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 コーヒーを口にして、ふっと息が漏れる。

 しばらくの間、沈黙が続いた。

 色んなことを考えていた。

 トモミのこと、シオリのこと、僕のこと……

「社長」

 物思いに耽っているように見えたのだろう。確かめるようにトモミが僕に声をかけた。

 僕に声をかけたトモミは、手元から一通の封筒を取り出して、テーブルに置き、僕の前に差し出した。

 そこには『辞表』と書かれていた。

「え……」

 僕は息を漏らして、トモミの顔を覗き込む。

「……」

 トモミは僕の視線を浴びて、しばらく言葉を選んだ。

「その――社長、病院で言いましたから。私はもう、社長の秘書なんて、辞めた方がいい、って」

「……」

「私、あんなことしちゃったし……」

「……」

 あんなこと、というのは、恐らく僕に告白したことだろう。

「だから――社長が私とこれから顔を合わせづらいのなら、それはそれで仕方ないことだと思うんで」

 えへへ、と、照れ臭そうに引きつった笑みをこぼすトモミ。

 だが――この表情は、照れだけのものじゃない。

 必死に平静を装おうとしているものの、心の中は想いが溢れて、自分でも抑えが効かなくなっている。そんな表情だ。

「だけど」

 だが、トモミはそんな表情だが、次に気丈な声を出した。

「せめて、返事を聞かせてほしいんです。社長の気持ち、聞かせてください」

「……」

 沈黙。

「――結果は正直、もうほとんど分かってるんです。辞表も書いて、心の準備もしてきましたから……」

「……」

 悲壮な決意――それを目の当たりにする。

 結果も分かっている――病院で、彼女は言っていたな。私はシオリさんに完全に負けた。だけど、同じ負けでも、僕の幸せも願えないで振られたら、それこそ惨敗だから、と。

 そうか――僕が彼女を振っても、僕がそのことで苦しまないように――お互いがその後、前へと進めるように、彼女はこんな辛い状況で、必死に笑顔を装おうとして……

 彼女は自分なりに、けじめをつけに来たのだろう。僕の想いを訊いて、駄目なら僕の前から姿を消して、僕を忘れようと……

 ――そんな彼女の健気な想いに、僕は胸が苦しくなるほどに痛んだ。

 今この腕で、彼女のことを抱きしめることが出来たら、どんなにいいだろうと思った。

「――正直、嬉しかったですよ。トモミさんの気持ちを訊いて」

 僕はゆっくり口を開く。

「それにユータ達から、トモミさんがずっと前から僕のために骨を折ってくれたっていうのも聞きました」

「え?」

 トモミは声を上げる。

「――そうですか」

 しばらくして、トモミの視線は若干下がってしまう。

「――トモミさんは、ずっと前から僕のために、骨を折ってくれていたんですね。それなのに、僕に対して恩着せがましいことは一度も言わなかった。僕はそれに気付きもしないでいたんですよね」

「そんな――だって、私、勝手にやったことですし。むしろ行き過ぎた行動もいっぱいあったと思ってますから」

 トモミは謙遜する。

「……」

 互いに謙遜のし合いで、二人とも一度言葉が止まった。

「――トモミさん、病院で僕に言いましたよね。ユータもジュンイチも、僕に7年前の償いなんて望んでいない。望んでいるのは、僕が幸せになることだって」

 僕は静かに口を開いた。

「その通りだと思う――僕が7年間、何とか生きていたってだけで、あいつら、泣いて喜んでいましたよ。まだあいつらに会って本当に良かったのか、自分ではわからないんですが、それを知ることができたことは、よかったと思ってます。僕はこの7年、そんなことも分からなかったんだなって……」

「……」

 トモミは静かに頷いた。

「今更だけど、色んなことが分かって――自分が何もわかってなかってことも分かって……」

 ――言葉を紡ぎながら、僕の心は酷く乱れているのを感じている。

 トモミへの感謝の思いが、さっきよりもずっと強くなる。

 だが――今までは他の女に少しでも心を許そうとすると、決まって左腕が痛いほどに疼いたのに。

 今の僕の左腕は大人しい。それも確かに感じていた。

 ――やっぱり、僕は……

「――今、僕は、トモミさんにすごく惹かれはじめていると思います」

「え……」

 トモミは僕のその一言に、声が震えた。

「……」

 ――その言葉を発した僕は、徐々に心が数秒前を振り返る。

 もしかして、僕はこの言葉を言ったことで、取り返しのつかない方へと足を踏み入れてしまったんじゃないのか。

「ユータ達と会って、色々なことを話して、それからずっと考えてました。まだ答えが出ていないことばかりだけれど――この7年で、初めて自分の将来なんかのことを考えた。あいつらや、あなたやエイジが僕の幸せを望んでいるのだとしたら、僕はどうすればいいのか……」

