Miserable
二人に会ってから、一緒に行動しながら。
実は僕はずっと、その娘のことを考えていた。7年前、ユータ達と馬鹿やっていると、そこにいつもいて、幸せそうに微笑んでいた彼女のことを。
そして。
「――お前達が、どうしてキャバクラなんかに行きたいって言い出したのか、やっと分かったよ」
僕は言った。
「見極めたかったんだな。僕の女関係」
「別に疑ってたわけじゃないんだぜ」
ジュンイチがビールの入ったジョッキをテーブルに置く。
「俺もカメラマンなんて仕事をしていると、アイドルやモデルを撮影する機会もたまにあるからな――そんな時、お前と一緒に仕事をしたそんな娘達にお前のことを色々訊いたり、訊かれたりしてな。だから、お前が7年間、女に脇目も振らずに働いていたことも、ある程度知ってたんだ。だけど、自分達の目でも、それを確かめたくてな……そしたらお前、やたらもてるが、あからさまに女を拒絶してたな」
「……」
「試すみたいなことして、悪かったと思っているよ。でも、7年間女を遠ざけている理由を思うと、ずっと心配してたんだ。お前が女を遠ざける理由なんて、あの娘のことしか思い浮かばなかったしな」
「――いや、いいよ」
二人がそのことを心配していることは、僕にも想像がつくから。
「でも、よかった」
ユータが言った。
「お前があの娘のことを忘れて、女の子達をとっかえひっかえして、ハーレムやらパーリーやらではっちゃけてやがったら、いくらお前でも、俺達はお前をぶっ飛ばさなくちゃいけなかった。そうならなくて、今はほっとしている」
「……」
「そうしなかったら、彼女があまりに可哀想過ぎるからな……」
「……」
あまり考えないようにしていたのに、二人が彼女のことを初めて話題にして、それを僕に突きつけてきて。
もうそうしたら、どうしようもなくなってしまった。
この二人なら、彼女があれからどうなったのか、今どうしているか、知っているかもしれない……
もう会う気はない、そう決めていたはずなのに。
そんな思いが一気にはじけてしまった。
「――なあ、彼女は――マツオカ・シオリはどうしている? あれから彼女はどうなったんだ?」
僕は少し興奮気味で、二人の目をしっかり見て、そう問い詰めていた。
「……」
二人は互いの顔を見合わせ、しばらく口をつぐむ。
「――その様子じゃ、お前も彼女から連絡が来てないんだな。そして、お前も彼女の家に行った」
ユータが言った。
「――お前も?」
「あぁ……」
ジュンイチが息をついた。
「――結論から先に言えば、シオリさんは5年前に失踪したんだ」
「何!」
僕は体を乗り出す。
「お、落ち着けって」
ジュンイチが慌てて僕を制する。
「――すまない」
その声に、僕はもう一度座り直す。
「――順を追って説明してやるよ」
ユータが言った。
「お前、7年前に日本を出る時、シオリさん宛に手紙を書いて、それをシオリさんに渡すように俺に頼んだこと、今でも覚えているか?」
僕は頷く。
忘れるわけがない――僕はその手紙を、一晩泣きながら書いたんだ。
彼女が僕を忘れてくれるようにと思って、酷いことを一杯書いた。故意に彼女を効果的に傷つける言葉を捜して、その言葉が便箋に書く度に僕に返ってくるように、胸を切り裂かれた。
「それをお前の出国後に、彼女の家に行って、渡して――それから何度か、家に見舞いに言ったんだが、妹さん達の話じゃ、ずっと泣き崩れていて、外にもろくに出ない、食事もほとんど喉を通らなくなってしまったって。俺達が来る度に、俺達を家に上げて歓迎してくれるご家族も、みんな痛々しいなんてもんじゃなかったぜ……」
「……」
――そうなることくらい、予想していた。そうなることを願ってあの手紙を書いた確信犯は、僕なのに。
実際にそれを突きつけられると、心が痛む。
シオリがそうして泣き崩れ、ご飯も食べずに痩せ細っていく姿を想像するだけで、心がばらばらになりそうになる……
「お前、シオリさんの治療費に、500万を用意してたが、結局ご家族はその金、受け取らなかったぜ。どういう意図で受け取らなかったのかは、俺達が高校生だからか、その頃のご家族は答えなかったけどな」
