Smile
「――どうする、とは?」
僕は顔を上げる。
「そりゃ決まってるだろ」
ユータが手に持つジョッキのビールをひと飲みした。
「悲しみのお姫様を救うのは、王子様の役目だ」
「……」
「お前、イギリスじゃ、ナイトの称号ももらったんだろ? 騎士はお姫様を守るもんだぜ」
ジュンイチもビールを飲みながら、僕にそう言った。
注文した料理が、運ばれてくる。テーブルはたちまち料理で埋め尽くされた。
「……」
僕が、彼女を……
「僕が王子様かどうかは知らないが……」
二人の恥ずかしいノリに同調できなくて、僕はそう言う。
「僕に、そんな資格はあるのかな……」
「ん?」
「僕は7年前――彼女を守ってやれなかった」
言いながら、僕は自分の左手を見る。
「僕は、彼女を、この手で……」
「……」
彼女はいつも、僕に手を差し伸べてくれていた。
その手を拒み、彼女から離れたのも、僕だ。守るどころか、彼女を殴ってしまった。その嫌な感触が、まだ僕の左手に残っている。
僕は彼女とのつながりを、全部自分で壊したんだ。
そんな僕が、今更都合よく、彼女の前に現われるなんて――
大体、僕は彼女の何を知っているだろう。
僕達が同じ時を過ごした時間はあまりに短く、僕はかつて愛した女のことさえ、よくわかっていない。
そんな僕が、彼女の何であると言うのだ。
「ケースケ研究家の俺が、今お前が何を考えたか、当ててやろうか?」
ジュンイチが箸で軟骨の唐揚げを口に運びながら言う。
「僕と彼女が付き合ってたのは、ほんの半年程度――どのツラ下げて彼女に会っていいかわからない……だろ?」
「……」
図星を突かれたが、認めるのが悔しくて、僕は目の前のビールを飲み干す。
「年月がそんな大事か? 俺は高校時代、お前等のこと、すごいお似合いに見えたけどな」
ユータは焼き鳥に手を伸ばす。久々の日本の味に、ニコニコ顔だ。
「律儀な奴だ」
焼き鳥を噛み締めながら、ユータは笑みを浮かべる。
「まったく――人の心がわからないとは、悲しいタチだな」
ジュンイチはそう言ってから、近くを歩く店員にビールのおかわりを注文した。
「お前が人の心を、今よりもうちょい理解できていれば、もっと楽に生きられたろうに……」
「……」
その通りだ。僕は人の心がわからない。だから人を傷つける。
高校時代から、僕は小手先の知識だけを追い求め、人の心なんて見向きもしなかった。
今になって、その大切さに気が付くなんて……
「なぁケースケ、これは俺の偏見ではあるが……」
ユータがホッケの身をほぐしながら言う。
「俺は、お前と彼女、すげぇいいカップルに見えたんだ。だから俺はお前等を応援したい。今もな」
「……」
「それに、彼女がお前以外の男を好きになるとは思えないんだがな、俺は」
「え?」
「同感だな」
ジュンイチが言う。
「ま、願望でもあるかな。彼女はいい娘だ。俺達も彼女には幸せになってもらいたい。だから、つまらない奴に渡すくらいなら、お前と一緒にいてほしい。彼女を笑顔に出来るのは、お前しかいないんだからな」
「……」
沈黙。
「ケースケ、別に俺はお前をけしかけたくて言うんじゃないんだが……シオリさんは、多分お前をお前以上に愛していたんだろう。たとえお前がいなくなっても、お前の影を追っていたと、俺は思うぜ」
ユータがほぼ確信有りげに言った。
「お前、高校の時、結構日本を空ける時もあって、シオリさんを一人にさせてたことがよくあっただろ。あの頃、俺シオリさんに聞いたことがあるんだよ。辛くないか、って」
「……」
「そしたら彼女は言ってた。ケースケくんは龍の化身だから、風が起きたらじっとしていられない人なのを知っているから」
「……」
「そんな時のあの人は、まるで子供みたいに笑うでしょ? 私はあの人がどこにいても、笑顔でいてくれればいいの。私はあの人の笑顔が大好きだから、ってな」
「……」
あぁ……今のは彼女の言葉だ。7年ぶりに聞く彼女の言葉だ。僕に笑顔でいてほしいと願ってくれた、彼女の言葉だ。
「ケースケ、シオリさんは最後まで、お前が笑顔でいてくれるように願ったんだ。だから怒りに我を忘れたお前をあの時止めたんだ。きっと、今も……」
「彼女が……」
「あの娘はお前に復讐なんか望んでなかった。望んでいたのは、お前が笑顔でいられるままの、幸せな未来だったんだ」
ジュンイチも言った。
「……」
沈黙。
「ユータ、ジュンイチ――教えてくれないか?」
僕は俯きながら、二人に聞いた。
「僕は7年前――もう日本に居場所がなかったんだ。僕が近くにいると、周りの人に迷惑がかかると思ったんだ。いつか、お前達にも」
そうだ。父親を半殺しにして逃げ出した僕に安息の地はもうなく、僕は誰かに匿われながら生きるしかなかった。だが、僕の失踪で騒ぎはますます大きくなって……いつまでも隠れるわけにも、今のままでのこのこ表に出ることも出来なかった。
僕はもう、誰も自分の復讐に巻き込むことは出来なかった。だから日本を出て、一人で生きていかなくちゃと思ったんだ。
「彼女のことも――あの頃の僕が彼女の前に戻っても、僕に関わった分、マスコミに狙われるし、復讐に生きることを決めた僕が戻っても、お互いを思いやれずに壊れるだけだと、そう思ったんだ」
