Fresh
「う……」
どうやらいつのまにか眠っていたらしい。頬を風に撫でられて、僕は目を覚ます。
目を開けると、眼前には抜けるようなスカイブルーが無限に広がっていた。綿菓子のようにふわふわとしたものも見える。あぁ、これは空なんだと気付く。
僕の視線の高さに、無数の花が咲いている。体を起こすと、僕の周り360度、見渡すかぎりに花畑が広がっている。
色とりどりの花が統一性なく咲いていて……
僕のすぐ近くに、一輪の竜胆の花が咲いている。僕は座ったまま、手を伸ばして、竜胆の花を摘んだ。
顔の近くに竜胆の花弁を近付け、花の向こうの、地平線の彼方まで広がるような花畑を見渡してみる。
――おいおい、またここは三途の川か? やれやれ……
でも、ユータ達と最後に会うことも出来た。悪くはない……か?
だが、すぐに僕は、この場に川がないことに気付く。川もなければ、橋渡しの老人もいない。
一体、ここは――
とりあえず立ち上がり、あたりを見回してみる。
すると遠くに、白い服を着た人の姿が見えた。僕はなるべく花を踏まないように気を付けながら、革靴を進ませる。
「え?」
その近くに来て、足が止まる。
白のワンピースを身にまとい、花を摘むその女性は、黒く艶めく髪を風にそよがせ、甘い香りを残した。彼女自身もまるで花のように美しく、細身の体もまた花のようにたおやかだった。
「シオリ……」
僕がその名を呼ぶと、彼女は僕の方を振り向く。
それは、7年前に僕が別れたマツオカ・シオリの姿そのままだった。白い肌に小柄な身体、澄んだ瞳――全てが7年前のままだった。
そして、微笑んだ。僕達二人が愛を交わした頃のように。
「……」
だが、僕は何も言えない。言いたいこと、話したいこと、聞きたいことは山ほどあるはずなのに、それが多すぎて、どれをまず口にすればいいのかわからなくて。
彼女の姿形はあの頃のままで、背が伸びた僕を軽く見上げている。
彼女は体の前に両手を組むように出し、その両手で一輪の花を抱えていた。
その花は彼女の好きだと言っていた、僕が手に持つ竜胆の花ではなく……
桃色の、薄い紙でできたような花弁を持つ花だった。
その花は、確か覚えがある……それは確か、ひなげしの花……
「ケースケくん」
それを考えていた僕の思考が、彼女の声に引き戻される。僕は彼女の目を覗き込む。
「もう、私のことは忘れた方がいい」
彼女はそう言った。哀しげな声で。
「え……」
「あなたは生きて。あなたはこれから沢山の人を幸せにしてあげて。あなたの手は、もう誰かに差し伸べる強さと優しさを持っているんだから……」
まるで、祈りを込めるように彼女は僕に言った。
「そんな……僕は……」
僕にそんな力がないことはよくわかっている。僕は一人では、周りも、自分さえも見失う……
君が隣にいれば、僕はどこまでも強くなれた。だが、今は違う……
僕はもう、マツオカ・シオリが愛してくれた、サクライ・ケースケじゃない。
だけど……そんなことよりも、僕は7年振りに会う彼女の美しさに、息を呑むしかなかった。
そう、それはまるで、天使のような……
「え?」
僕は目を見開く。
彼女の背中には、真っ白な翼があった。大きな翼がワンピースの背中から生えていたのだ。
僕がそれに気が付くと、彼女はにこりと笑った。
「さようなら」
そう言って彼女は僕に背を向け、翼をはばたかせた。
僕は翼から起こる風に少しひるみながら、翼から羽が空に舞うのを見ていた。
そして、彼女の小さな体が少し浮き上がったと思うと、すぐに空の彼方へと飛び去っていく。
「待ってくれ!」
僕は花畑を走って彼女を追い掛けていた。だけど、俊足の僕の足でも、空を舞う彼女には追い付けない。彼女の姿が、どんどん小さく、見えなくなっていく――
「待って!」
僕は空に手を伸ばし、もう一度空に叫んだ。
「はっ!」
そこで目が覚めた。呼吸は荒く、汗をかいたまま、僕は上半身を起こしていた。
真っ暗な部屋だが、ベッドの上にいることはわかる。カーテンからわずかに漏れる明かりで、ベッドの横に電気スタンドがあるのが見えた。僕は電気を付ける。
部屋は豪華な装飾が施され、かなり広く、ベッドもキングサイズだ。僕はワイシャツにスーツのズボンを履いている。スタンドの下の時計を見ると、夜中の一時。
ここは……ユータに用意したホテルの一室だ。
その後、胸の中をぐるぐると蠢くような気持ちの悪さを感じて、思い出す。
そうか――居酒屋でマツオカ・シオリの話を聞いて、落胆した僕は、酒を無理にあおって、いつの間にか眠ってしまったんだ。ユータ達がここに運んだのだろうか。
「……」
僕は額に手をやる。
――何だ、今の夢は……馬鹿馬鹿しい。脈絡もなくて、意味もない。
――いや、それ以前に僕が酒で正体不明になるなんて、どうかしてるな。オヤジかよ、僕は。
彼女の夢で、7年前の、彼女を殴ったシーン以外の夢を見るのは久し振りだ。ここ最近は、あのシーン以外で彼女の夢を見ることもなかったのに……
ユータ達に会ったから? ユータ達に彼女の話を聞いたから?
