Rebirth
――10月30日 PM5:15
「ケースケくんか? 随分背が伸びたんだな」
ナオキが感心するように言った。大体僕に久し振りに会う人は、まず僕の背に言及する。その反応にはさすがにもう慣れた。
「お久しぶりです」
僕は釣竿を置いて、深めに頭を下げる。
「ケースケくん……って呼んでいいのかな?」
ミチルが複雑そうに首を傾げる。
「あなたはもう十分大人だし――7年前よりもずっと出世しちゃって、私達なんかがそんな子供みたいな呼び方しちゃっていいのかな、って」
「……」
僕の今の地位は、他の人間に威圧感と畏怖を与えてしまう。そんなことはわかっているのだけれど……
そのミチルの言葉の3秒後、僕の横にいるリュートが、ワン、と吠えた。
「――あはは、遠慮は無用、俺にも――だそうです」
本当によく出来た犬だ。本当にそう言っているようなタイミングで吠えるんだから。
「ふふ、よくわかったわ。相変わらずなのね。リュートくんも、あなたも」
ミチルが可笑しそうに、安心したように笑った。
「民宿のお爺さんから、我々に客が来ていると聞いて――随分と待たせたようだね」
ナオキが言った。リュートのおかげで場は和んだが、それでも多少の恐縮があるようだった。
「いえ。ここにはほとんど押し掛けで来たので……」
「そちらのすごく綺麗な方は、恋人かしら?」
ミチルがいたずらっぽく聞いてくる。
「いえ、彼女は……」
僕は後ろにいるトモミを振り返る。
「あ、こちら、あそこの海の家のナオキさんとミチルさん。僕が日本を出る前、世話になったんだ」
僕が紹介すると、トモミは二人に会釈した。
「彼女は、僕の秘書をしてもらっている、友人のヨシザワ・トモミさんです」
ややこしい関係だ。言ってみて、それを感じる。
「秘書さんか。そっか、ケースケくんはもう秘書さんもいるのね」
「取りあえず、上がっていったらどうだい? 長い時間待っていて、体が冷えてしまっただろう? お茶でも淹れよう」
「わ、すごいわね。大漁じゃない」
クーラーボックスの中を見て、ミチルは呆れ半分に言った。
「……」
トモミはさっきから、ミチルのことが気になっているらしい。確かにミチルはスポーツをやっているからか、見た目は僕達と同世代と言ってもおかしくないくらい若々しいし、何よりまるでモデルのように体のラインを持っている。同じ女性として、あのボディラインに憧れるのも無理はない、か?
ミチルはお茶を淹れに台所へ。僕はナオキ、トモミと居間に通された。畳の上に座布団を敷いて、胡坐を掻くなんて、久し振りだ。
「あの、タケルくんは?」
僕は訊く。
「まだ部活中じゃないかな?」
「部活……タケルくんは今、いくつでしたっけ」
「中1だ。タケルは君に憧れて、サッカーをはじめた。今じゃ千葉でも有名なプレーヤーだ」
「へぇ……それは」
笑みが漏れる。
「君は7年前、タケルが眠ってしまった真夜中に、ここを出て行ったね。その翌日、タケルが目を覚ましたら、兄のように慕っていた君が出て行ったと言ったら、大泣きしてね……」
ナオキの苦笑いが、当時のタケルの悲嘆っぷりを物語っていた。
「しかし、そのうちタケルも君が日本中を騒がせるような有名人だったことを知ってね。私達は改めてパソコンで君がサッカーをしている映像を見せたんだ。それ以来、君にすっかり影響を受けてしまってね」
「……」
タケル――僕がここで過ごしたのは、ほんの十日足らずだったが、あんな荒みきった出来事の後に、僕に懐いてくれるタケルの存在は、僅かに僕の心を和ませた。僕も彼のことを、本当の弟のように思っていた。そんな彼が、今も僕のことを覚えていてくれるのは嬉しかった。当時のタケルはまだ小さかったし、僕のことなどもう忘れてしまったかと思っていたから。
そんなことを考えていると、横目に話に入れないでいるトモミの姿が目に入る。
「あ、タケルくんってのは、さっきのミチルさんの息子さん」
僕はトモミに説明した。
「え! 息子? 中学生の?」
トモミは素で驚いている。
「お待たせ」
ミチルがその折、急須と湯呑みの乗ったお盆を持ってくる。
膝を曲げ、急須から湯呑みへ茶を注ぐミチルの仕草を、トモミはじっと見ていた。
