Date
「はぁ……」
思わず僕の口から、大きな溜め息が漏れた。
正直トモミに辞表を出された時から、僕の心はしこりのように張りつめていて。
トモミが僕の目の前から消えるかも知れないと思うと、とても怖かったんだ。
既に一点の光もない闇の中を長年迷走した僕なのに、トモミが自分の目の前から消えることを想像したら、更に深い、底なしの果てない闇にまた足を突っ込むような、そんな恐怖を覚えた。
それが回避されて、ほっとしたことは、ほっとしたが……
――そんな一時の感情や気の迷いで、僕の決断が正当化されるなんて思ってはいないし、この関係が僕にとってもトモミにとってもいいこととも思えない。
そして――それを回避したとは言え、状況は何も変わっていないどころか、むしろ悪化したのかも知れない。
シオリとトモミ――適当な詭弁でどちらかをこの場で選んでしまった方が、ずっと楽だっただろう。時間をかけて、しっかり自分の気持ちと向き合うことを、今僕は確定させてしまったわけで。
向き合えば向き合うほど、これからどちらかを自分と切り離すことに、激しい痛みが伴うだろうな……
そう思うと、不誠実の汚名と引き換えに踏み出した一歩は、また別の闇の中へと続いているようで……
「へへ……」
だけど、トモミは何だか少し嬉しそうだ。
「――ひとつ、訊いてもいいですか?」
僕は肩に乗せられた疑問が重くて、ふいに声をかけていた。
「いいですか?」
しかしトモミは僕の質問を訊いて、眉を少し吊り上らせた。
「え? あぁ……聞いてもいいかな、だよな」
僕は少し焦って訂正する。自分の中で敬語の習慣って、思った以上に染みついているのだなと思った。
「何ですか?」
今度はトモミもちゃんと返事をした。
「あの――トモミさんは、こんな僕で本当にいいの?」
「え?」
「僕、トモミさんに対して、今、とても不誠実なことをしていると思う……そのことは自覚しているんだ。さっきだって、トモミさんが愛想を尽かしても仕方がないと思ってたのに……」
「ふぅん……」
トモミは小さく、ゆっくり頷いた。
「ま、そうなんですけどね。でも、それを怒ったって、どうせ社長のことですから。そういう優しさで人を傷つける癖、治るとも思えないし」
「……」
「それに――社長の気持ちも、分からなくもないから」
「え?」
「私、シオリさんとほんのちょっとだけ面識があるって、その話、前にもしたの、覚えてます?」
「あぁ……」
忘れるわけがない。近年でも3本の指に入るくらいの衝撃だったからな。
「高校時代のシオリさんを見た時、私、すごい可愛い娘だなぁ、って思って。だから、社長が私にシオリさんの写真を見せてくれた時、最初はすごく驚きましたけど、でもすぐに、あぁ……って納得しちゃったんですよね」
「……」
「それからいろいろ又聞きですけど、シオリさんがどんな女だったのか――話を聞いているうちに、私も何となくわかってきて……そしたら私、あぁ、これは同じ女として、負けた、って気持ちにさせられちゃったんですよね……社長がシオリさんのことを忘れられないのも、無理はない、って……」
自分の敗北をこんな風に語るトモミの声は、表情に刻まれた薄笑みとは裏腹に、陰りや悲哀を帯びているように感じる。
「だから、社長がシオリさんのことを忘れられないって気持ち、何となく分かるんです。私が社長の立場なら、私を選ぶとかはともかく、シオリさんをすっぱり忘れるなんてこと、そう簡単にはできないって、分かっちゃって……責めようにも、毒気抜かれちゃったって言うか……」
「……」
同じような話を、夜中の病院で聞いてしまったな。トモミは僕がその話を聞いていたことを知らないだろうけれど。
「上手く言えませんけど、私、シオリさんのファンになっちゃったって感じなのかな……」
「ふぁん?」
その不思議な響きの言葉に少し僕はふわふわする。
「自分でも分からないんです。私、シオリさんの話を聞いて――シオリさんのことを思い出している社長の顔を見て、はじめは正直、すごく嫉妬して、羨ましいと思って――でも今は、シオリさんを恋敵とは思えないんです。むしろ、私もまた一度会ってみたいって、思うくらいで……」
「……」
僕も三角関係なんてものを経験したことはないのだけれど、僕の想像と随分違う感情が、トモミの中には存在するようだ。
トモミとシオリがもし出会って、友達になれたら、結構相性はいい気がする。7年前のシオリは、おっとりしてて、ちっちゃくて、長女だったけれど、心のどこかで誰かに甘えたかったり、弱みを見せたいという思いを隠している、ちょっと気弱な女の子だった。トモミはどちらかと言うと、面倒見がよくて世話焼きで、お姉さんタイプだ。