「……」

「自分の幸せなんて、随分遠ざかってしまったものだから、まだそれが何なのか、僕にもよくわからないけれど――ひとつ分かっていることは、僕はひとりぼっちじゃ、幸せになれない――ひとりぼっちの僕は、いつだってろくでもないことばかりしてしまうってことだけで――そう思ったら、あなたのことを強く思った。この部屋で朝、グランローズマリーの喧騒の中に飛び込む前、わずかだけれど静かな時間を過ごせた――そんな時間を、この7年で初めて僕にくれた、あなたのことを」

 僕は自分の部屋を見渡す。

 この部屋に、いつもトモミはやってきて、僕を起こして、朝食を食べて――そんな当たり前の時間が、ずっと続くなら、と、今の疲れきった僕の心が強烈に求めたんだ。

「僕も少し疲れた――今までみたいに一緒にいられて、僕が駄目になったら叱ってくれて――そんなあなたと一緒にいられたら、どんなにいいだろうって。色々考えたけれど、今はそう思います」

「……」

 その僕の言葉を訊いて、トモミは顔を俯けて……

 そのまま静かに、涙をこぼし始めた。

「……」

 こんな光景に、一度だけ出会ったことがある。

 7年前に、シオリに初めて「好きだ」とちゃんと言えた時。

 シオリもこんな風に泣いていた。ちょっと狼狽したけれど、そうして涙を流す彼女の人間臭さや、正直なところが、とても愛しく思えて、キスをしてしまったっけ。

「……」

 ――シオリ。

「でも」

 僕は少しためらいながらも、口を開いた。トモミは涙で潤んだ眼を僕に向ける。

「――今の僕は、あなたの優しさに、7年前のシオリの面影を重ねているんじゃないか、って――あなたのことが気になっているのは、シオリの代わりを、あなたに求めているんじゃないかって――そんな思いが、まだ拭いきれなくて」

「……」

 トモミの嬉しそうな表情が凍りついた。そんな顔を見るのが辛くなるほどに。

「――すみません。自分でも、こんな中途半端なことをしていてはいけないって、分かっているんですけど――」

 そう、身勝手であることは承知している。これから自分の言うことが、男として最低であることも、分かっている。

「あなたの想いを受け取るには、僕がシオリのことをちゃんと忘れて、あなたのことだけを見なくちゃいけない――僕がシオリのことを忘れずにあなたと一緒になったら、いつかあなたをとても傷つけてしまいそうで……でも、僕はまだ駄目なんです。昨日ユータ達にシオリのことも聞いてきて、そうしたら彼女にはこの7年で大きな不幸があって――」

「……」

「あなたのこと、すごく気になるし、ちゃんとあなただけのことを見られるようにしようと思っているのに――シオリのことが気がかりっていうのも、僕の中で同じくらい本当の気持ちで……」

 ――言ってて自分の最低さが改めて浮き彫りになる。

 後半の方は、僕はわけもわからず悲しくなって、怖くなって――声が震えていた。

「――そうですか」

 トモミの優しい声がした。

「……」

 それからしばらく、お互い沈黙した。

「――社長って、やっぱり真面目なんですね」

「え?」

「私、そんなに一途に人を想えたこと、今までの人生であるかどうかわからないですけど……社長にとって、シオリさんがこの7年間の社長の人生すべてを賭けてもいいって思える(ひと)だってことは、私にもわかります。それをすぐに忘れろって言って、忘れる方が無理ですよ。それは仕方のないことだって、私も思います……」

「……」

 ――今の僕は最低だ。

 もう戦う気力も失われ、心身共にボロボロの僕を、彼女の愛がひたむきに包んでくれている。

 僕はそれに甘えているだけなのか……

 だが、僕の心は僕の脳が思う以上に、何か安らぎを――救いを求めているのか。

 トモミがあまりに優しいから、堪えきれなかった。

「――恋愛で都合のいい、最低のワードを立て続けに並べるけど」

 僕は静かにそう前向きした。

「もう少し、答えを保留にしてもらってもいいですか? その間――出来たら――お友達から、って言うのかな。雇い主と秘書って関係だけじゃなくて、もう少し踏み込んだ関係っていうか……」

 前置きしたのに、自分の言葉に最低さに、言葉が尻込みする。

「――勿論、そんな都合のいいことが許されないって気持ちも十分理解しているつもりです。そんな僕の身勝手に付き合う義理がないと思うなら、あなたは僕の前から去ってしまっても、仕方のないことだと思う」