だから彼女からも離れた。もう僕は彼女を傷つけることしか出来ない。彼女をマスコミの好餌にさせるわけにもいかない。僕が彼女の前から消えることが、彼女の幸せになると思っていた。
「でも――彼女は、それさえも受け入れてくれたんだろうか……彼女は、僕にそばにいてほしかったのか? 僕はどんなに辛くても、彼女のそばから離れちゃいけなかったのか?」
僕にとって、何が一番大切なのか――
何故僕はそれがわからなかったのか――あの時ああしていたら――そんな後悔ばかりが心を去来する。
僕は、何もわかっていなかったのか? 彼女のことも……
「――少なくとも俺はそう思う。彼女はお前の悲しみも、一緒に背負う覚悟をしていたと思うぜ。お前がこの先、どんな茨の道を進むにしても、お前を支えていく覚悟があったと思う」
ユータが言う。
「あぁ、彼女はお前の幸せを願っていた。俺は彼女が今もお前をどこかで見ていると信じている。大学時代に、数えきれないほど男に言い寄られても、心を動かさなかったシオリさんを見ている限り、そう思うぜ」
「――そうか」
二人の言葉を聞いて僕は、たまらなく悲しくなった。
――僕は大馬鹿野郎だ。
あの頃の僕は、彼女の何を見ていたのか……自分の気持ちばかりに気が行って、彼女の悲しみに気付いてやれなかった。
僕が一番守らなくちゃならないもの――それは、彼女だったのに。
それを忘れて僕はこの7年、自分で自分を過ちで汚し続けてきた。沢山の人を自分のために、ほとんど意味もなく憎み、傷つけてきた。人を愛することを忘れ、世の中を呪いながら生きてしまった。
そして、僕が日本を出ている間に、彼女に不幸が訪れた。
僕は――また彼女を守れなかったんだ。
僕の中に7年の過ちが溢れると、胸が抉られるように傷んだ。
「――すいません」
僕はこの店に来て初めて自分で店員を呼び止める。
「ビール」
僕がそう注文すると、店員は騒がしい店内を満たす音をすり抜けて、ビールの注がれたジョッキを持ってきた。
僕はジョッキを手ずから取ると、ビールを一気に飲み干した。まだ回復していない器官に焼け付くような感覚が残る。
「おいおい、無理するな。お前もともと酒は弱いし、病み上がりだろう?」
ユータが僕に心配そうに声をかけた。
「――今日は飲むさ。潰れるまで飲むよ」
僕は嗚咽のように言葉を吐く。
「僕は馬鹿だ。大馬鹿野郎だよ」
僕はもう一杯ビールを頼み、肝臓に無理に流し込む。僕は煙草も趣味もギャンブルも知らなくて、他にこの思いを紛らわす方法を知らなかった。
苦い液体を体に流し込むと、無力感に体が苛まれ、体がテーブルに崩れ落ちて……
肩が震えた。
――どうかしてるな、今日の僕は。また泣いてる。子供みたいに……
「ケースケ、借金取りだって結論を出すのにしばらく待つっていうし……突然のシオリさんの話に、混乱もあるだろう。すぐに答えを出せとは言わないが……」
またユータが口を開く。
「なぁケースケ。サッカー選手の寿命は短い。俺はもう日本代表の中心なんかに担ぎ上げられてよ……これからどんどんベテランとか呼ばれて、サッカー引退したら、一気に老け込んでいくんだろう」
「……」
何の話だ? 僕は顔を上げた。
「俺もそうだな。俺はもうかみさんもいる。いつか子供が産まれて、子供がでかくなって、クソオヤジって言われながら、かみさんと一緒に歳をとっていくんだろう。これからはジジイになる一方だ」
ジュンイチも言う。
「……」
「ケースケ、お前はずっとガキのままでいいよ」
ユータが言った。
「え?」
「お前が初めてシオリさんを紹介した時、お前は初めて俺達の前で、ガキみたいに笑った。その後もサッカーを楽しみはじめた時――新しい世界をのぞく時、お前はいつも笑ってた」
「お前が日本を出てから、俺達の耳に届くニュースは、ガキの遊びみたいにはしゃぐお前の姿だった」
ジュンイチもそう言った。
「ケースケ、お前はこれから、あの時みたいに笑える道を探せ」
ユータが言った。
「……」
「お前は俺達とは違う。お前は俺達の青春のシンボルなんだ。これからもガキみたいに泣いたり笑ったり……お前にはいつまでも少年のままでいてほしいんだ」
「……」
「それがシオリさんの望みだったんだ。シオリさんのためにも、お前は笑って生きるんだ。彼女もまだどこかで、お前の笑顔を待っているはずだから」
ジュンイチの言葉に、僕の思考は過去へと引き戻される。
エイジと大喧嘩して病院に運ばれた僕を、泣きながら怒った顔。自分の生きる意味に悩みながら、家族のために気丈に振る舞う顔、その中で僕にだけ見せた不安げな顔。ユータ達と馬鹿話をしているのを聞きながら、可笑しそうに笑う顔。二人きりの時の、穏やかな笑顔――
彼女の笑顔が、言葉が、存在が――ただ、欲しかった。初めて結ばれた夜を越えて、あの家に帰る僕に、きっと大丈夫だと言ってくれたように……
7年前――あの頃の僕の生きる意味は、彼女の存在だった。彼女を守るだけの力が欲しい。彼女の笑顔が見たい。それが僕を天に昇る龍が如く、突き動かした。
今ではそれを失い、僕は生きる意味を失った……
僕が笑うには……隣に彼女が必要なのだろうか。
そのために彼女を探すことは、僕に許されているのだろうか……
一度ここへの投稿を間違えて、別の作品の方を載せてしまい、ご迷惑をおかけしました。すみません。