Return-road
「ちょっと待っててくれないか」
僕は格技棟に走って、リュートを連れてきた。
「わ、可愛い。この子、サクライくんが飼ってるの?」
彼女の顔がほころんだ。
「実際は妹の犬だけど、僕以外世話しないから、可哀想なんで、連れてきたんだ」
シオリはしゃがみこんで、抱きしめるようにリュートの頭を撫でた。お利口だねー、と、弾んだ声で言いながら、甘えるリュートを抱きしめる彼女は、とても愛らしかった。
リュートも、彼女が悪い人間ではないことを察したのか。彼女の手や顔を、ペロペロ舐めている。普段家族には、決してなつかない犬なのに。
「悪いが散歩に同行させてもらってもいいか? 僕達は走って君を追いかけるから」
彼女も自転車通学だから、そう断った。
「いいよ、私の家、歩いてでも遠くないし、私も歩く」
「……」
「それに、私もリュートくんと、一緒に歩きたいし」
「――そうか」
彼女が自転車を駐輪場から出す前に、僕は黙ってフルートの箱をシオリの手から奪った。
「そんな、いいよ悪いよ」
「いいから持たせてくれ」
僕は彼女の手から、少し強引にフルートの箱をひったくった。
「荷物運びでもしないと、女の子を家に送るなんて、どうにもやりきれない」
「……」
彼女は自転車を引きながら、僕と轡を並べて校門を出た。
目の前には心臓破りの坂だ。
「……」
何を話すべきかわからない。
彼女と二人でいると、どうも調子が狂う――
つい先日から、それをずっと感じている。
きっと、僕は彼女との間に、大きな落差を感じているのだろう。
一緒にいて、初めてわかった。同じくらいのアビリティ、キャパシティを持ちながら、歩む道があまりに対照的過ぎて。
彼女が持つ、爽やかで、朗らかな雰囲気――
僕も出来れば、そう生きたかった。
僕もそれが欲しかった。
欲しかったはずなのに……
現実の僕は、そんな彼女を勝手に罵倒して、醜さをさらしている。
勝手にこの娘を、嵐のように罵倒して、それが終わると、今度は自分を蔑み出す。いつも 嫌悪感が伴う、荒れすさんだ心――
彼女といると、自分が不安定になるのがわかるんだ。まるで溶鉱炉のように、色々な熱い感情が溶け合って。
「迷惑?」
歩きながら、唐突に彼女が質問した。
「え?」
「私を送るのって。イイジマ先生に強引にやらされてるみたいで、嫌なのかな、って」
「――別にいいさ。送るくらい」
思いに反した言葉が出た。非情になろうとしても、いつもブレーキがかかる。『こんなこと言われたら、彼女は傷つくだろうな』、とか、そんな考えが頭にちらついて。かと言って、いい人にもなれず、僕は中途半端なところから抜け出せずにいる。
何かを変えたいはずなのに、中途半端なことばかり繰り返すんだ。
「むしろ逆だろ? 君は僕達を手伝ってくれてるんだから、僕は文句を言える立場じゃない。君こそ、嫌なら嫌って言ってくれて構わないんだ。別に」
何言ってるんだろう、僕は。嫌なら嫌って言いたい――そう望んでいるのは、自分だろうが。何で自分がしたいことを、彼女に勧めてるんだ? 馬鹿か僕は。
隣で、彼女がさっきから、くすくす笑っていた。僕は横を向く。
「サクライくんって、見ていて飽きない人だよね」
「は?」
僕は訊き返す。
「だって、冷たいように見えて、とても優しいもの。何か変……」
「……」
「私は、こうしてサクライくんと話せて、嬉しいけど」
「……」
何だ――今の。さりげなくすごいこと言ってないか?
