Modest
――10月30日 PM2:00
しばらく海を眺めていたが、トモミもいる手前、いつまでもそれだけで過ごすわけにもいかない。
海辺の近くに小さな民宿があり、僕達はそこに入った。平屋の古い建物だ。
民宿は入り口が食堂も兼ねていて、どうやら宿泊客以外にも料理を食べさせてくれるらしい。僕達は二人とも、名物の海鮮丼を食べた。表の立て看板に自慢のメニューと書いてあったからだ。
元々卓も全て合わせて20もないのだが、客はもう僕達以外にはなく、特別にリュートも食堂に入れてもらい、リュートにも、蟹の味噌汁をかけたご飯を出してくれた。
「美味しい!」
トモミがそう声を上げるほど、海鮮丼は美味だった。ウニやイクラも贅沢に乗り、赤身の刺身はとろけるように脂が乗り、白身の魚はぷりぷりした歯ごたえで、文句のつけようがない。
「ありがとうございます」
民宿は、老夫婦が二人で経営していて、二人とも今は食堂にいた。お爺さんは厨房で、お婆さんが僕達にお茶を入れてくれた。
「お二人は、夫婦ですか?」
お婆さんがお茶を僕達の前に出すついでに、そう訊いた。
「え?」「う……」
二人とも、どう答えていいのかわからず沈黙した。違うのはお互いわかっているのに、友達と言うのも変だし、仕事仲間と言うのも味気ない気がして、何故か答えられなかった。
「あら、何かワケありのようですね……」
お婆さんは気色ばむ僕達を見て、まだ若者の青さを可愛いものでも見るように笑った。
そしてその後、お婆さんは僕の目をしげしげと眺めてから、トモミに向けてニコリと微笑みかけた。
「あなた、こんな優しそうな人、逃しちゃダメですよ」
「は、はぁ……」
トモミは呆気にとられたように、目をぱちくりさせた。
「優しそうな人って……僕のことですか?」
僕はお婆さんに聞いた。
「この歳になるとね、顔が見えない人には騙されちゃっても、顔が見える人には騙されないものなんですよ。お客様の目、とても優しいですもの。悪いこととか、嘘が苦手な人の目です」
「お婆ちゃん、すごい! 大正解です! さすがですね」
トモミが声を上げた。
「……」
このお婆さんに、僕は昔、家族を半殺しになるまで殴って、親を足蹴にしたなんて言ったら、なんて言うのだろう。
僕はよく人に優しいと言われるけど……僕はただ、他人に無関心なだけで、人に対して当たり障りなく付き合っているだけで、優しいと勘違いさせているだけ。
シオリも僕を優しい人だと、最後まで信じていて――僕はシオリがそれを望むなら、とことん優しくなってやろうなんて思っていた。
けれど結果はこうだ。人を人として見ない僕の心が、トモミや、他にも僕に好意を持ってくれた人を沢山傷つけた。その痛みに、気が付いてやれなかった。
ちっとも優しくなんかない――この7年、誰一人心から思いやれたことなんてないのだ。今だってトモミの好意に甘えてばかりで、彼女の抱える痛みや孤独に対して、何もしてやれていない……
「お婆ちゃんの旦那さんも、優しい人なんですか?」
トモミが興味深げに聞く。
「全然」
即答だった。
「私の時代は、年齢がある程度行ったら、旦那を選べずに結婚する時代でしたから……粗野な人で、はじめはうまくいかなくて、他の女の所へしょっちゅう行っちゃって。沢山泣かされました」
「……」
「あなたも若いから、まだまだ沢山恋をするでしょうけど、結局は優しい人、優しい目をした人が一番ですよ。一緒にいて、不安になるような人を選んじゃダメ」
「何だか重みがあるなぁ……」
トモミはまた頷く。
「……」
「お二人はどこからいらしたの?」
「東京です」
僕は答える。
「東京――それじゃこの辺も今の時期じゃつまらないでしょう」
「いえ、僕、故郷には海がなかったので……海は好きです」
「でも、お婆ちゃんはもうずっとここで民宿をしているんでしょ? お爺さんと一緒に」
トモミが口を開く。
「えぇ、もう50年になります」
「50年? すごい!」
トモミが声を上げる。
「芸のないことで……でも、もう住めば都ですよ。地味でみすぼらしい民宿ですが、今では二人元気にやっていけることが何よりで……」
その折、厨房からお爺さんが出てくる。
「おう! どうだった? うちの名物は」
五分刈りの白髪頭の、気っ風のいいお爺さんだった。
「すごく美味しかったです」
「堪能しました」
二人がそう言ってから、リュートが、ワン、と鳴いた。
「お? 何だ、ワン公も気に入ったか、わはは」
お爺さんは豪快に笑う。
「へぇ……」
トモミがお爺さんの顔を見て、そう頷いた。
「確かにお爺さんも、優しそうな目だわ……」
「昔はこんなじゃなかったのよ。歳を取って、丸くなったの」
「何言ってやがる」
そう言いながらも、ちょっと照れているのが、鈍い僕にもわかった。その照れ隠しが歳の割に純情だった。