二人がもし出会って意気投合して、友達になったら、きっとそれは素敵なことだろうと、僕もそう思う。僕と言う人間が間に入ると、そうはなりにくいかもしれないとは思いつつ、そうなったら最高だと思う。
「――私も、白状しますね」
そんなことを考えている時に、トモミが僕の思考を止めた。
「社長、私に対して不誠実だとか、そういうことを考えているみたいですけど――正直言うと、私もちょっとずるいこと考えていたんです……」
「え?」
そうして、トモミはふっと力ない自嘲を浮かべた。
「私――病院であんな告白しちゃって――その時は、もう頭がいっぱい、心がいっぱいで、思わずそう言っちゃったんですけど……でも、後になってから、悪いことを考えちゃって……あんなの見たら、社長が私のこと、少しは気にしてくれるだろうな、って――社長がそういう時、必ずそんな人に手を差し伸べること――優しいの、知ってるから」
「……」
「私――ここに来たのも、せめて最後に社長に優しくしてほしかったからなのかも知れません……そんな優しさを貰っても、後々辛くなるって分かっても、社長に優しくしてほしかったんです……最後の最後だって言えば、社長は絶対、私に優しくしてくれるの分かって、私は辞表を前に出していたんです。本当は、社長の側にもっといたいのに……振り向いてくれないなら、せめて、って……」
「……」
「そう思うと、さっきから自己嫌悪ばかりしてて……シオリさんのいない隙に、こんな女がこんなことをしているってこと、シオリさんにも正直後ろめたくて……シオリさんに比べて、自分がすごく薄汚く思えて……」
そこまで言うと、トモミは椅子に座ったまま、顔を僕に隠すように俯いて……
「……」
そんな彼女を見て、僕の鼻腔につんとしたものが走った。
もし、これも彼女の計算のうちだとすれば、僕は彼女の術中にはまったことになるのか……
だが、それでもいいか、と思った。
彼女が僕のことを愛してくれて、必要としてくれて――自分がシオリに負け、その絶望の中でも、僕の優しさを求めた。
この7年、誰も幸せに近づけることができなかった僕にとって、誰かに、他の誰でもない、僕自身を必要としてくれた人がいることが、とても嬉しかった。
だから……
僕は椅子から立ち上がって、俯くトモミの頭に手を伸ばして、トモミの頭を優しく撫でた。
「そんなこと言わなくていい――あなたは何も悪くないから」
僕はそんなトモミに声をかける。
「――やめてくださいよ。社長。私、最後の最後でなら、社長に優しくされても我慢できたけど――あんな言葉を訊いた後にこんなことされたら、勘違いしちゃう……社長のこと、もっと、もっとって……」
「ごめん。僕、空気が読めない馬鹿だから……」
本当は彼女をこのまま抱きしめてしまおうかとも思った。だが、それをためらって、ここまでにした。
今彼女に優しくすることが、後にトモミに更に深い傷を刻むことになるかもしれないことは、トモミ自身も、僕もおぼろげな予感はある。
だがそれ以上に、こんないい娘が僕のためにここまで傷ついて、自分自身が見たくもない自分の裏側を他人に暴露して、自分自身を卑下することを見るのがたまらなかった。
彼女にどうにかして、手を差し伸べたかった。今まで彼女に支えてもらった感謝と、それなのに彼女のことをちゃんと見ていなかった自分の反省を込めて。
「――バカ」
俯いて、顔を隠したまま、トモミのお決まりのフレーズが出た。
「社長はやっぱりバカです――空気読めない、天然ジゴロです……」
「……」
天然ジゴロ――7年前、ユータが僕を揶揄して言っていたフレーズだ。ユータとの手紙でそのフレーズを覚えたのだろうか。
「……」
しばしの沈黙の後、僕はトモミの頭から手を離した。
「あ……」
だが、手を離しかけた時、トモミはふっと小さな声を漏らした。
「も、もうちょっとだけ……もうちょっとだけ、そうしててください……」
「……」
トモミはまた再び、顔を俯けて僕から視線を隠す。
「……」
僕はそのまま、トモミの頭に、再度手を乗せて、髪を小さく撫でた。
「――すみません、社長、日本に帰ってきて、初めての一日オフなのに……」
トモミは言った。
「いいよ。どうせ取り立てて予定もないから」