ジュンイチはそう言って、自分の持っていた鞄から、古びた分厚い封筒を取り出して、僕に差し出した。それを受け取って中を見ると、中には500枚のピン札の1万円札が、5つの束になって入っていた。
「で、俺達があの、お前の学校での最後の日の次にシオリさんに会ったのは、埼玉高校の2学期の始業式だった」
ユータが代わって口を開いた。
「お前の心配していたシオリさんの顔の傷は、すっかり消えてたよ」
「……」
――よかった。
「その頃の彼女は少しやつれていたけれど、周りに笑顔を振りまこうと必死に努めているみたいでな。こっちが何か心配になってしまうくらい痛々しかった。だけどその反面で、シオリさんは目の色が変わったみたいに勉強していてな……まるで寂しさや憤りを隠すみたいに勉強に打ち込んでいて、とてもふざけ半分で声をかけられる雰囲気じゃなかった。結局、姿を見ることができたが、俺達はそんなシオリさんに、何の声もかけられなかったし、彼女も俺達と少し距離を置くようになった」
「……」
「だが、シオリさんはその成果もあって、東大文Ⅰに主席で合格したんだ」
「――え?」
「俺達もそれを見て、シオリさんが目の色を変えて勉強していた理由が分かったぜ。本当ならお前が取るべきはずの東大の主席を、誰にも渡したくなかったんだ。そして、それを取って、色んな人に、私は大丈夫だよ、って、伝えたかったんだろうな」
「……」
「で、主席合格の報が来ると、シオリさんは憑き物が取れたみたいにまた笑うようになってな。俺達の所にも謝りに来たよ。今まで心配をかけてごめんなさい、って」
「それを見た時は、さすがにほっとしたな。やっぱりシオリさんは、あの、えへへ、って照れ臭そうに笑っている顔が一番可愛いって、改めて思ったよ」
ジュンイチが当時の思いを語る。
その言葉に呼応して、僕の脳裏にも、彼女の、その、えへへ、というあの笑い声――笑った時の顔が鮮明に蘇ってくる。
「お前がいなくなって、あの娘に告白するバカヤロウも殺到したぜ」
ジュンイチがそんな僕の目を覗き込んだ。
「え……」
途端、僕の胸はざわざわした。これは嫉妬だろうか。あまり経験のない感情……
「安心しろよ、結局シオリさんは誰の告白も受けなかったよ」
そんな僕を見て、ジュンイチはくくく、と笑った。そんなに僕、気持ちが表情に出ていただろうか。
「振られたからって、もうサクライはいないんだぞ、とか捨てゼリフ半分に彼女に言うバカヤロウも結構いたが、彼女はいつも毅然としてたよ。それが本心なのか、我慢なのかまでは分からなかったけどな」
「……」
何ほっとしているんだろう、僕は。
この7年、僕は彼女が、僕の知らない男の腕に抱かれて、白い肌に触れられ――僕の見たこともない彼女を見ている男がいると思うと、酷く気分が陰鬱になるという心情を数え切れないほど味わった。もう僕にはそんなことに文句を言う権利なんてないっていうことはわかっているのに。
――僕は彼女の今の様子が知りたいのか。それとも、彼女に今付き合っている男がいるかを知りたいのか、分からなくなってくる。
「そんでもって、埼玉高校を卒業して、俺達は全員別々の道――シオリさんは東大、うちの神さんは東京外語大のそれぞれ大学生、ユータはプロサッカー選手、俺はカメラマンの修行を始めて、進路はばらばらになったけど、互いに連絡を取り合ってて、月1~2回くらい集まって、4人で食事したりしてた」
「――まあ、そのほとんどはジュンを励ます会だったけどな」
ユータがおかしそうに笑った。どうやらアシスタント時代のジュンイチは、よっぽど師匠にきつくしごかれていたらしい。
「シオリさんはいつも忙しそうだったな。東大の主席をとったことで、大学から返済いらずの奨学金が出たから、ご家族に心配かけないようにそれで大学に通ってさ――うちの嫁さんと一緒にアイスクリーム屋で働きながら、家庭教師のバイトと掛け持ちしてさ。そうして稼いだ金で、シオリさんは楽団に入ったんだ。何でも学生だけで老人ホームとか、孤児院とかを回ってボランティアをしながら演奏を披露する楽団らしくてな」
