Voice
『久し振り――だね。と言っても、テープじゃ、私が一方的に喋るだけだけど……』
「……」
当時のシオリにとって、この『久しぶり』という言葉は、僕が埼玉高校から逃げだしてから、10日前後を意味しているのだが。
その声を聞いた瞬間、僕には、久し振り、なんてものじゃない。一日千秋という言葉の意味が、生まれて初めて実感できた気がした。
その声を聞いただけで、体が軽く震え、小さな器に大甕一杯の水を一気に注ぎ込んだように、じわりとしたものが心臓から体中に溢れてくるのを感じた。
この7年、何度、彼女の声をせめて一言だけでも、と思ったことだろう。録音で、今の自分に言っている言葉ではないことも分かっているのに、体が静かに、強く揺り動かされる。
『……』
だが、まるで僕のその願いを叶え終わったかのように、テープ越しのシオリは沈黙してしまう。
その沈黙が、僕に当時の記憶を思い起こさせ、僕は舞い上がったような頭が一気に冷えた。
鎮痛で、残酷なまでの沈黙。彼女の苦悩、葛藤、不安――そんなものを雄弁に語ってしまう沈黙だ。
当時のシオリの痛々しいまでの心の傷の深さを、何よりも物語っている……
『えっと――まずは、私、あなたに謝らないといけないね……』
沈黙が明ける。
『――ごめんなさい。私、あなたの許可なしに、あなたから預かったMDを、世間にばら撒いたから。このことで、あなたの予定していた将来が、違った方向に進んでしまったのなら――本当に、ごめんなさい』
その後、先程よりも短いが、シオリが言葉を詰まらせる一瞬の沈黙。
『えへへ――な、何だか、おかしいな』
「……」
あぁ――この、「えへへ」っていう、彼女の照れ笑い。
懐かしい……
数あるシオリの表情の中で、僕はこの照れ笑いを浮かべるシオリが一番好きだった。この笑顔が見たくて、シオリに子供っぽいからかい方をして、困らせたりして。
『話したいことが、いっぱいあるはずなのに……自分の口下手が、嫌になっちゃうな……』
――だが、その笑顔が本当の笑顔でないことくらい、声でわかる。
彼女の淀みのない透明な声が、こうしてイヤホン越しに聞くと、呼吸が乱れ、震えるような不安の吐息が漏れているのを感じていたからだ。
『……』
沈黙。
『――戻ってきて』
そして、そう言ったシオリの声は、悲壮感に満ちていた。
『きっとあなたは今、自分を責めていると思う。私を、殴っちゃったこと、ずっと――あなたは、そういう人――本当は、優しい人だから。その優しさが強過ぎて、あの時はああいう形になっちゃったけれど――でも、あの時、あなたがご両親に従うと言っても、私があなたのご両親に逆らったのは、勝手にしたことだし――私が話をややこしくして、あなたを困らせちゃったからね。だから――あなただけが気に病まないで。おあいこにしようよ。ね』
「……」
『多分――こんなことになって、あなたも戻りづらいのは分かるわ。でも――あなたはひとりぼっちじゃないから。エンドウくんも、ヒラヤマくんも、マイも、あなたの味方をしてくれる。それに、私も――あなたが今、とても辛くて、立ち上がれないくらいの痛みを抱えていたら、私、頑張って、あなたを支えるわ。泣きたくなったら、あなたが泣き止むまで、ずっとあなたを抱きしめるから』
「……」
『私、約束したもの。あなたの悲しみ、苦しみに、いつまでも寄り添う、って――』『約束したじゃない。秋になったら、二人で、竜胆の花を見に行こう、って。私は、今でもあなたとそうしたいと、思っているから……だって、私は今も、あなたのことを……』
「……」
――7年前は、ここまで聞いて、彼女の優しい言葉が胸に痛くて――
ボロボロだった心を、復讐の二文字を頼りに必死につなぎとめていた心のタガが外れて、シオリを壊してしまう程に求めてしまいそうで、停止ボタンを押した。