「……」
「それでも、こうして二人で力を合わせてこの海で、50年も暮らしてきたんですね」
僕は老夫婦の顔を見比べた。
「上手く言えませんけど――50年もこうして助け合いながら生きていけるってことは、それだけでも素晴らしいことだと思いますよ。見た目がみすぼらしくても、お二人とも輝いていると思います」
生まれた家があんなだったせいもあって、僕には結婚願望もないし、誰かと50年も連れ添うことがどんなことなのかもよくわからない。
自分には途方もないことに思えるからか、それができた人はそれだけで尊敬に値した。
そして、少し羨ましく思えた。
貧乏でも、みすぼらしくても、誰かと力を合わせて作る未来――
そんなものが、僕が今いる世界よりもずっと輝いて見えた。
横にいるトモミは、そういった僕の横顔をしばらく見つめていた。
「――ありがとうございます。そんなに褒められると、ちょっと照れますね」
それに少し遅れて、お婆さんが僕にぺこりと頭を下げた。
「ん?」
ふとお爺さんは、僕の顔を覗き込む。
「にいちゃん、どっかで見た顔だなぁ……どこだっけ?」
「よくある顔です」
僕はそう否定する。僕は今でもメディアへの露出はある。こんな老夫婦でも、僕の顔を知っているんだ。
「あの、僕、近くの海の家で世話になったことがあって。その方々に挨拶をしたくて。ここに来たんです」
話を変えるために、自分がただの身近な人であるアピールをした。
「あぁ……ナオキ達か?」
「知ってるんですか?」
「こんな田舎じゃ、近所はみんな海を通じて家族みたいなもんよ」
お爺さんが歯を剥き出した。
「あそこは今は夕方にならねぇと帰らねぇし……よければ竿を貸すから、磯釣りでもして時間を潰したらどうだ? 二人の釣った魚、よければ晩飯時に俺が捌いてやってもいい」
「釣りか……トモミさんもそれでいい?」
「どこでもいいです。社長と一緒なら……」
「社長?」
お婆さんが首を傾げた。
「何でもない、何でもないです」
僕は慌てて首を振る。
「そう言えば去年、ナオキの奴が言ってたな……7年前にうちで働いていた奴が大出世して、でっかい会社の社長になっちゃって。うちに店の新装費用を送ってきたって。一宿一飯がこんなに大きくなるなんてって、ミチルちゃんもタケ坊も喜んでた。おまけにこの海の清掃に人をよこしてくれたり、今年の夏にこの海水浴場でイベントを開いて、お客を呼び込んでくれたり。みんな感謝しきりだったな」
「……」
「確か、サクラ……サクラ……なんて言ったかな」
「お爺さん、サクラダ・ケイコさんですよ」
お婆さんが言う。
「……」
何だか昔のアイドル歌手みたいな名前になっているし。
「ふふふ……」
トモミが苦笑いする僕の横で、おかしそうに声を殺して笑った。
海の家の近くには、灯台が立っていて、桟橋状になったコンクリートの一本道の周りも、ごろごろしたテトラポットが沢山積まれている。このあたりが潮だまりになっていて、テトラポットの底に餌場があるから魚がよく釣れると、老夫婦が教えてくれた。
僕達は少し古めかしい釣竿に、クーラーボックスを持って、灯台の下までやってきた。
「社長、釣りなんかしたことあるんですか?」
トモミに訊かれる。
「旅をしたての頃、今日食うものにも困ってた頃に、やったことはあるよ。自分で木の枝を削って竿を作って」
僕はテトラポットの上に座って、釣針の先に、何とも不細工な練り餌を仕掛ける。こんな不細工な食べ物に、釣り堀の魚でも食い付かないように思うが…
「見ているのも退屈だろうし……トモミさん、やってみたら?」
僕は釣り竿をトモミに渡す。
「ど、どうやるんですか?」
こう見えてもトモミも山の手のお嬢様だ。釣りなんてやったことがないらしい。
「力を加減して、テトラポットの影に浮きを落とすように竿を振るんだ。こんな感じ」
僕は身振りで教えるが、トモミはなかなか上手く針を投げられない。後ろに飛んでいってしまうこともあった。
ようやく浮きが海に沈んだ時には、トモミは大物を釣ったようにはしゃいでいた。僕も安心する。
「竿が引っ張られたら、ゆっくりリールを巻いて。魚に体力を使わせるまで無理はしないで。最後は僕も手伝うから」
僕もホッとして、テトラポットに胡坐をかいて、釣針をテトラポットの影に沈めた。
さっきに比べて風が少し弱まり、日差しの暖かさを少し感じるような、午後の陽気になっていた。
「わっ! わっ! 来た!」
そんな日差しの暖かさの余韻に浸る間もなく、いきなりトモミが声を上げる。顔を上げるとトモミの持つ竿の先端がしなり、糸が左右に振られて、水面に白波を立てていた。
「もうアタリが来たのか?」
「ど、どうすれば……す、すごい力で引っ張られるぅ……」