「……」
――そういえば、シオリが言っていたな。大学に入ったら、入りたい楽団があると。プロに行けるわけでもない私の音楽でも、誰かに聴いてもらえる演奏ができる場所……
「俺達も一度招待されて、シオリさんの楽団のコンサートに行ったが、シオリさんは楽しそうにバイオリンを弾いてたぜ。楽団の活動を通じて、子供達と接する機会があって、それがすごく楽しくて、将来は児童関係の仕事をするのもいいかな、なんて、あの頃のシオリさんは嬉しそうに話していたよ」
「……」
東大主席の上、あの可愛らしい顔立ちや、男の心を癒す笑顔、守ってあげたくなるような華奢な風貌じゃ、年収が億を超える人気アナウンサーとかにだってなり放題だろうに――お金にならない児童関係の仕事を選ぶあたりが彼女らしい。目立つことが嫌いで、慎ましく生きることを好む女の子だったからな……
「だがな……シオリさんが大学2年に進学して、俺達が20歳になった年の春のことだ」
途端ユータの顔が深刻になる。
「突然シオリさんと連絡が取れなくなったんだ。メールは届かないし、電話をかけたら携帯が解約されたってメッセージが返ってくるのみで……」
「え……」
「俺達も、あの律儀なシオリさんが突然携帯を解約して、俺達に連絡ひとつよこさないのはおかしいと思ったからな。様子を身に、家に行ってみたんだ」
ジュンイチが言った。
「そしたら――シオリさんの家には『差押え』の札が貼られてて、もう入ることもできない状態になっていた。それどころか、家に黒塗りの車が止まってて、そこからいかつい男達がうろうろしていてな」
「――何だと」
「俺達がその黒服に訊いた話じゃ、シオリさんの親父さんが莫大な借金を抱えちまったらしい。そしてその借金を抱えたまま、シオリさんたちは一家全員、姿を消しちまったんだとか」
それを訊いて、僕の頭はがーんと殴られたような衝撃を受けた。
「そ、それはつまり、夜逃げってことじゃないか!」
僕は体を乗り出した。
「そうだな――その通りだよ」
ユータ、ジュンイチが頷く。
「そ、そんな……」
僕はそこに呆然と崩れ落ちる。
「――それ以来、シオリさんの消息は不明だ。調べたが、東大にも突然退学届を出して、大学内の誰も、それ以来シオリさんを見た者はいない……」
「――じゃ、じゃあ、まさかもう、一家心中しているってことも……」
「――考えたくないが、可能性はある……」
「……」
――嘘だ。
シオリに、そんなことが起こっていただなんて……
「――お前がフランスでサッカーをまたはじめて、復活の狼煙をあげたってニュースが日本中に流れたのは、シオリさんが失踪して、それほど日が経っていない頃のことだ」
打ちひしがれる僕に、ユータが言った。
「お前の大成功を、俺達と一緒に喜ぶこともできないまま、シオリさんは俺達の前から消えちまった……せめてもう少しだけでも、俺達と一緒にいられたら、って、俺達も喜びながら、その時は思ったよ……」
ジュンイチも声を震わせて、シオリの不幸を語った。
「……」
僕の目から、大粒の涙が伝った。涙を拭うことも忘れて――
僕はテーブルに崩れ落ちるようにして、嗚咽を漏らした。みっともないことを承知しても、今の僕はこの涙を止める術を持たなかった。
「――ケースケ……」
「――そ、そんなの――嘘だ……嘘だ……」
――そんなことがあってたまるか……
あのシオリが、幸せになれないなんて。
僕の事を守るために、その身を賭してくれた、あの優しいシオリが。
いつも幸せそうに微笑んで、皆の心を癒してくれたシオリが……
だが……
頭の中が沸き立つような、激しい悲しみの濁流の中で、僕はつい最近、深い眠りの中で見た夢を思い出していた。
三途の川の橋渡しに会って――その老人に言われたんだ。
彼女は今、悲しみの只中にいて……三途の川にも、一度来ている、と。
あの老人の言葉と、今、親友から聞いた彼女のその後――
――これは、偶然なのか?
「で? それを訊いてお前はどうする? 色男」
ユータが僕に訊いた。