Darkness
――10月30日 18:30
「あ、社長」
夜も更けた砂浜に出てくると、トモミの声に出迎えられる。僕の姿を見つけて、リュートが僕の方へゆっくりと歩いてくる。
満天の星空の下、海の家に括り付けられているLEDのライトが、海の家の近くの砂浜を明るく照らしている。
釣り竿を貸してくれた民宿のお爺さんが、民宿から持ち出したテーブルの上に乗った大きな業務用ガスコンロの前にいて、大鍋をかき混ぜている。横では民宿のお婆さんとミチル、それを手伝うトモミが魚を捌き、野菜を適当にぶつ切りにしていた。
包丁を置いて、トモミがこちらへやってくる。
「あ……」
しかしトモミは僕の前に近付くと、息を漏らしてそのまま立ち止まった。
「――どうしたの?」
僕はそんなトモミの様子を訝しんだ。
「あ、いえ……」
トモミは慌ててかぶりを振った。
「……」
僕はそんなトモミのことを怪訝に思ったが、ここで立ち止まっていても仕方ない。さっきから気になっていたミチルや民宿のお婆さんのいる方へと歩を進める。
「ケースケくん、もう少しで夕食の準備ができるから、待っていてね」
魚を三枚に下ろし終えたミチルが僕に微笑みかけた。
「何か僕も手伝おうか?」
僕についてきたトモミに聞いてみる。
「いいですよ。社長に包丁使わせて怪我されても困るし……」
「あら? ケースケくんは料理も上手なのよ」
それを聞いていたミチルが口を挟んだ。
「え?」
「ケースケくんは私よりも料理上手いのよ。うちの海の家の定番メニューは、今もケースケくんの作ったレシピを使っているからね」
「……」
トモミは意外そうな目で僕を見る。
「その様子じゃ、ケースケくん、自炊してないわね」
「……」
「でもいいんですかねぇ、私達までご相伴に預かっちゃって」
民宿のお婆さんが手慣れた手つきで魚の鱗を落としながら言う。
「折角だし、海沿いだから食べられる料理を、ケースケくん達に振る舞いたいからな。それに使う業務用コンロとでかい鍋も借りちゃったし、調理まで頼んじまったし……食べていってくれ」
鍋の横にいるナオキが言った。
僕はお爺さんがおたまでかき混ぜている鍋の方へ行く。
鍋の中には、午後にトモミが釣った数種類の魚が、野菜と一緒に大振りのまま煮込まれている。味噌のいい香りがした。
「漁師の鍋だ。こうしてでかい鍋で一気に炊きだすのが美味いんだ」
鍋の味付けを担当するお爺さんが、息子にものを教えるような口調で言う。
確かにこれなら、入れぐいにかかった魚も一気に料理できる。何とも美味そうだ。
「釣った魚はお刺身や天ぷらにもするからね。期待していいわよ」
ミチルが得意げに言う。
「何だか懐かしいな……この砂浜で食事するのも」
僕は呟く。
「ちょっと寒いが、鍋をするにはまたおつなものだろ?」
ナオキが暗闇の中で、日焼けした肌に白い歯をのぞかせた。
トモミが切った野菜や魚をまな板に乗せて持ってくる。それをまるで土砂崩れのようにまな板を傾け、どぼどぼと鍋にぶちこむ。
「そろそろタケルも部活から帰る頃ね」
材料を全て鍋に入れ終わったので、女性陣も鍋の前に集結した。
「メールで、すごいお客様が来てるって送ってあるの。ケースケくんを見たら、きっとびっくりするわ」
ミチルは僕に微笑みかける。
「あの子、あなたに憧れてサッカーをはじめたのよ。あなたが日本を出た後、動画サイトなんかであなたのサッカーを見てね」
「……」
「あなたのことは小さい頃から尊敬してたから、何か話してあげて」
そう言われても……思春期にそんな人と会ったら、緊張のあまり避けてしまいそうな気がするが。思春期の自覚も、尊敬する人もいない(歴史上にはいくらかいるが)僕にはよくわからない。
「とりあえずケースケくんは、もうしばらく待っていたら?」
ミチルが僕に言った。どうやら手伝いは不要のようなので、邪魔にならないように僕は退散することにした。リュートもそれについてくる。
