいたよ。君達にご馳走になってしまったから、お礼にタダで部屋を用意してあげるって。よかったら、今日はパーッと楽しんで、泊まっていったら?」
「……」
別にお金のことは問題ではないが――今夜はここに泊まる、か……
――悪くないかな、それも。
「僕はそれでも構いませんけど――トモミさんはどうかな?」
僕は隣にいるトモミに確認を取る。
「社長と一緒なら、どこでも……」
「――そうか。じゃあ、僕も少しだけ。ほとんど下戸なんで、あまり飲めませんが」
そう言って僕は、漁師の手からコップを受け取り、それを一口飲んだ。