「私は――」
言いかけて、彼女は言葉を一度飲み込んだ。
「何でかな……私はサクライくんと一緒にいると、何となく――やりとりしたくなるんだ」
「やりとり?」
意味がわからず、僕は彼女の顔を覗き込みながら、訊き返した。
「うん。上手く言えないけど……」
彼女は言いかけて、言葉を捜すように、数秒天を仰ぐ。
「私達って、入学からずっと比較されてたよね。私、入学式の代表の話も聞いてるの。本当は私達、二人でやるはずだったんだよね」
「あぁ――そんなこともあったな」
入学式――入試を満点でパスした僕は、総代として、新入生代表の挨拶を務めることになっていた。僕の学年は満点が二人いて、新入生代表を二人で務めることになっていた。
「あなたは、入学前に電話がかかってきたけど、『そんなものに興味はないので、もう一人に全部お任せします』って言って、電話を切ったと、先生から聞いているわ。その後も、あなたは授業に出なかったり、先輩と喧嘩したり……」
「……」
僕は黙っているしかない。彼女があまりに真剣に話していて、言葉を挟む余地もない。
彼女はさっきから上手く言えないことを、一生懸命伝えようとしている。僕にそれは全ては伝わってはいないけれど、言っていることは彼女の真実なのだろう。彼女は俯いたまま、自分を傷つけるように話している。
不思議だな。この娘が何か頑張っている姿は、こっちも頑張ってやらなくちゃ、って気にさせる。
彼女は、そんな魅力を持っている。
「周りは私達を比べてはいるけど、それは違う……私はサクライくんとは、違い過ぎる。私はただの優等生なだけ。成績がよくても、まったくそれを他に生かしていない。あなたは私と違って、学んできたことを、テスト以外でも形に出来る人だと思う。それが私にはうらやましくて……」
「……」
「私、自分が悩んだり、苦しい時、将棋とかチェスで、名人の打ち方を真似るのと同じで、サクライくんならこんな時、どんな一手を打つんだろう、って、そういう視点で物事を考えることがあるんだ。そうやって考えると、予想以上に物事がうまくいったりして。サクライくんなら、こういう時、どうやって行動するのか、知りたくもなる時がある」
「……」
「何だろう。私はもっとサクライくんの、そういう一手を見たいのかもしれない」
「――つまり、その一手を、僕から引き出そうと、今もこうしてやり取りしている――と?」
「うん。私にとっては、すごく困難なことでも、サクライくんは辛い顔一つせずに、やり遂げてしまうような――私から見て、サクライくんは、そんな力を持っているように見えて。言い方悪いけど、私はサクライくんから、何か盗みたいのかもしれない。自分の人生を切り開く、きっかけみたいなもの」
「――買い被り過ぎだろ」
照れを隠すように自嘲する僕。
その一方で、僕は彼女の話に聞き入っていた。
彼女が僕を羨み、僕も彼女を羨んでいた。僕と同じ、比較されてはいても、両者の決定的な差を感じている……
羨み、憎み……多くの感情が入り混じり、僕達はお互いの生き方に惹かれ合う……
彼女の想いは、僕と同じだろうか。この世で自分と同じ考えの人がいる。それを聞いて、彼女の言葉、声に惹かれている自分の存在に気付く。
「……」
そこで言葉が途切れた。話しているうちに、お互いが、これ以上は危険だ、と察したのだろう。
少なくとも僕は、彼女のその言葉を聞いて、彼女の思いに惹かれて行く自分を感じた。その感情は、ひどく照れくさくて、彼女の目を覗き込むこともはばかられるほどの。
この娘は僕のことを、無敵のヒーローみたいに思っているなんて、想像もしていなかった。彼女が誰かを尊敬するなんて、周りにそんな対象がいないと思っていたから。
でも――
そうだったな、彼女はこういう娘だ。自分が上に立っているからって、誰かを見下したり出来る娘じゃない。それよりかは、自分に自信がなくて、いつも遠慮がちに立っている女の子だ。
長いこと話していなくて、そんなことも忘れていた。彼女の本質を見失っていたのは、僕の方だ。
それがわかって、ますます僕は彼女に対しての関係がわからなくなる。
僕達はお互いに、お互いを羨んでいて、僕はそんな彼女を、敵だと思っていて……彼女は僕を、理解しようとして……そして、今は。
僕が、彼女を『敵』だと思っていたのは、僕の感情がそうさせたことで。
僕は本当は、彼女をどう思っていたんだろう。
彼女を無視する、ずっと前は……
「……」
思い出そうとしたが、もう、思い出せなかった。