「あの……すごくお綺麗ですね」
トモミは言った。
「え? あぁ……ありがとうございます。でもあなたもすごくお綺麗ですよ」
ミチルはにこりと笑う。
「もしかして、私がケースケくんの昔の女だって、思ったりしたの?」
ミチルがまたいたずらっぽく言った。
「えっ?」
「ふふ――あなた、初めに見た時から、私に対して疑問を抱いているような眼をしていたから」
「あ……」
トモミはがくりと肩を落とす。
「――大変失礼しました。非礼をお詫びします」
「ふふふ、一途なのもいいけど、重くなっちゃうと……ね。あなたの素敵さを損なっちゃうわ。気をつけてね」
「は、はい」
ミチルの恋愛遍歴を、僕もよくは知らないけれど、ミチルの言葉は妙に説得力があった。
僕は居間を見回す。
「何か……あまり変わってないですね、ここ」
ここにいたのはほんの一週間ほどだったが、よく覚えている。居間の外の海の見える縁側も、この家の2階の、僕に与えられた小さな部屋も、ちょっと古めかしい家の臭いも。
「ねぇ、ケースケくん」
ミチルがお茶の注がれた湯呑みを、横に並んで座る僕とトモミに差し出すと、僕の前に一通の茶封筒を差し出した。
僕はそれを手に取り、中を開けてみると、そこには一枚の小切手があった。額面は1000万円。
「あなたに、返すわ」
「……」
「1年前、あなたの手紙と一緒にこれが送られてきて。一宿一飯の恩返しに、これで海の家の改装でもしてくれって書いてあったけど、さすがに額が額だし私もお父さんも腰が抜けたわ」
「……」
そう、この小切手は一年前、日本での仕事の基盤が固まりかけた頃に、僕が送ったものだ。書簡を介してだけでは金銭のやりとりは難しいから、いずれは僕から会いに行かねばと思っていたのだけれど、仕事が忙しくて、結局一年間、会いに行くことも出来なかった。
僕がこの家がまるで変化していないと言ったのはそういう背景だ。居住区も海の家も、改築をした形跡はない。ただ外装のペンキを塗り直しただけだ。僕の送ったお金に手を付けていないと、その海の家の姿を初めて見た時から、僕は予感していた。
「いえ、タケルくんを含めて、僕はお二人には感謝しています。それから、贖罪の念も……」
「……」
「あの時、偽名まで使っていた僕を匿い、住まわせてくれて……海外に出てみたらという選択肢をくれたのも、お二人ですし」
「偽名?」
トモミが僕の横顔を伺う。
「学校から逃げてきた僕は、素性を隠すために、偽名を使わざるを得なかったんだ。確かユーイチと名乗った」
「ユーイチ……」
その名前が、誰を参考にしたか、トモミはすぐ理解したようだった。
「正直、体よく皆さんを利用する形になったことに、罪悪感はありました。皆さんは優しくて、それが僕に安らぎを与える度に、それが募りました。そして、ナオキさん達がいなければ、今の僕の充実はなかったでしょう」
「……」
「陳腐な言葉ですが、どうか恩返しをさせてください。あの頃には何も出来なかったから……」
――本当に陳腐だな。自分で言いながら思う。
「今は、充実しているのかい?」
ナオキが口を開く。
「君はもう、ここに用はないはずだ。君は迷いがあるからここに来たのではないか?」
「……」
迷い。
僕に出来ること、望むもの、守りたいもの。
この7年、力だけを求めて、結果、財界では一角の人間にはなれた。
だけど……人を心から笑顔にする力はない。恩返しすら、金銭にまで価値を堕落させることしかできなくて。
「ここを出て、5年、海外で何かを掴みたくて、必死にやってきました。そして――」
「君の言っていた、家族への復讐も、終わった――」
ナオキが腕を組む。
「雑誌で見たわ。あなたの家族のこと――」
ミチルが言った。
「それも一段落して――やっと自分の人生を見つめ直すことができるようになりました。海外で得たものも大きかったですが、失ったものもあります。今になって、得たものと失ったもの、どちらが自分にとって大事なものだったのか……」
「……」
別にこの人達のせいで、僕は海外に出たとか、この人達の余計な一言が、僕に道を踏み外させたとか、そんなことを言う気でここに来たのではない。