僕は波打ち際まで歩を進め、真っ暗になった海の方へ眼を向ける。白色の柔らかい月明かりがあるが、空も海も真っ暗な分、小さな星の光が鮮明だった。澄んだ空気と星空の見事さに、冬の訪れを感じる。
穏やかな潮騒の音が、7年前、ユータとジュンイチの3人で、この砂浜で飲んだ酒の味を思い出させる。
「……」
――あの時のユータもジュンイチも、全部分かっていたんだよな。
ナオキも、ミチルも――
そして、シオリも。
分かっていないのは、復讐に取りつかれた僕だけで。
「みんな願っているのは、社長が幸せになってほしいって、それだけ……」
「今のお前は、生きる意味を持っているか?」
「シオリさんのためにも、お前は笑って生きるんだ」
「どんなに時間がかかってもいいから、あなたは私が好きになった、サクライ・ケースケくんのままでいてください」
――ここ数日、誰かに言われた言葉が、海の底の泡のように、僕の身体に浮かび上がってきて。
そして、泡のように消えていってしまう。
僕の心に残響もなく。
「……」
シオリの言葉を7年ぶりに聞いて、僕は7年分の涙も枯れ果てるほどに泣き崩れて。
それが済んだ今、また僕の身体を、抗いようのない程の疲労が蝕んでいた。
僕のために泣いてくれた女、かけがえのない親友、かつて心から愛した女の願いが、今の僕には堪えるほどに重い。
それに気付くまでに、7年も待たせてしまった申し訳なさもそうだが……
その7年で、僕は随分と澱んでしまった。
シオリの声を、言葉を訊いて、僕の胸の奥は、半紙に墨汁を垂らしたように、何かが滲み、侵食し、心を染めていった。
だが、澱み、濁った心は、シオリの言葉が僕の心を何色に染め上げたのか、分からない。
だが、感覚だけは残っている。
昔、シオリはいつだって、その色に僕の心を染め上げていた。そんな気がする。
だが、今はそれを感じられない。
失って――失ったものが今では、分からなくなっている。
「気が付けたかい? 君のすぐ側に、光があったのだと」
さっき言われた、ナオキの言葉を思い出す。
7年前の僕は、きっと光に照らされていただろう。
だが、僕の心を闇に染める奴等が現れて。
それを断ち切ったら、また僕は戻れると思ったんだ。あの光の中へ。
「……」
今目の前にしている漆黒の海。
シオリやユータ達と離れる決断をした時、まるでこの海のような、一点の光もない更なる深い闇に足を踏み入れるようで、僕は表面上強がってはいたが、不安でいっぱいだった。
その結果がこの様だ。海に浮かべ、漂流した小舟のように、ただその闇の続く海に流され、今がどこなのかもわからなくなっている……
「ケースケくん」
ふいに後ろから声をかけられる。振り向くと、ミチルが笑顔を向けて、僕の方へ歩いてきていた。
「昔のこと、思い出してたの?」
「――ええ、まあ」
「ふぅん」
小さく合いの手を打つ。
「――昔の恋人のこと?」
「え?」
「――分かるわよ。トモミさんが外にいる間、ずっとあなたが早く出てこないか、そわそわしていたし、あなたも目の周り、涙を拭いた跡だらけだし」
「……」
そうか。トモミが出てきた時、僕を見て空気を澱ませた理由が分かった。僕の顔を見て、シオリのことで泣き腫らしたと、一目でわかってしまったからだったんだな。
「すごくいい娘ね。トモミさんって。育ちがよさそうなのに、全然お高く止まってなくて。とっても優しい娘だって、私は感じたけど」
ミチルは言った。
「お料理を手伝っている間に、いろいろ話をしたの。本人は隠していたみたいだけれど、もう、あなたにどうしようもないくらい恋をしているんだって、すぐ分かったわ」
「……」
「今のあなたの様子を見ると、まだ友達以上恋人未満、って感じね。この海に来たのも、真面目なあなたのことだから、そんな中途半端な関係じゃなく、けじめをつけたかったんでしょう? トモミさんか、昔の恋人か」
「――まあ、そんなところです」
ミチルの慧眼に、僕は素直に脱帽した。