 僕はそんな自分を正当化するために、思わず予防線を張るのだった。

「だが――僕の正直な気持ちを言えば――僕は今、あなたを失いたくない」

「……」

 こんなどっちつかずの結論を出すのに、昨日一日、ずっと頭を動かして。

 それでこの様だ。自分がどうしようもない恋愛音痴で、駄目男だって思い知らされる。

 大切な(ひと)に、何故もっと違う言葉――優しい言葉を届けてやれないのだろう。

 僕は、いつだって……

「――勝手ですね」

 トモミはしばらく沈黙した後、そう言った。

 その言葉が、僕の心を強く震わせた。僕は今、本当にトモミが目の前から消えることを恐れている。

「でも――馬鹿正直ですね」

 トモミは言った。

「普通、そんな正直に、二人の女が気になっているなんて、告白した女に言いませんって。私にシオリさんの代わりを求めているかもなんて、言わずに私を利用することだってできたし、やり方はいっぱいあるじゃないですか」

「……」

「でも、そういうこと、社長はできないんですよね。自分さえよければそれでいい、誰が傷ついても構わない。そんな考え方はできない。それに、相手を傷つける時は、自分はいつもそれ以上に傷ついている――そうしないと、気が済まない人なんですよね」

「……」

「そして――私はそれ以上の大馬鹿なのかも」

「え?」

「そんな社長のまっすぐなところに惹かれちゃったのも――今だって、とっくに社長はシオリさんを選ぶんだろうな、って、諦めていたのに、私のこと、シオリさんと同じくらい悩んでくれてたって――それ訊いただけで、すごく嬉しくなっちゃってる」

「……」

「私、社長とは一年ちょっとの付き合いですけれど、その間に社長がアイドルやモデルなんかに見向きもしなかったの、一番間近で見てますから。そんな女を即切り捨ててきた社長が、少なくとも私をシオリさんと天秤にかけて、少しは迷っている――それって、社長にとって、私がちょっとは特別な存在になれたのかな、って」

「……」

「ホント――馬鹿ですよね、私……」

 震えるようなか細い声が、最後の言葉を耳に届かなくする。

「――すみません。あなたの誠実さに比べて、今の僕は……」

 僕は膝に手をつき、深く頭を下げた。

 でも。

「いいえ、許しません」

 トモミの気丈な声がした。

「え?」

「こんないい女を両天秤にかけた上、二人の女のどっちも捨てがたいなんて、そんな女たらしさんには、罰を与えないと気が済まないです」

 トモミはいたずらっぽく、歯をむき出して笑っていた。

「え……」

 僕は少し狼狽する。

「ふふふ……」

「――罰って……何ですか?」

「これから社長は私に、敬語禁止の刑です」

「――は?」

 僕は猫だましをくらったように呆けた声が出る。

「――社長って、昔の仲間以外に対しては、いつも敬語ですよね。私に対しても」

「……」

 ――僕は2年前、23歳の頃に日本に帰ってきた。

 だが、日本で23歳で企業の最高責任者なんて、大抵相手にする人は皆年上だ。それに僕は5年もの間海外で日本語を全く使っていなかったため、英語やフランス語よりも日本語の方が若干覚束なくなっていたほどだったので、その頃の敬語の習慣が癖になってしまったようなのだ。

「私、ずっと社長がエイジとは砕けて話をしていたのが、羨ましかったんですよ。それで、昨日、社長がヒラヤマさんと再会したニュースを見て、二人が抱き合っているシーンを見て、ああ、やっぱり社長は昔の仲間にはこうして壁のない接し方をしているんだなぁ、って……」

「……」

「だから、私のことをちょっとは特別だって思ってくれているなら、私にも同じように接してほしいんです。私だって、こうして敬語を使われている距離にいる身分から、いきなり恋人になれるなんて、そこまで自惚れてませんから。だから、今はそういう関係じゃなくてもいいから、そういう風に接してほしいんです――そう、『仲間』みたいに」

「……」

 仲間、か。

 ――トモミともっと早く出会っていたら――そう、7年前、ユータやジュンイチ、シオリやマイ、エイジ――そんな奴等とあの頃、一緒に仲間として語らったり、酒を飲んだり、そんなかけがえのない時間の中に、トモミがいたら。

 僕はシオリではなく、トモミのことを好きになっていたのかな。

 そんなことを考える。

「――ああ、分かった。そうするよ」

 僕は初めてトモミに砕けた言葉を使った。

「――はい」

 トモミはその言葉を訊いて、嬉しそうに頷くのだった。


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