あの頃の僕に安住の地などなく、日本を出るというのは、あの頃に出来る最高の手段だったように、今でも思っている。
あのまま表舞台に戻って大学に行くなりサッカーなりをしていたら、いずれは僕は周りの評価を失っていただろうし、僕自身もそれに潰されていただろう。
運も絡んでいたけれど、日本に残っていても、今よりも高い地位に立つことは、まず不可能だったろう。
自分が今、世間一般の基準で幸せか不幸かと言われたら、間違いなく幸せだろう。それだって、よくわかっている。金も地位もあるし、力だって――定義次第では、ある。
僕の悩みだって、旅先で見たような、明日食べる物もない人の悩みに比べたら、微々たるものだ。贅沢で、勝手な悩みだ。それも、分かっている。
「ふ――安心したわ」
ミチルが口を開く。
「正直私は、いまだにあなたがご家族への復讐に生きたなんて、いまだに想像できないもの。私達と過ごしている間、あなたは本当に優しい人だったもの。タケルもあの頃はあなたにべったりで……」
「……」
「だから、あなたがこの先も憎しみを抱えて生きるのだとしたら、あなたが歪んでしまわないようにと思っていたけれど……あなたが全然歪んでいないのを見て、安心したのよ」
「……」
「本当に頑張ったわね……辛いことばかりだったと思うけど……」
「……」
沈黙。
「君は、まだ力を求めるのかい?」
ナオキが口を開いた。
「え?」
「7年前の君は日本を出る決断をしたが、その時、君は闇に取りつかれていた。静かだが、激しい怒りに突き動かされていた。今も君は、闇の中にいるのかい? それとも旅に出て、何か君の光となるものは見つかったのかい?」
「……」
「それとも――気が付けたかい? あの時、君のすぐ側に光があったんだと」
「……」
そのナオキの言葉が、ずしりと心の真ん中を射抜いた。
「そうだと思います。僕があの時、本当に大切だと思えるものは、目の前にあったのに――あの頃はそれが見えていなかった。それを捨ててしまったんですね……」
「それは違うな」
ナオキの声は優しかった。
「守りたかったんだろう。大切なものを」
「……」
「ここを出る時も、君は言っていたぞ。僕のせいで、私達をパニックに巻き込むわけにはいかない、と。君は我々を守ろうとしてくれた――ここに来た君の友人も、故郷に残した大切な人達も、自分のせいで傷つけたくはなかったんだろう?」
「……」
「なぁケースケくん。君はあの時、自分の無力さを憎んで、強い力を求めていたが……あの頃の君は、十分強かったんじゃないかな」
「え?」
「誰かを守ろうと思えること――自分が辛い時にも、誰かの幸せを願えること、他人が傷つくくらいなら、自分が傷つくことを選べることは、本当の強さなんじゃないか? 今なら、そうは考えられないかな?」
「……」
そのナオキの優しい口調が、僕にはっきりと悟らせた。
きっと、ナオキは今の言葉を7年前の僕に伝えたかったのだろう。
だが、7年前の僕が、それをまだ理解できなかっただろうことも、ナオキもミチルもわかっていたんだ。僕が家族に対して激しい怒りを抱いていて、真っ暗な暗闇の中で、僕を照らすわずかな光も、求める夢も見えなくなっていた、7年前の僕では。
「それが少しでも分かるようになっていれば、君のこの7年は、きっと無駄じゃなかったはずさ。そして、君は辛い思いを乗り越えた分、誰かの痛みがよくわかるようになっただろう」
「……」
あぁ、そうか。この人達が、僕に海外に出てみろと言った理由が、やっとわかった。
厳しい道になるけれど、あの時、他人を思いやる強さを持っていた僕なら、きっと大丈夫だと。それを乗り越えた時、僕は本当の強さを身につけているだろうと思って、言ってくれたんじゃないか――そんな気がした。
今は間違った道を進むかもしれない。だが、怒りや憎しみに囚われても、自分なりに大切な人を守ることを最優先で考えることのできた僕なら、多少回り道しても、また立ち上がって、やり直すことができると、信じてくれたんだ。
それは多分、ユータとジュンイチも……
僕を信じていたからこそ、僕のその決断に賛同も反対もしなかったんだ。今はやりたいようにやらせてやって、そうして答えを見つけ出せればそれでいい、と。
