表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
319/382

Coffee

「……」

 僕が海外から帰ったりすると、トモミはいつだって、こうして親しみを込めた柔らかな微笑みを浮かべて、いつも僕を出迎えてくれていた。

 見慣れたいつもの光景。僕はそんな微笑みに出迎えられて、コーヒーを所望する、いつもと同じ光景。

 だが――今はそんないつもの風景に、何か特別めいた感情が沸き起こっていることを、おぼろげに僕は感じていた。

 それは、どこか懐かしいような、郷愁めいた気持ちで……

 ――あぁ、この感情に僕は覚えがある。

 シオリの、あの、えへへ、という照れ笑いが僕に向けられた時に感じた暖かさ――あれに少し感じが似て……

「おぉ」

 そんな思考がぐるぐる回っている時に、僕の姿を確認したリュートが僕に駆け寄ってきて、僕に足元に擦り寄ってきた。

「リュート――久し振りだな。心配をかけたな」

 リュートとは、あの会社で血を吐いた時以来――実に今日で10日振りの再会だった。

 7年前から旅に出てからというもの、僕とリュートは常に一緒の相棒だった。僕の仕事の都合などで離れたとしても、せいぜいそれは一晩程度。だからこんなに再会に間が空いたということが、妙に不自然に感じられるほどだった。