だが――シオリもそこで言葉を止めたのだった。
そして。
『――ごめんなさい。あなたは今、それどころじゃないんだよね。私、そんなあなたに、自分の気持ちばっかり押し付けちゃって――』
当時のシオリも、感情を暴走させていたのだろう。
まだ17歳の女の子だったシオリの、あの華奢な胸に、この時どんな感情が宿っていたのか――当時の僕は、自分のことで手いっぱいで、それを考える余裕もなかったけれど……
『――ふぅ……』
息を整える深呼吸が聞こえる。
『――えっとね。正直言うとね、私はあなたの恋人になれてから、ずっと、ずっと悔しいな、って思うことがあったの』
やがて呼吸を持ち直したシオリは、さっきまでの悲壮に満ちた声を随分と平静にまで持ち直して、ゆっくりした口調で話し始めた。
『私は家族や兄弟にも恵まれて、これまで大きな悩みもなく過ごすことができた。だから、今までずっと辛い思いをして生きてきたあなたの痛みや苦しみを、全部は理解できないってことを思い知って――それがちょっと悔しかったの。私は――誰かを殺したいほど憎んだことも、怒りで周りがまったく見えなくなるっていう経験をしたことがないから……』
「……」
『でも、あなたがあの時、教室でお父様に殴られたのを見た時、あなたが味わってきた気持ちがほんの少しだけど、分かったような気がしたの。あなたが殴られたのを見た時、私――心が壊れちゃうんじゃないかってくらいに、胸が痛くなったの……陳腐な言い方だけど、すごく嫌な気持ちになった。あの時あなたのお父様に抱いた気持ち――ああいうのを、殺意、っていうのか、分からないけれど……』
「……」
『あなたは、そんな気持ちを今まで、日常的に味わってきたんだよね。そして、あの教室で、あなたは大切なものをいっぱい傷つけられて……私なんかじゃ、想像もできないくらい、すごい痛みだったと思う。今もあなたがそんな痛みを味わっているって思うと、何かしてあげたいって……せめて、あなたを抱きしめてあげたいって……』
「……」
『でも、私、あの教室では、正直、あなたのお父さんが怖くて、足が竦んじゃってたの。頭も全然動かなくて――でも、何かしなきゃ、ケースケくんを守らなきゃ、って、気持ちばっかり焦っちゃって――それで、あんなことをしちゃって……そんな私の勝手な行動で、今、あなたはすごく自分を責めているんだと思って。そんなあなたに、私の精いっぱいの声を届けたかったの。本当は、あなたにすごく逢いたいけれど、今の私が行ったら、あなたがまた混乱しちゃうかもしれない――でも、MDならあなたの心のタイミングを選べるんじゃないかと思って――』
「……」
『もしこれをあなたが聞いている今――今は、私の声なんか、聴いている余裕もないかもしれない。今すぐに私の言葉の全てを聞き入れてとは言いません。ただ――私の言葉をあなたの心のどこかに住まわせて、時々でいいから、思い出してほしいから――』
「……」
『私は――サクライ・ケースケくんを、愛しています』
「……」
『今のあなたは、私を殴ってしまって、私があなたを恨んでいるんじゃないかって、思っているかも知れないけれど――あなたと出会って、お話して、恋に落ちて――あなたとの思い出の全てが、私に初めての気持ちをいっぱいくれました。今回のことが、こんな悲しいことになってしまっても、私は、サクライ・ケースケくんを愛したことを、後悔していないから』
「……」
『嬉しい時は、心から嬉しそうな顔をして、楽しい時は、子供みたいに純真無垢な目をして――嘘がつけない、正直な人で、自分が苦しくても、他人の苦しみに涙を流してあげられる――頭がいいのに、駆け引きとかできなくて、不器用な優しさをくれる、そんなあなたが初恋の相手で、本当に良かった。そんなあなたが、私のことを大事に思ってくれたこと、ちゃんと伝わっていたよ。すごく嬉しかった』