僕は病院退院の後、病院の外の生活の慣らし運転のため、仕事に戻る前に、3日間の外での休暇を与えられた。働きづめの僕にとって、これがこの7年で初――いや、小学校の時は、日曜日、朝から晩まで塾に通っていたし、中学でも野球部の練習、それがなくても中学3年で、高校のカリキュラムまで終わらせる学校だったから、勉強に忙殺され、高校に入ってからは、休日は毎日バイトを何かしら入れていた。この休暇は、僕の人生25年に置いて、初の休暇らしい休暇かも知れなかった。
そのうちの1日目は、ユータ、ジュンイチとの再会で終え、明日も半分仕事、半分遊びでだが、予定がある。
だが、今日――3連休の2日目にあたる今日だけは、何の予定もない……完全に白紙だった。
働いている時は、1日中寝ることが出来たらと思ったが、それは既に病院でとことんやってしまったので、特にやりたいこともない。趣味もギャンブルもやらない僕は、このような休日をどのように過ごしていいのか、よくわからないでいる。
「――どうするんですか? 今日1日」
トモミが僕に訊いた。
「そうだな……」
僕はそう呟いて、部屋を見回す。
そこに、部屋の隅に立てかけてあった、シールやワッペンが沢山貼りつけられた、古いアコースティックギターのケースが目についた。
あのギターは、僕がフランスに渡るまでの間、流しのギター弾きをやりながら旅をしていた頃に持ち歩いていたものだ。現地の沢山の人がケースにシールを張ったり、落書きを施したりする、旅の軌跡を現すもの。
「明日ジュンイチの嫁さんに、ギターを弾いて聞かせてやってくれって、ジュンイチに頼まれたからな……とりあえずギターをメンテしてもらって、それから公園にでも出て、ギターの練習でもするかな」
とりあえずそんな計画を立てたが、随分と茫漠とした予定だ。そんなふわふわした計画を立てたことのない僕にとっては、少し違和感を覚える。
そう言いながら、僕はマイが昨日言っていたことを思い出す。明日会ったら、私はあなた達にサプライズを用意している、と言っていたな。あれだけ自信満々に言っていたし、さぞすごいことなんだろう。
一体何なのか……
「――でも社長、休みもそのスーツで過ごすんですか?」
トモミが小さな声で言った。
「社長、スーツしか持ってないし――休みの日も仕事の時の服を着ていたら、休んだ気になれませんよ。せめて私服を買った方がいいと思いますけど……」
「――そうか。そうかもな……」
僕は自分の着ているスーツに目を落とす。
「はい……」
「……」
沈黙。
「――デート、しようか」
僕の口から、思わずそう漏れた。
「えっ!」
その言葉を訊いて、思わずトモミは勢いよく椅子から立ち上がって後ずさった。
「で、デートって……」
「あ、いや――僕、休日の過ごし方とかよくわからないから、もしよかったら、一緒にいてくれたら、と思って……」
そう言いながら、僕は自分でも少し動揺していた。
何故そんなことを言ってしまったのか――変な沈黙に焦れてしまった。それとも、彼女の頭を撫でながら、僕はトモミと離れがたくなってしまったのか……
「……」
きっとそうなんだろうな。今、僕はトモミと離れたくないのかもしれない。
今までずっとトモミのことを見てこなかった。だけど今は、彼女としっかり向き合って、しっかり答えを出さなければならないのだと思う。
「――嫌ならいいけれど、僕は今日をきっかけに、あなたのことをもっと知ることが出来たら、嬉しいと、思う……」
――僕は後半言葉を尻込みさせた。
こんなことを言ったら、昔の僕はいつだって、左腕が警告の疼きを発しただろう。それに対して少し身構えたのだ。
だが――やはり彼女を前にすると、僕の左腕は大人しい。他の女を前にしたら、必ずこれが出たのに。
長年これに悩まされた僕にとって、拍子抜けするくらいに、僕の左腕が大人しい。
――それは、トモミのことを本当に想い始めているからなのか。
それとも、シオリの思い出が、少しずつ僕の記憶から風化していっているのか。
トモミの優しさに癒されることで、僕はシオリを過去に置き去りにしているのか。
まだ、僕にはその理由が分からないけれど。
「ワン!」
その時、ふと僕の椅子の横にいたリュートが、小さく吠えた。
「あぁ、そうだな。お前とも久々にデートだな」
僕はそんなリュートを見て、笑った。
「ふふふ……」
そんな僕達を見て、トモミはやっと少し笑った。ここに来てからずっと強張っていた顔が、少しだけ緩む。
そんなトモミは、しばらく沈黙して、その返事となる言葉を頭から絞り出そうとしていたが。
「――し、仕方ありませんね。お付き合いしますよ、今日は」
普段の彼女のような言い回しで、僕のデートの誘いを承諾したのだった。