 僕はその場にしゃがみ込んでリュートの頭を撫でた。リュートは気持ちよさそうに目を閉じた。

「ふふ……」

 そんな僕達を見て、トモミは柔らかく笑みをこぼした。

 僕は顔を上げる。

「……」

 お互いがお互いの目を見ながら、しばらく沈黙した。

 実際昨日会ったばかりなのに、僕はこの一日で、彼女に対する視点がかなり変わっていた。

 トモミが、どんなに僕を想っていたのか――ユータとジュンイチに、僕が愛想を尽かされないようにと、陰で骨を折ってくれていて。

 ――それに対して彼女は、恩着せがましいことを僕に一言だって言わなかった。

 僕は、そんなトモミに対して、ありがたいやら、申し訳ないやら……

 先日の告白のこともあって、彼女に対する想いは混沌としていた。

「あ、あの――じゃあ私はこれで……」

 しかしトモミは僕の視線に少し焦れたのか、照れくさそうに眼を逸らして、その場を立ち去ろうとした。

 あの告白以来、トモミは気まずさもあるのだろうか、僕に対して少しよそよそしい態度をとるようになっていた。

「あ、あの、ちょっと待って」

 僕は思わずトモミを呼び止めた。マンションのエレベーターに向かっていたトモミは、僕の声に足を止めて振り向く。

「――折角だし、お茶でも飲んでいってください。10月とは言っても、寒い中待たせちゃったから……」

 ――実際、こんなことを言いながら、自分の声が、若干うわずっていることを僕は認識していた。慣れないことをすると僕はいつもこうなのだ。

何故トモミを呼び止めたのか、理由はいくつもあったけれど、多分僕は今、トモミと一緒にいたいのだろう。

 トモミの顔を見て、今の僕にはいろいろな思いが渦巻いている。その正体を見極めたかったし、彼女の喜ぶことを、何かしてあげたかった。

「――いいんですか?」

 トモミは少し遠慮がちに、だけど少し嬉しそうに顔を上げた。

「ええ」

 僕はそう言って、自分の財布からカードキーを取り出して、鍵を開ける。

「さ、どうぞ」

「――お邪魔します」

 もう何度も僕の部屋に来ている彼女だが、何だか初めて僕の部屋に来たようなリアクションで、彼女は僕の部屋に入った。

 ――そうか。エイジに鍵を渡されて、今までこの部屋で僕の世話をしていたトモミだけど、僕が自分から彼女を部屋に招いたことはないからな……

 トモミが部屋に入ってから、僕とリュートも部屋に入る。思えばこの部屋も10日振りか――

「適当に座ってください。今日は僕がトモミさんにお茶を淹れますよ」

 僕はトモミをソファーに促しながら、着ていたスーツのジャケットを脱いで、クローゼットのハンガーにかけた。

「トモミさんは、紅茶の方がいいんでしたっけ」

 まだ所在無く、キッチンの前で立ち尽くしているトモミに、僕が訊いた。

「え――社長が私にお茶を淹れるんですか?」

 意外そうな顔をされた。普段僕はそこまで偉そうに振舞っていただろうか。

「――いいですよ。私が淹れますよ。社長だって、まだ病み上がりでお疲れでしょうから」

 恐縮したように、トモミがキッチンに入って、キッチンの台に置いてあるコーヒーの缶に手を伸ばした。

「あ……」

 だけど、お茶を淹れる準備をしていた僕も、もう無意識にコーヒーの缶に手を伸ばしていて。

 二人の手が、缶の手前で触れ合った。

「あ……」

 二人の息が微かに漏れる。

「ご、ごめんなさい。私……」

 トモミはばっと自分の手を引いた。

「――い、いや、僕こそ……」

 ――な、何ドキドキしてるんだよ、僕は……

 病室で、彼女に抱きしめられた時の肌の感触や体温が、あの時と同じで妙に生々しくて……

「……」

 沈黙。

「――あ、あの、社長、昨日お風呂とか入ってないんじゃないですか?」

 トモミの声がそれを破った。

「――あぁ」

 居酒屋で酒に酔い潰れて、ユータ達にホテルに運ばれて、目が覚めたけどまた眠ってしまったからな……

 さすがにトモミは、もう僕との付き合いも長いせいか、見ただけでわかるのか……

「――じゃあ、社長はシャワー、浴びてきた方がいいですよ。その間に私がお茶を淹れれば、無駄もないでしょ?」

「――あぁ、そうですね」

 確かに、それが一番無駄がない、建設的な意見だ。僕は素直に従うことにした。

 僕はリュートをリビングに置いて、一人シャワールームに入る。

「はぁ……」

 シャワーを浴びながら、僕は自分がこういう分野にからきしだということを、7年振りに実感するのだった。

 元々僕は人一倍羞恥心が強いから、なかなか甘えや弱さを人前にさらけ出すことが出来なくて。

 それが原因でシオリにも、随分心細い思いをさせてしまった。

 ――きっと今のトモミだって、僕と同じで心中穏やかではないだろう。

 だが、それが分かっていても、自分はそういう、いわゆる「女心」がよくわからなくて、上手く彼女の緊張を和らげたりしてやれない。

 元々恋愛向きのキャラクターではないのだ。

「……」

 そんな僕が、7年前はシオリといつだって一緒にいたいと思い。

 そして今、トモミに対して、そんな思いを抱き始めている……のか。

 自分では、女性と一緒にいることは苦手だと思っているのに。

 7年前の僕を救ったのは、そんな、苦手だと思っていた女の子――シオリの包み込むような愛と、優しさだった。

 7年間、ずっと己の研鑽だけを考え、誰よりも強くあることを望んでいた僕は、いまだにそんな、女にすがるということを上手く受け入れられてはいない。

 だが――もうそんなことも言ってはいられない。こんな馬鹿野郎を、拙くても一生懸命愛してくれた女の子が二人もいて。

 自分の生きてきた環境がどうとか、そんなことを言って逃げている場合じゃないことくらい、僕にだってわかる。

 ちゃんと結論を出さなくちゃな……



 僕の持っている服は、スーツしかないから、新しいワイシャツとスラックスに袖を通して、僕はリビングに戻った。

 リビングではもうトモミがテーブルにカップを用意していて、僕が戻ってきたのと同時に、落としたてのコーヒーを僕のカップに注いだ。

 そして、紅茶派のトモミも、自分のカップにコーヒーを注ぐのだった。

「あれ、トモミさんもコーヒーなんですか?」

 僕は出会ってから1年ちょっと、トモミがコーヒーを飲んでいるのはほとんど見たことがない。

「――ちょっと、今日は社長と同じ、ブラックコーヒーに挑戦しようと思って。久し振りに」

 久し振り?