「ケースケくん。間違いは誰にでもあるわ。迷ったり、回り道をすることも――時には転ぶこともあるわ。でもね、その度に、何度だって立ち上がってやり直せばいいのよ」
ミチルが僕に言ったその言葉が、僕の心の底に、日毎雪のように降り積もっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。
まだ――僕はやり直せるのかな。
こんな僕だけど、大切な人がいるのなら、そばにいてもいいかな……
「ケースケくん」
僕とちゃぶ台を挟んで正対していたミチルは、僕の前に手を伸ばして、ちゃぶ台に何かを置いて見せた。
それは、埃除けのビニール袋にケースに入って大切に保存されているMDだった。
「これは……」
「そうよ、7年前、あなたに届けられたっていうMD」
ミチルは頷いた。
「あなた、これをうちのゴミ箱に捨てていたけれど、私、あなたはまた道に迷ってここに来るような気がして――その時、このMDがあった方がいいんじゃないかと思って、取っておいたの」
「……」
「あ、もちろん私達はみんな中身は訊いていないから。安心して」
ミチルはそう言って、笑みを浮かべた。
「……」
――このMDには、彼女の肉声が入っている。
この7年、ずっと彼女の一言に飢えていた。彼女は僕が辛い時、くじけそうな時、嬉しい時、いつだって僕が一番欲しい言葉をくれた。そのおかげで僕は頑張り続けることができた。それを失ったこの7年、何度彼女の声を聞きたいと思ったことだろう。
一度聞いている音声とは言え、もう一度、彼女の声が聞けるのか……
「MDプレーヤーも貸すから、ここでゆっくり聞いていくといいわ」
そう言って、ミチルはゆっくりと腰を上げる。
「――あなたがそれを聞いている間、私、あなた達が釣ったお魚、民宿のご夫婦と一緒に料理しておくわ。こんなに釣れたんだし、今日は浜で盛大なご馳走と行きましょうよ。今日はゆっくりしていけばいいわ」
「……」
「さて、じゃあ私も、民宿のご夫婦に顔を出してくるか……」
ナオキもミチルに促されるように腰を上げ、今を出て行った。
「……」
MDを食い入るように見つめている僕を見て、横に座るトモミは複雑そうな面持ちで、僕を見ていた。
「トモミさん、もし暇なら、お料理を手伝ってくれないかしら」
そんなトモミを見て、ミチルは今の敷居から一歩出たところから、トモミに声をかけた。
「あ――は、はい、やらせてください」
ミチルのその声を聞いて、今は僕をそっとさせておいてやるべきだとトモミは思ったのだろう。やや慌ててその場を立って、今の敷居をまたいだ。
「じゃあケースケくん、少ししたらごはんも出来ているでしょうから。気が向いたら浜に出てきてね」
「――はい」
そう言って、ミチルはトモミを連れて、今を出て行った。
玄関の引き戸が閉まる音。
家に僕一人が残される。敷居の向こうの窓から、うっすらと薄暮の光が差し込んでくる。窓の外には海が見え、もう太陽は水面に頭頂部だけを出して、水平線の向こうを僅かに照らしているだけだった。
「……」
ちゃぶ台の上に置かれたMD、ウォークマン、イヤホン。
僕はMDに手を伸ばす。
正直言って、僕はこのMDの中身を再び聞くのが怖かった。
彼女の声が聞きたい気は勿論あったが、それを聞いてしまうと、僕は何かが壊れてしまいそうで……
そんな葛藤が、僕を逡巡させる。
これを聞いたら、僕の見る世界は変わってしまうのだろうか……
だが、僕は今、トモミと彼女を両天秤にかけ、片一方のトモミを待たせているのだ。
トモミのためにも、僕は彼女ともしっかり向き合って、二人の間での葛藤に向き合わなければならない。
ふう、と、深い息をついて、心を落ち着ける。
僕はMDをケースから取り出して、ウォークマンに入れて、イヤホンを耳に差し込む。MDなんて数年ぶりに触った。懐かしい所作だった。
一度大きく唾を飲み込んでから、僕は再生ボタンを押した。
『あ……』
現代のオーディオに比べると、多少ザーッという雑音が多いその音声。
『――元気でいますか?』
だけど、そんな音声の中で、はっきりと聞こえた。
静かで穏やかで優しい、少し鼻にかかるような甘い、マツオカ・シオリの声が。