「私はあなたの昔の恋人のことは知らないけれど、トモミさんを応援しちゃうな。聞けば聞くほど、健気で初々しくて、可愛いなぁ、って思っちゃったから」
「……」
――そうだよな。普通、僕のこの有様を見たら、7年前の英雄像を抱いていた女性は、皆今の僕の体たらくに幻滅するだろう。
だが、トモミはそんな僕でも好きだと言ってくれた。
僕なんかにそんなことを言ってくれる女の子なんて、そうはいないぞ。しかもトモミは、シオリとはタイプは違うけれど、美人だし……
「おーう、ナオキ」
背後から大声が聞こえる。僕達は海の家の後ろの防波堤の方を振り向く。
防波堤の上に数台の軽トラックが止まり、屈強な男達が手を振っている。男達は防波堤から降りてくる。
「お、美味そうだなぁ」
男達は鍋をのぞく。格好を見るかぎり、漁師のようだ。
「今日はどうでした?」
ミチルが男達にそう聞いた。今日の釣果を聞いているのだろう。
「大漁大漁! いい魚がかかったよ」
先頭の一人がほくほく顔で言う。
「そっちも鍋か。しかし随分沢山魚が入っているんだな。こんなに一体、どうしたんだ?」
「東京から来た客人が釣ってきたんだよ。東京じゃこういう飯は食えないだろうと思ってな」
言いながら、ナオキは僕の方を見る。
「お前らも挨拶したらどうだ? この海に生きる者なら、みんな恩を受けている人だぞ」
そう言われると、男達の目が一斉に僕に向く。
「あ……あなたは、サクライ・ケースケ!」
先頭の一人はすぐに僕に気が付いた。
「ほ、ホンモノですか!」
「な……何でこんなところに?」
反応を見るかぎり、ナオキ達は7年前に僕をここでかくまっていたことを、誰にも話していないようだった。
「いやぁ……」
僕は当惑する。
しかし男達は、僕と気が付くと、突然僕の前に集合し、一斉に砂浜に手を付いた。
「え?」
まるでご家老の印籠でも見せられたかのように、一斉にひれ伏す人々を見て、当惑していた僕はぎょっとする。
「二年程前から、グランローズマリーの方が、このあたりの海の清掃や汚染浄化をしていただいているおかげで、この港の水揚げも上がりました。夏には砂浜でコンサートなど、イベントも行ってくれて、観光客も増えました」
「……」
そう、この海に恩と、騒ぎを起こした詫びの気持ちを感じていた僕は、この海に個人資産から投資をして、海の浄化を行った。客が集まればナオキ達も喜ぶと考え、夏にはコンサートもこの砂浜で行った。
「ここに住む人間を代表して、お礼申し上げます」
男達は砂浜に頭を付ける。
「いえ、そんな……どうか頭を上げてください」
僕は困惑する。
「あ、そうだ! ちょ、ちょっと待っててください!」
漁師の一人がすぐに頭を上げると、堤防の上に止めていた車の方へ走って、戻って来ると、発泡スチロールの箱を抱えていて、それを僕に差しだす。
中には寿司屋のケースに並ぶような、見事な鯛が入っていた。
「そ、それなら、俺も」
男達は一目散に駆け出して、防波堤の方へ駆け出していく。そしてすぐにトラックに乗せてあった、平目やらシマアジやらの高級魚に、帆立やサザエ等の貝の入った発泡スチロールの箱を差しだした。
「私達からのお礼です。どうか召し上がってください」
「そんな……これは皆さんがご家族と食べるものでしょう?」
まるで時代劇に出てくる悪い領主みたいだ。農民から貢ぎ物を受けているような……
その様子を見ているトモミが肩を少しすくめる仕草をした。
「まいったな……」
僕は夜空を仰ぎながら、息をついた。
そして、後ろで鍋の番をしているナオキとお爺さんに聞いた。
「まだ人数が増えても大丈夫ですか?」
「え?」
「材料が足りないなら、僕がお金を出しますので……」
後ろの男達がざわめく。
「よろしければ、皆さんもご家族を連れて、ここで一緒に鍋をしませんか?」
えー、一か月も更新せずに申し訳ありませんでした。作者の事情で更新をする余裕がなくて…
この語も更新頻度はどうなるかわかりませんが、応援してくれる方がいる限りは頑張って書き続けたいと思っておりますので。