 僕もテーブルに着いた。残念ながら甘党でない僕は、部屋にお菓子を買い込んだりしていないので、お茶を淹れてもお茶菓子もないんだけれど。

 トモミのコーヒーは、いつもの味だけど、缶コーヒーなんか比べ物にならないくらい、ずっと美味しい。香りが立っていて、シャキッと目が覚める。

「う……」

 しかしトモミは自分のカップに口をつけると、しばらくそのまま固まった。

 そして、眉間に少し皺を寄せたまま、カップを皿に置いた。

「――やっぱり私には飲めない。何で社長、こんな苦いだけのもの好きなんですか?」

 少し顔をしかめて、トモミは僕に言った。

 コーヒーは、僕が幼い頃から愛用している睡眠抑止薬だ。中学までは勉強、高校からはアルバイト、そして今では仕事に追われる僕は、長年睡魔との戦いに身を置いてきたから、コーヒーはその頃から飲んでいて、今では僕の五感で最も退化している味覚に、一番しっくりくる味になっている。

「――だけど、飲めないのにこんなに美味しくコーヒーを淹れられるなんて、すごいですね」

 僕はカップを持ったまま、トモミに言った。

「僕もフランスやイギリスで、自分でコーヒーを淹れてましたけど、こんなおいしいコーヒーは自分じゃ淹れられなかったから……」

「――私、研究したんですもん。コーヒーの淹れ方。お母さんに飲んでもらって」

「……」

「社長、はじめは秘書を持つことにあまり賛成してなかったから、まず打ち解けるなら、美味しいコーヒーでも淹れるのが一番って、あいつに教わって……」

 ――エイジの奴……

 トモミは徐々に視線が下がっていく。

「――わ、私が淹れたコーヒー、社長が初めて飲んだ時のこと、覚えてます?」

「……」

「今まで無愛想だった社長が、コーヒーを飲んだ瞬間、美味しいって、すごい食いつきようで。あまり話してくれなかった私に、淹れ方とか豆の銘柄とかを聞きに来て」

「……」

 そうだったかな――なんか恥ずかしいな。

「でも――その時の社長の子供みたいに好奇心をむき出しにした顔が、何だか嬉しくて……私、それからもコーヒーの淹れ方、最後の一滴とか、蒸らし方とかも色々研究しちゃったんです」

 まるで恥ずかしい過去を暴露するかのように、トモミは遠慮がちな声でそう言う。

「……」

 僕は自分のカップに残っている、ミルクも入れていない褐色の液体に視線を落とす。

 たかが一杯のコーヒー。だけど、僕を喜ばせるための真心がいっぱい詰まっている。

 彼女はずっとそうやって、僕を支え続けてくれた。駄目な時は叱ってくれて、いつでも僕を見守ってくれていた。

 そんな彼女と、一緒になれたら……

 きっと彼女となら、穏やかに、だけど上手くやっていけるだろう。

 この7年で出会った女の子達には見えなかった、二人で暮らす未来が何となく見える気がする。

 そう、一歩踏み出せばいい。そうすれば……

 ――数日前に決断していれば、それでよかった。

 でも、そうもいかなくなったのは。

 マツオカ・シオリのことを知ってしまったから。

 シオリが今、他の男に愛され、幸せに暮らしているのだとすれば、ちょっと複雑ではあるが、僕もトモミを選ぶことに問題はなかった。

 だが――そうじゃなかった。シオリにはこの7年間で、不幸があって、今もその不幸の中でもがき苦しんでいるかもしれない。

 そんな彼女のことが、少なからず気にかかっている僕。

 そして、僕の心の中から、シオリのことが消えていないことを知っているトモミ。

 ――今のまま僕がトモミと一緒になっても、トモミはずっと、僕の心の奥に居続けるシオリの陰に疑心暗鬼しなければならない。

 それは、結果的に今以上にトモミを傷つけやしないだろうか。

 いや、それ以前に。

 僕はトモミの優しさの裏側に、無意識にシオリの面影を重ねていないだろうか。

 7年前のシオリの代わりを、彼女に求めていて。

 それを彼女への好意と錯覚しているのではないのか。

「……」

 ――結局、シオリのことを完全に心から消し去ることをしない限りは、トモミのことを選ぶことはできないし。

 トモミを選ぶのであれば、シオリのこと――7年前の思い出も全部、捨てなければならない。

 一度に二人のことに、決着――何らかの答えを出さなければならない、ってことなのだ。

 だが――どっちも簡単に捨てられるものじゃない。

 優柔不断と言われるだろうが、それが僕の本音なのだ。

 多分、人生で一番頭を使う難問だろうな……


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もしこの話をお気に入りいただけましたら、クリックしてやってください。 小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