「……」
『ありがとう……あなたと恋人になれた日から、私、ずっと幸せでした』
「……」
『そう言っても、あなたが私から離れたいというのであれば――無理に引き留めることはできない……』
「……」
『――ごめん、嘘です。もしかしたら、みっともなく泣いて、みっともなくすがりついちゃうかも。あなたが私といるのが苦しいなら、それも仕方ないって頭に言い聞かせなくちゃ、とは思うけれど……私って、子供だよね。えへへ……』
「……」
『――ただ、あなたがこれからも、私と一緒にいるかいないかは、多分そんなに重要なことではないんです』
「……」
『今すぐにとは言いません。どんなに時間がかかってもいいから、あなたはそんな、私が好きになった、私が知っているサクライ・ケースケくんでいてください。家族への復讐がくだらないとか、そんなことは私は言えないけれど――いつかあなたは、サッカーをしていた時、エンドウくん達と一緒にバカなことをしていた時の笑顔を、絶対に取り戻してください』
「……」
「一度私達と距離を置きたいのなら、私、いつまでも待ちます。でも、離れても、あなたはひとりぼっちじゃない――どんなに無茶をして、疲れ果ててしまっても、あなたには、休むために帰る場所があるから。辛かったら、いつでも帰ってきてください」
沈黙。
『――ふぅ』
溜め息。
『――ごめんね、口下手で、少し要領を得ないね……でも、撮り直しても、何だか台本読んでいるみたいで嘘っぽくなりそうだから――こんな感じかな』
「……」
『長いスピーチは嫌われるっていうから、いい加減に、終わりにするね。体を壊さないように、気を付けて。あなたのその笑顔がいつまでも、清らかであることを祈っています』
「……」
『ありがとう』
その言葉が響くと。
MDのチャプター機能で、シオリの声以外、何も録音されていないMDは、ぷつりと音声が途切れ、雑音さえも聞こえなくなった。
沈黙。
「――っ……」
僕はちゃぶ台に突っ伏して、台の上にボロボロと大粒の涙をこぼし、声が漏れないように、嗚咽を必死にこらえて泣いた。
大の大人が、みっともないとわかっていても、涙を止めることができなかった。
何でことをしてしまったんだ……
僕は、こんな娘に、あんな酷い手紙を送ってしまったんだ。
最後の最後まで、彼女は僕の幸せを願ってくれたのに。
自分の初恋が終わることよりも、僕にまた笑顔が宿る方がずっと大事だと。
そんな想いを、元々口下手なのに、一生懸命に言葉を紡いで。
僕は、そんな彼女の気持ちも、何も知らないで……
「……」
あの頃の自分に、彼女を守る力も、彼女を笑顔にできる力もなかった。
今考えても、その結論は変わらない。
でも、シオリはそんな僕でも、自分の側にいてほしかったんだ。
必要としてくれたんだ。
なのに……
――僕は何をやっていたんだ。
初めから聞き分けのいい大人を気取って、大切なものを捨ててしまって。
シオリを幸せにすることができないのなら、自分がシオリに語った夢――力弱き人をこの手で救うという夢を叶えることが、シオリへのせめてもの償いだと思っていたが。
そうじゃない……シオリを何が何でも幸せにしてやるために、最後の最後まであがき続けていればよかったのか?
シオリは、僕が地獄に落ちるなら、自分も一緒に地獄へ落ちる覚悟ができていたのか?
今となっては、もうわからない……今聞いた言葉は、シオリが7年前の僕に充てた言葉だ。今の僕――今の彼女じゃない。
「……」
取り返しのつかないことをしてしまった。
こんなにも僕を愛してくれた女の子の手を、僕は振り払った。
でも――間違っていたのは僕だ。
怒りや憎しみに囚われて、だけど大切な人には弱みを見せたくなくて、また僕のせいで大切な人を傷つけるのが怖くて。
僕は逃げていた。何もわかっていなかったんだ。