「いやぁ、さすがに腹一杯だぁ」
ユータの声が聞こえた。僕の視線の先のドアの先からだ。
「久々の日本食じゃ、コンビニのおでんでも美味かっただろ」
今度はジュンイチの声。
「……」
僕はベッドから出て、声のしたドアのノブに手を掛ける。
「本当はケースケとも、再会の日は朝まで飲んで語り明かしたかったんだがな」
ジュンイチの声に、僕ははっとドアノブを離す。
「やめておけ。あいつはもしかしたら今、7年間で初めて体を休められているのかもしれないからな。酒の力を借りてでも、一瞬でもあいつの業を忘れさせてやれるなら――そうさせてやりたいな、俺は」
ユータの声がした。
「――そうだな。あいつはこの7年間、想像もできないくらいの苦しみを味わってきたんだもんな」
「……」
僕はそっとノブに手を掛け、隙間をわずかに作り、そこから部屋の向こうを覗き見る。
スイートルームの豪華なソファーに二人が腰掛け、その前の小さなテーブルには、コンビニのおでんの容器に、さきいかや柿の種のような袋が見える。ビールやチューハイの缶が何本も置かれている。
「……」
何こそこそしているんだろう、僕。
ドアを音がしないように閉め、僕はドアに背を向け、寄り掛かり、座った。
「――だけど、ちょっと安心したぜ」
ジュンイチが沈黙を破る。
「俺はケースケが、あんなことがあって心が壊れちまった上に、とんでもない速さで世界のトップランカーに駆け上がっていくのを見て、何だか俺の知らない奴のように思えた時もあったんだけどよ……」
「ああ、確かに目の輝きはあの頃よりも随分失われちまったけれど、あいつの奥にあった、バカ正直なくらいの無垢な部分とか、底光りするような深い目の色は、全然変わってなかったな。あいつは7年前と、本質的な部分は何にも変わってなかった」
「ユータもそう感じたか」
ジュンイチは割符を合わせたことに喜びの声を上げる。
「ああ。むしろあまりに変わってなさすぎて、びっくりしたくらいだったよ」
「……」
――それは褒め言葉なのか、悪い意味なのか、僕は複雑な気分になった。
「――ま、それはあいつが純粋過ぎる故なのかもしれないけどな」
またジュンイチの声がする。
「どういうことだ?」
「――あいつはさ、ずっとずっと自分の中の時間が止まってたんだよ。海外にいる時から、つい最近まで、ずっと」
「……」
「元々あいつ、何かあると、そのことにしか眼中に入らなくなる傾向があったからな。あんなことがあったんじゃ尚更さ、見て見ぬふりを決め込むことも、怒りが風化することもなくて――だから、7年前に誓った、自分の家族への復讐心とか、色んなものが7年前のまま保存されてた――俺達と袂を分かったことへの痛みも、ずっとあの時のまま――」
「――なるほどな。だからまだ、あいつの心の傷は生々しいままだった。7年経っても、それ以外のことが考えられなかったくらい……だから、7年間、そのためだけに生きてしまった。自分の未来も、安らぎも全部捨てて……」
「――ああ」
「……」
沈黙。
「あいつが俺達に、あんな別れ方をした後でも、自分は何とか頑張っているってところを見せたいっていう思いは、あいつがフランスでサッカーをやっている映像を見た時から、ずっと感じていたけど……」
ユータの声。
「あいつがあそこまで力をつけたのは、自分の家族がしたことと、自分がしたことへの償いのため、か。それが重過ぎて、その気持ちが時間が経っても全然軽くならなくて、自分を追い込んじまったんだろうな」
「……」
「ジュン、お前も今日のケースケの目を見て、感じなかったか?」
「ん?」
「今日のあいつの目、高校に入って、俺達と初めて出会った頃の目に似てた。そう思わないか?」
「ん? あぁ……そうだな。あの頃って言えば、ケースケが自分の高校生活の学費を貯めるために働いて、家族に負けない力が欲しくて、それ以外のことは全く目に入らなかった――そんな頃だよな」
「ああ」
「……」
目――僕は自分の指で、自分の目から頬のあたりをなぞってみる。
昔から僕は、他人から目のことをよく言われる。目は口ほどにものを言うと言うけれど、僕はその傾向が人一倍強いのだろうか。自覚はないけれど。
――いや、きっとそうなんだろうな。便りも出さず、メディアにほとんど出なかった僕が、7年間、あいつらに何かを償いたいと思っていたことまで、あいつらは全部お見通しだったなんて。
「ん? だけど、俺はあの頃と全く同じとは思えなかったけどな。確かに思い返せば似ているとは思ったが……」
そんな思案を巡らせている時に、ジュンイチの声がした。
「あの頃のケースケの目は、やさぐれてはいたが、迷いなんか全く含んでいないような、冷酷な目をしてた。でも、今日のケースケの目は、あの頃よりも、少し優しい気がしたな……」
「……」
「――そりゃきっと、シオリさんのせいだろうな」
ユータの声。
「昔のケースケは、愛情とかぬくもりってものを全く知らなかったが、シオリさんのおかげでそれを知った。それがまだあいつの心の中に生きているんだろうぜ」
「――そうか」
「――ま、なまじそんなものを知っちまった分、あいつは優しさと非情の狭間でより強く揺れるようになっちまった。冷酷に徹しようと思っても、そのせいで冷酷になりきれない――あいつの中のシオリさんの思い出は、あいつをこの7年で、血も涙もない奴に変えないでくれたが、シオリさんの幻影を追って、あいつにより大きな苦しみを与えちまったんだろうな」
「……」
「そこまで思いが生々しく残ったのは――やっぱり、あいつがシオリさんを殴っちまったからなのかな」
ジュンイチの声。
「あいつ――シオリさんを探すのかな」