僕はトモミの後ろから一緒に竿を取る。
「ゆっくりリールを巻いて。引っ張られるけど、僕が支えるから、落ち着いて」
「はっ……はい……」
トモミはトーンダウンしながらも、リールをゆっくりと巻く。僕はトモミの体の後ろから手を伸ばして、竿を握るトモミの手に自分の手を添えて、竿を離さないように、しっかりと握りしめた。
「な!」
不意にトモミが大きな声を出した。その声に僕はびっくりして、反射的にトモミから手を離す。
その瞬間、竿にかかった魚は、リールを持つトモミの手の力が弱まった瞬間、脱出してしまった。
「あー……」
僕はさっきまで魚が暴れて白波が立っていた海面を見下ろして、思わず落胆した声が出てしまう。
「トモミさん――いきなり素っ頓狂な声を上げて――どうしたの?」
僕はまだ少し呆けているトモミに訊く。
「だ、だって――社長、いきなり私の手を持つから、私……」
「あ……」
魚が来て、咄嗟に助けようとした時、確かに僕はトモミの手を持ち、体が密着した。
「ご、ごめん。嫌だったかな……」
そう言われて、途端に僕も恥ずかしくなってきた。僕は慌ててトモミに誤った
「――バカ」
トモミは小さな声で、そう口に出した。
「……」
――心臓の鼓動が早くなっている。
いい歳して、少し手を握って、体が少し密着しただけじゃないか。
――何でこんなに、ドキドキしているんだよ……
だが、その後トモミの垂らす糸は次々と魚にヒットし、クーラーボックスの中はシロギスやら鰺やらオコゼやら、魚でいっぱいになった。
面白いように魚が釣れて、とても楽しい。初めてでこれだけ釣れたら、さぞ楽しいだろう。トモミもリールを巻くまでの動きは随分と様になってきた。
「すごいなこりゃ……持って帰っても、これじゃ食べきれないな」
クーラーボックスの中を見て、僕は少し呆れていた。二人合わせて20匹以上の魚を釣って、途中から小さい魚はリリースしてしまったくらいだ。
「社長、見てください」
トモミに促され、前を見ると、そこには一面夕日でオレンジ色に染まった海、そして水平線に沈もうとする、大きな夕日があった。
「綺麗……」
トモミは息を漏らす。
「こんないいところを教えてくれた、あのお婆ちゃん達に感謝しなきゃ」
僕の隣で、トモミは嬉しそうに呟いた。
「ああ、そうだね」
僕も夕陽を見ながら、そう呟いた。
「あのご夫婦、素敵だと思いませんでした?」
トモミは釣り竿を握ったまま、隣の僕を見て、ふふっと笑みを漏らした。
「社長――あのお二人を、本気で褒めてましたよね。社長はお金も地位も手にしているのに、ああいうささやかな幸せみたいのを見て、心から、すごい、って言ってました。あれって、お世辞じゃなく、本当にそう思ってましたよね」
「……」
――その通りだ。僕はあの老夫婦を見て、本気であの民宿と、それを経営する老夫婦の持つ、ゆったりとした空気を、本心からちょっと羨ましいと思った。
あの二人を見ていて、僕の心は過去の自分の感情をわずかに呼び起された。
ひとりぼっちだった頃は、自分の未来に何の感慨も抱くことができなかった。自分の頭脳であれば、適当な仕事にも就けるだろう。あとはただ時間と金をむやみに消費して、死ぬまで暮らす――そんな未来しか想像できなかった。
だけど、シオリやユータ、ジュンイチ――あいつらと出会って、自分が歳を取ることの意味が少し変わった。
僕はあいつらと一緒に大人になりたかった。僕が一つ歳をとれば、あいつらも一つ歳をとる――そうして一つ一つ、皆で年輪を刻むように、友情や愛に重みを増して……
笑ったり、泣いたり、時には喧嘩なんかして、そうしたら反省して、仲直りして。
そんな風に生きていきたかった。それだけでいいと思えた。
「……」
そんな思いが蘇ると、ふと昨日のことを思い出す。
昨日会ったユータとジュンイチは、僕が最後に見た頃よりも随分と成長していた。
7年も会っていないのだから、変わらないはずがないことはわかっている。
だが、あいつらと7年も離れていたことが、今更たまらなく、悲しく思えた。
高校を卒業して、成人して、社会に出て――そんなかけがえのない時間であった7年を、奴等と一緒に過ごせなかったことが、今更取り返しのつかないことをしたように思えてきて……
僕は何で、あんな無駄な時間を過ごしたのだろう――
そんな思いが胸を突いて、目の奥に涙が溢れるような感情が、体中にゆっくりと浸食されていった。
「ケースケくん?」
そんな物悲しさを覚える脳裏に、トモミとは違う女性の声がして、僕は振り向く。
灯台までの一本道に、精悍な顔立ちの中年男性と、見事なプロポーションを持つ一人の落ち着いた女性がいた。
「――ナオキさん。ミチルさん」
僕は二人の名を呼んだ。
仕事が忙しくて、執筆が遅れ気味で大変申し訳ないです…